第42話:開戦の理由は「お肌の乾燥」
ルクスヴェル大陸全土を覆い尽くした、血のように赤黒い空。
太陽の光は完全に遮断され、世界は不気味な薄暗さと共に、這い寄るような絶対的な死の気配に沈んでいた。
大陸の最北端『終焉の谷』より放たれた、古代の邪神の復活を告げる【絶望の魔力波】と濃密な瘴気。
それは、いかなる強者であろうとも精神を根底から打ち砕き、生きる気力すらも奪い去る神話級の災厄である。
王都では人々が恐怖に泣き叫びながら神に祈りを捧げ、辺境の村々は暴走した魔物たちの脅威に怯え、魔族の領土でさえも上位魔族たちが膝を突き、迫り来る世界の終わりに震えていた。
「もう終わりだ……! 神々すら封印することしかできなかった邪神に、我ら人間や魔族が束になっても敵うはずがない!」
「誰か……光の聖女様! 光の聖女様、どうか我らをお救いください!!」
大陸中の至る所で、悲痛な叫び声が木霊していた。
全種族が絶望の淵に立たされ、ルクスヴェル世界が文字通り【終焉】を迎えようとしている、まさにその歴史的、かつ絶体絶命の瞬間。
世界の命運を握る(と期待されている)光の聖女こと、最弱吸血姫シルヴィが滞在している聖都アイギス・聖王迎賓館のバルコニーでは。
世界の危機など宇宙の果てまで置き去りにするような、全く別の理由による【超ド級の緊急事態】が宣言されていた。
「んっ、……くしゅんっ! なんか今日、風が強くて、お肌がちょっと乾燥するかも……」
シルヴィが小さなくしゃみをした。ただ、それだけのことである。
しかし、その何気ない一言と愛らしいくしゃみは、彼女を狂信的に崇拝する七人の化け物たちの脳内リミッターを、木端微塵に吹き飛ばすには十分すぎた。
「ひ、姫様が……姫様がくしゃみをなされたァァァァッ!!」
獣人ロアンが、この世の終わりでも見たかのような絶叫を上げた。
「ええい、なにをボサッと突っ立っているダリウス!! 毛布だ!! 今すぐ姫様のお体を温める最高の毛布をありったけ持ってこい!!」
「言われるまでもないッ!! 俺の竜鱗の奥にしまっておいた、最高級の火竜の産毛で編んだ保温毛布三枚だ!! 姫様、どうかこちらへ!!」
身長二メートル半を超える竜騎士ダリウスが、光の速さでどこからともなくフカフカの毛布を取り出し、シルヴィの小さな肩に、二重、三重と過剰なまでに何重にも巻き付けた。
「あわわ、ダリウスさん、そんなに巻いたら暑いよぉ……ミノムシみたいになっちゃう」
シルヴィが毛布の山の中から困ったように顔を出す。
「暑いくらいで丁度良いのですわ姫様!! エラン! このバルコニーの湿度はいったいどうなっていますの!? 姫様の玉肌が乾燥するなど、精霊使いとして万死に値する失態ですわよ!!」
吸血鬼メイドのルルが、自らの血を原料とした(しかし全く血の匂いはしない)超高級保湿美容液を手に、血相を変えてシルヴィの頬にすりすりと塗り込み始める。
「わ、分かっておりますわ!! 今すぐ水と風の精霊を総動員して、この空間の湿度を常に六十五パーセントの完璧な美容状態に固定します!! ……クソッ、どこのどいつですの! 私の結界をすり抜けて、姫様の御肌から水分を奪うような、邪悪で野蛮な乾いた瘴気を流し込んできたのは!!」
エランが、かつてないほどの夜叉のような形相で杖を振り回し、バルコニーの空間そのものを歪ませるほどの魔力を放出し始めた。
「姫様! どうかこの、魔界の深淵で採れた生姜をたっぷりと使った、身体の芯から温まるハーブティーをお飲みください! 毒見は私が百回行いました!」
執事ノクティスが、一滴の無駄もない、しかし手の震えが隠しきれない所作で、湯気を立てるティーカップをシルヴィの口元へと運ぶ。
「アタシが徹夜で百個も彫り込んだ『絶対保湿ルーン』を貫通する乾燥だと!? ふざけやがって……! どこの馬の骨か知らねえが、アタシの鍛冶師としてのプライドを泥で塗りつぶしやがったな!!」
ドワーフのマイラが、鼻息を荒くして百キロのオリハルコンハンマーを床にめり込ませる。
「聖女様の御前を、あのような趣味の悪い赤い空で覆い尽くし、あまつさえ御肌にダメージを与えるとは! これ以上の神(聖女様)への冒涜が存在するだろうか! いや、ない!!」
聖騎士セリアが、聖剣を両手で握りしめ、空に向かって復讐の黒炎のようなオーラを立ち昇らせている。
「ええっと……みんな? 本当に大げさだよ?」
シルヴィは、毛布でぐるぐる巻きにされ、ルルに保湿クリームを塗りたくられ、ノクティスにハーブティーを飲まされながら、困惑したように苦笑した。
「ちょっと風が強かっただけだし、夕焼け(※邪神の瘴気で染まった空)で冷えてきただけだよ。……ふぁぁ。なんだか、ハーブティー飲んだらポカポカして眠たくなってきちゃった。私、お部屋に戻って少しお昼寝するね」
シルヴィが小さく欠伸をすると、七人の猛者たちは「おおおぉぉ……! 欠伸すらも尊い……!」と悶絶しつつ、ダリウスが毛布ごとシルヴィを抱え上げ、ロイヤルスイートルームの最もふかふかなベッドへと、ガラス細工を扱うよりも慎重に運び込んだ。
「おやすみなさい、みんな。……ぐぅ」
ベッドに横たわったシルヴィは、数秒で安らかな寝息を立て始めた。
万年レベル1の最弱吸血姫は、世界が滅亡の危機に瀕していることなど一ミリも知ることなく、極上のスキンケアと保温環境の中で、幸せな夢の世界へと旅立っていった。
***
——そして、シルヴィが完全に熟睡したことを確認した直後。
ロイヤルスイートルームの隣に設けられた、防音・魔力遮断の絶対結界が張られた会議室。
そこに、シルヴィを除く七人の従者たちと、ホログラムAIメイドの『アオイ』が集結していた。
部屋の空気は、先ほどのドタバタ劇から一変。
ルクスヴェル大陸の全生命体が震え上がるほどの、ドス黒く、重く、そして純度百パーセントの【極大の殺意】に満ち満ちていた。
世界の命運を左右する軍事会議などという生易しいものではない。これは、愛しの姫君の平和な日常を脅かした存在に対する、完全なる【私怨による処刑会議】であった。
「……さて。状況の整理はついているな」
円卓の中心で、ロアンが地獄の底から響くような声で切り出した。
彼の大剣『滅山』は、すでに鞘から抜かれ、いつでも山脈を両断できる状態にある。
「アオイ。先ほどの報告の続きを。姫様の御肌を乾燥させ、あまつさえ『くしゃみ』までさせたあの不敬な乾いた風……その発生源は、どこだ」
ノクティスが、血走った赤い瞳でホログラムのアオイを睨みつけた。
『ハッ。システムによる広域魔力スキャンオヨビ、大気成分ノ解析結果ヲ報告シマス』
アオイが、空中に大陸の立体マップを投影し、その最北端『終焉の谷』を赤くハイライトした。
『大陸最北端、終焉ノ谷。ココニ封印サレテイタ神話級ノ脅威、通称「古代ノ邪神」ガ復活シタコトニヨリ、莫大ナ瘴気ト絶望ノ魔力波ガ発生。コレガ偏西風ニ乗リ、聖都アイギスノ上空ニ到達。大気ノ水分ヲ奪イ、マスターノ御肌ニ「極メテ微小ナ乾燥」ヲ引キ起コシタモノト断定サレマス』
「……古代の、邪神、だと?」
セリアが、ギリッと奥歯を噛み鳴らした。
「神話の時代に世界を滅ぼしかけたという、あの破壊神か。……ふざけるな。神だろうが邪神だろうが関係ない!! 聖女様のお肌から潤いを奪うなど、宇宙の摂理に対する反逆だ!!」
「ええ、その通りですわ!!」
エランが杖を床に激しく叩きつけた。
「空を赤く染め上げるなど、趣味が悪すぎます! 姫様の優雅なティータイムの背景は、抜けるような青空と決まっているのです! あの薄汚い赤色を見たせいで、姫様のお茶の味が落ちたらどう責任をとるおつもり!?」
「アタシのルーンを破った罪は重いぜ。あの野郎、頭蓋骨から内臓まで、全部オリハルコンのハンマーでミンチにして、アタシの炉の燃料にしてやる!!」
マイラが、鼻息荒く極限の怒りを露わにする。
「姫様に、毛布を三枚も使わせた……。我が主が、寒さと乾燥に震えた(※震えていません)という事実……。俺の竜の血が、奴を灰にするまで決して静まらんと言っている」
ダリウスの巨大な身体から、チリチリと超高熱の炎の粉が舞い散る。
「私の最高の美容液を、こんな予想外の事態で使わせるなんて! 姫様のスキンケア・スケジュールを狂わせた罪、絶対に許しませんわ!!」
「……暗殺者の流儀など、今回は不要だ。正面から乗り込み、奴のすべての触手を一本残らず切り刻み、存在そのものを消去する。姫様の呼吸される空気に、これ以上あのような瘴気を一ミリたりとも混ぜさせるわけにはいかんからな」
ルルとノクティスも、完全に理性を失ったバーサーカーと化していた。
世界の危機、人類の滅亡、魔族の存亡。
そんな壮大なスケールの問題は、彼らの頭の中には一ミクロンも存在しなかった。
彼らを突き動かしているのは、【姫様のお肌を乾燥させた】【姫様にくしゃみをさせた】【姫様のティータイムの空の色を悪くした】という、極めて個人的で、身勝手で、しかし彼らにとっては命よりも重い『スキンケア防衛』という大義名分だけであった。
「よし、方針は決まったな」
ロアンが円卓を見渡し、全員の殺意を確認して深く頷いた。
「これより我々七人は、姫様の安眠を妨げぬよう、極秘裏に『終焉の谷』へと出撃する。目的は一つ。あの『邪神』とやらを、姫様がお目覚めになる明日の朝までに、跡形もなく消し去り、空の色を元の青空に戻すことだ」
「姫様に、『お散歩の続きをしましょうか』と、最高の笑顔で言っていただけるようにね」
ルルが恍惚とした表情で付け加える。
「その通りだ。これは戦争ではない。ただの……姫様の庭(世界)を荒らす害虫駆除、あるいは『深夜のゴミ出し』だ」
ノクティスが冷酷に言い放つ。
『マスターノ平穏ヲ乱ス害虫ノ駆除。アオイモ、システムノ全リソースヲ提供イタシマス』
アオイが、恭しくメイドの礼をとった。
『当ロイヤルスイートルームノ防衛ハ、ワタクシノ立体ホログラムト絶対防壁ニテ完璧ニ行イマス。マスターガオ目覚メニナッタ際ニハ、最適ナ温度ノ紅茶ト共ニ、「皆様ハ少シ朝ノオ散歩ニ出カケテオリマス」トオ伝エシテオキマス』
「頼んだぞ、アオイ。我々がいない間、姫様に指一本触れる奴がいたら、空間ごと消滅させろ」
「承知いたしましたわ。さて……」
エランが杖を掲げ、古代の転移魔法陣を床に描き始める。
「目標、大陸最北端『終焉の谷』。……姫様のスキンケア環境を守るため、邪神め、万死に値する!! 出撃だァァァッ!!」
「「「「「「「応ゥゥゥゥッ!!!!!」」」」」」」
ルクスヴェル大陸の全生命体が絶望に打ちひしがれている、深夜の静寂の中。
聖都アイギスから、世界の破滅を企む古代の邪神に向けられた、七人の化け物たちによる『最凶最悪の理不尽な刺客』が、音もなく放たれた。
彼らにとって、世界を滅ぼす神との戦いなど、姫様のお肌の乾燥対策の一環に過ぎない。
数千年の時を経て復活した邪神は、自身が世界を滅ぼす前に、世界で最も理不尽で過保護な連中によって【八つ裂き】にされる運命にあることを、まだ知る由もなかった。
「……すぅ……すぅ……」
一方、そんな壮絶な出撃劇が隣の部屋で繰り広げられている間も。
万年レベル1の最弱吸血姫シルヴィは、温かい毛布に包まれ、極上の保湿クリームの香りに癒されながら、幸せそうな寝顔でスヤスヤと眠り続けていた。
彼女の平和な日常を守るため、世界最強の猛者たちは、今日も己の命と理性を投げ打って、世界の裏側で大暴れを開始するのである。




