第41話:蘇る最凶の神と赤い空
Sランク即死迷宮『古代賢者の試練場』における、常軌を逸した物理的・精神的破壊活動(ダンジョン攻略)。
莫大な財宝と「古代迷宮の制覇者」という仰々しい称号、そして何より、古代の超絶兵器から進化したホログラムAIメイド『アオイ』を新たな従者として迎え入れた一行は、拠点である聖都アイギスの聖王迎賓館へと帰還していた。
「あー、今日のお茶も美味しいなぁ。お天気もいいし、最高のお散歩日和だね!」
ロイヤルスイートルームの広大なバルコニー。
シルヴィは、マイラが新たに仕立てた『超軽量・通気性抜群の絶対防御サマードレス』に身を包み、用意された純白のガーデンテーブルで優雅なティータイムを楽しんでいた。
手には、ステータス画面を開くための魔法のウィンドウなど一切ない。万年レベル1であるという冷酷な現実を受け入れ(開き直り)、「私、結局スライムさんにも勝てないままだし、もうのんびり生きようっと!」と、完全に戦うことを放棄した最弱吸血姫の姿がそこにあった。
「マスター! 本日のお茶請けは、遺跡の宝物庫から発掘した『古代樹の蜜』を使用した特製マドレーヌにございます! アオイが温度を0.1度単位で調整し、最高の状態で焼き上げました!」
淡いブルーの光で構成されたホログラムメイド・アオイが、空中にフワリと浮きながら恭しく銀のトレイを差し出す。
「ちょっと新参のポンコツ機械! 姫様のお口に運ぶのはこの私の役目ですわよ! 姫様、あーんですわ!」
吸血鬼メイドのルルが、対抗心を燃やしてシルヴィの隣に陣取る。
「フン……メイド共が騒々しい。姫様の優雅なティータイムには、私の淹れた完璧な『夜想花』の紅茶の香りこそが相応しい」
執事ノクティスが、一滴の無駄もない所作でティーカップに琥珀色の液体を注ぐ。
「ヒャハハハ! 姫様、新しいドレスの着心地はどうだい!? もし風が冷たければ、すぐに防寒ルーンを百個追加してやるからな!」
「姫様、もし日差しが眩しければ、私の大剣で太陽を叩き割ってまいりましょうか?」
「ロアン、野蛮な真似はおやめなさい。私の精霊で、姫様の周囲だけ常に最適な木漏れ日を演出しておりますわ」
「聖女様の御前は、私がチリ一つ残さず浄化しております!」
「……俺の背中は、いつでも姫様のベッドになる準備ができている」
マイラ、ロアン、エラン、セリア、ダリウス。
相変わらずの、いや、AIメイドが加わったことでさらに激しさを増した、常軌を逸した「姫プ(過剰接待)」の嵐。
シルヴィは「ふふっ、みんな今日も元気だねー」と、完全に毒気を抜かれた無邪気な笑顔でマドレーヌを頬張っていた。
世界は平和だった。
かつて人間と魔族が血で血を洗った戦争は、シルヴィの「一緒にお弁当食べよう」という一言で呆気なく終結し、両国は現在、歴史的な国交正常化に向けて歩み寄りを始めている。
魔物の脅威も、この七人の化け物たちがシルヴィの散歩のついでに周辺の森を更地にしてしまうため、聖都の周囲からは完全に消え去っていた。
誰もが、この平和な日常が永遠に続くものだと信じて疑わなかった。
そう、世界の果てに封じられていた『究極の絶望』が、数千年の眠りから目を覚ます、この日までは。
***
ルクスヴェル大陸の最北端。
人間も、魔族も、いかなる生命体も近づくことを許されない、絶対的な死の領域が存在する。
その名は『終焉の谷』。
太陽の光すらも届かず、岩肌はドス黒く変色し、空気中には吸い込むだけで肺が腐り落ちるほどの濃密な瘴気が立ち込めている、文字通りの地獄である。
その深く、深く、地の底へと続く巨大な亀裂の最深部。
かつて、神話の時代。この世界を創造した神々が、自らの手に余るほどの強大すぎる『悪意の塊』を封印した場所。
ガキンッ……!!
漆黒の闇に包まれた谷底で。
数千年間、決して朽ちることのなかった『神代の封印鎖』の極太の鎖が、一本、また一本と、乾いた音を立てて弾け飛んだ。
『………………オォォォ…………』
地の底から、この世のものとは思えない、低く、おぞましく、魂そのものを凍りつかせるような悍ましい呻き声が響き渡った。
『我ガ……我ガ眠リヲ……妨ゲル者ハ……誰ゾ…………』
パリンッ!! ズガァァァァァァァァァンッ!!!!
幾重にも張り巡らされていた神々の結界が、まるで薄いガラスのように粉々に砕け散った。
その瞬間。
亀裂の奥底から、ドス黒い、コールタールのように粘り気のある【純粋な絶望のオーラ】が、火山の大噴火の如く天に向かって真っ直ぐに噴き出した。
【古代の邪神】。
かつて世界を無に帰そうとし、神々と全種族の連合軍が数万の犠牲を払ってようやく「封印」することしかできなかった、最凶最悪の破壊神が、ついにその封印を破り、復活を遂げたのである。
『……忘却ノ彼方ニ追イ遣ラレシ、我ガ憎悪。我ヲ封ジシ神々モ、既ニ此ノ世ニハ在ラズ……』
噴き出した闇のオーラの中から、山脈のように巨大な、不定形の異形の姿が浮かび上がる。
無数の赤い眼球が蠢き、空間そのものを削り取るような漆黒の触手が天を突く。
邪神が一度呼吸をするだけで、周囲の岩山がドロドロに溶け落ち、風は悲鳴を上げて死に絶えた。
『愚カナル生命体ドモヨ。我ガ復活ヲ以テ、此ノ世界ハ終焉ヲ迎エル。全テヲ、我ガ絶望ノ深淵ニ沈メテクレヨウ……!!』
古代の邪神が、咆哮を上げた。
その咆哮は、音の波となってルクスヴェル大陸の全土へと、光の速さで伝播していった。
それはただの音ではない。生物の精神を直接侵食し、生きる気力を根こそぎ奪い去る【絶望の魔力波】であった。
そして、世界に異変が起きた。
ズゴゴゴゴゴゴォォォォォォ……ッ。
大陸の空を覆っていた澄み切った青空が。
まるで、見えない巨大な筆で血糊を塗りたくられたかのように、端から端まで、一瞬にして禍々しい【赤黒い色】へと染め上げられていったのだ。
太陽の光は遮断され、世界は不気味な薄暗さと、血のような赤い光に包まれた。
見上げる空は、まるで巨大な内臓の中に取り込まれてしまったかのような、生理的嫌悪感を催す悍ましい色合いを呈している。
赤い空を見た者たちは、例外なく、心臓を直接冷たい手で掴まれたかのような絶対的な恐怖と、底知れぬ絶望感に襲われた。
「な、なんだこれは……! 空が……空が血の色に染まっている……!!」
人間族の領域、光輝の王国の王都。
白亜の王城のバルコニーに飛び出した国王は、空を覆い尽くす不気味な赤い空を見上げて、ガクガクと膝を震わせた。
彼の傍らには、聖都から転移魔法で駆けつけた教皇が、顔面を蒼白にしてへたり込んでいる。
「教皇猊下! これは一体何の予兆だ!? 魔王軍との平和条約が結ばれたばかりだというのに、魔族の新たな兵器か!?」
「ち、違います、陛下……! これは魔族の力などという生易しいものではありません!」
教皇は、震える手で首元のロザリオを強く握りしめ、涙を流しながら叫んだ。
「教会の聖典……いや、神話の伝承に記されている、『世界の終焉の予兆』です! 【空が血に染まり、大地が悲鳴を上げる時、古の絶望が地の底より蘇る】……!! まさか、おとぎ話だと思っていた『古代の邪神』が、本当に復活してしまったというのですか!!」
「こ、古代の邪神だと……!? 神々ですら封印することしかできなかったという、あの災厄そのものか! 我ら人間族に、どうしろというのだ!!」
王国中の街では、絶望のオーラにあてられた人々が次々と気を失って倒れ、パニックに陥った群衆が逃げ惑っていた。
赤い空の下、森や山に生息する魔物たちもまた、邪神の放つ瘴気に当てられて完全に狂乱状態に陥った。
自我を失い、口から泡を吹きながら、魔物たちは手当たり次第に周囲の木々を薙ぎ倒し、同士討ちを始め、あるいは人間の街へと無秩序に雪崩れ込もうとしていた。
恐怖と絶望の連鎖。
それは、人間界だけにとどまらなかった。
「ば、馬鹿な……!! 我が魔界の空すらも、赤く染め上げるとは……!!」
魔族の領域の最深部、魔王城。
かつて人間界への総攻撃を企て、シルヴィのピクニックによって完全に毒気を抜かれていた魔王もまた、玉座から立ち上がり、窓の外の赤い空を愕然と見つめていた。
「魔王様! この瘴気、そしてこの絶望の魔力波! 我ら魔族ですら、精神を保つのがやっとです! 下級の魔族たちはすでに自我を失い、暴走を始めております!!」
情報部長の一つ目の魔族が、泣き叫ぶように報告する。
「まさか、本当に『邪神』が目覚めたというのか……。我ら魔族の闇の力など、あの絶対的な絶望の前に比べれば、児戯にも等しい……!」
魔王は、自らの震える両手を見つめた。
「人間と争っている場合ではなかったのだ。この世界は……ルクスヴェルは、今日、あの邪神の手によって完全に消滅する!!」
世界のトップである人間族の国王も、教皇も、魔族の魔王も。
彼らは皆、赤い空から降り注ぐ絶望のオーラに屈し、世界の終わりを確信してしまっていた。
人類の軍隊も、魔王軍の軍勢も、神話の時代の破壊神の前には、文字通り虫ケラ以下の存在でしかない。
打つ手なし。抗う手段は皆無。
世界中の誰もが、ただ迫り来る死と破滅を待つことしかできない、完全なる絶望の世界線へと突入したのである。
***
——しかし。
世界中がパニックに陥り、狂乱する魔物の鳴き声と人々の悲鳴が響き渡る中。
ここ、聖都アイギスにある聖王迎賓館、ロイヤルスイートルームのバルコニーだけは。
外の世界の絶望など一ミリも入り込む隙間がないほどに、強固で、そして異常な『過保護空間』が維持されていた。
「あれー?」
シルヴィは、紅茶の入ったカップを両手で持ちながら、ふと上を見上げた。
先ほどまで澄み切っていた青空が、いきなりドス黒い赤色に変わっていることに、彼女もようやく気がついたのである。
「なんか、急に空が赤くなっちゃったね。もう夕焼けなのかな? まだおやつの時間なのに、変なお天気だねー」
シルヴィの感想は、ただそれだけであった。
古代の邪神が放つ、精神を破壊するほどの【絶望の魔力波】や【瘴気】。
それらは、シルヴィの元へ届く前に、彼女の持つパッシブスキル『真祖の威光(限界突破)』によって完全に中和・弾き返されているか、あるいは、周囲に展開しているエランの『古代精霊・絶対聖域』と、アオイの『防衛システム・物理的空調管理』によって、完璧にシャットアウトされていたのである。
そのため、シルヴィの目には、世界を滅ぼす絶望の赤い空も、「なんかちょっと変な夕焼け」程度にしか映っていなかった。
「おかしなお天気……。なんだか、風も変な匂いがするし……」
シルヴィが、少しだけ眉をひそめて、クンクンと鼻を鳴らした。
邪神の放つ瘴気は防げているものの、世界中を吹き荒れる異常な魔力嵐の影響で、バルコニーの風がわずかに乾燥し、埃っぽくなっていたのだ。
「……んっ、……くしゅんっ!」
シルヴィが、小さく、本当に可愛らしいくしゃみを一つ、こぼした。
そして、小さな手で、自分のほっぺたをすりすりと撫でた。
「なんか今日、風が強くて、お肌がちょっと乾燥するかも……」
————その瞬間であった。
シルヴィの小さなくしゃみと、「お肌が乾燥するかも」という、本当に何気ない、ただの日常の呟き。
それが。
バルコニーに控えていた七人の化け物たち(と、一人のAIメイド)の脳内に、世界を滅ぼす邪神の絶望すらも吹き飛ばすほどの、規格外の【大激怒のトリガー】を引いてしまったのだ。
「「「「「「「……………………は?」」」」」」」
ピタッ、と。
バルコニーの空気が、完全に、絶対零度に凍りついた。
先ほどまで「姫様尊い」とデレデレに緩んでいた七人の猛者たちの顔から、一切の表情が消え失せた。
代わりに浮かび上がったのは、魔王も邪神も裸足で逃げ出すほどの、純度百パーセントの、ドス黒く、深く、静かで、しかし宇宙を焼き尽くすほどの【極大の殺意】であった。
獣人ロアンの首の骨が、ゴキリと異様な音を立てて空を見上げた。
「……おい。今、姫様がくしゃみをなされたぞ」
エルフのエランの周囲の空間が、バチバチと音を立てて歪み、崩壊を始めた。
「……ええ。お聞きしましたわ。あまつさえ、姫様の透き通るような玉肌が、『乾燥する』などと……」
聖騎士セリアの瞳孔が完全に開き、聖剣から立ち昇るオーラが、純白から復讐の黒炎へと染まった。
「……神の奇跡たる聖女様の御肌を、乾燥させるなど……。どのような邪悪なる気象条件であれ、決して許されることではない……!」
ドワーフのマイラが、鼻息を荒くしてハンマーを地面にめり込ませた。
「……どこのどいつだ。アタシが徹夜で保湿ルーンを組み込んだドレスの効果を、上回るような乾いた風を吹きやがった野郎は……!!」
竜騎士ダリウスが、毛布を三枚抱えたまま、空に向かって喉の奥で凄まじい地鳴りのような唸り声を上げた。
「……我が主の安らぎの時間を、このような小賢しい魔力嵐で邪魔立てするとは……万死、いや、億死に値する……!!」
執事ノクティスとメイドのルルが、一瞬にして戦闘態勢(魔王軍最高幹部の殺戮モード)へと切り替わり、周囲に無数の暗器と血の刃を展開した。
「……空が赤いだと? 姫様の優雅なティータイムの背景に、あのような趣味の悪い色を塗った馬鹿者は、どこのどいつだ」
「……姫様のお肌を乾燥させた罪、その者の全身の血を一滴残らず絞り出して、保湿液の代わりにしてやりますわ!!」
そして、ホログラムAIメイドのアオイの電子音声が、冷酷なトーンで空間に響いた。
『——広域魔力スキャン完了。現在ノ異常気象オヨビ乾燥ノ原因ハ、大陸最北端「終焉ノ谷」ヨリ発生シテイル「古代ノ邪神」ト呼称サレル生命体ノ瘴気ニヨルモノト断定。……マスターノ御肌ニ危害ヲ加エル敵対存在デス。排除シマス』
「……古代の邪神、だと?」
ロアンが、ギリッと鋭い牙を噛み鳴らした。
「神だろうがなんだろうが関係ねえ!!」
七人の狂信者たちの声が、完全に一つに重なった。
「「「姫様のお肌を乾燥させ、あまつさえ風邪を引かせようとするとは……邪神め、八つ裂きにして宇宙の塵に変えてやるゥゥゥゥゥッ!!!!!」」」
世界中が「邪神が世界を滅ぼす」と絶望し、涙を流して祈りを捧げているその瞬間に。
聖王迎賓館のバルコニーでは、「姫様のお肌を乾燥させた(ムカつく)」という、極めて個人的で、身勝手で、しかし彼らにとっては宇宙の法則よりも重い理由によって。
ルクスヴェル大陸の頂点を極める七人の化け物たちが、邪神への【完全なる私怨による討伐】を決定していた。
「えっ? ちょっとみんな、どうしたの!? 急に怖い顔して! 武器なんか出してどうするの!?」
シルヴィが慌てて立ち上がるが、完全にブチギレて暴走モードに入った彼らの耳には、もはや何も届いていなかった。
世界の命運は。
人間の軍隊でも、魔王軍の軍勢でもなく。
一人の少女の「くしゃみ」によってブチギレた、七人の過保護すぎる従者たちの怒りの矛先へと、完全に委ねられてしまったのである。
次なる舞台は、終焉の谷。
最強の姫プ勢による、世界最凶の神に対する、前代未聞の【スキンケア防衛(物理)戦】が、今まさに幕を開けようとしていた。




