第36話:幻惑の迷宮とキレる従者たち
人工知能を搭載したスフィンクスの扉を、物理的な破壊ではなく「可愛らしいお願い」という名の極大精神干渉によって強制的に開け放ったシルヴィ一行。
彼女たちは、古代遺跡『古代賢者の試練場』の中層へと足を踏み入れていた。
「すごいねー! さっきの扉の先、こんなに広い迷路になってるんだ!」
シルヴィは拾った木の枝を片手に、ピカピカに磨き上げられた大理石の回廊を見回して目を輝かせている。
中層は、これまでの直線的な通路とは異なり、無数の分岐と交差点が入り組んだ巨大な迷宮となっていた。
壁も床も天井も、全てが鏡のように滑らかな白亜の石で造られており、継ぎ目一つ見当たらない。松明もないのに、空間全体がぼんやりとした真珠色の光に包まれており、どこか神聖さすら感じさせる美しい場所であった。
「姫様、どうか私の背中から離れないでくださいませ。この美しさ……かえって不気味ですわ。魔力の流れが、これまでの階層とは全く異なります」
エルフのエランが、杖を構えながら周囲を鋭く睨みつける。
「俺の鼻にも、危険な罠の臭いはしねえ。だが、それが逆に気味が悪いぜ」
獣人のロアンも、大剣『滅山』を肩に担ぎつつ、耳をピクピクと動かして警戒を怠らない。
七人の従者たちは、シルヴィを円陣で囲むようにして慎重に進んでいた。
彼らの実力をもってすれば、物理的な罠や魔物の襲撃など、あくびをしながらでも粉砕できる。しかし、この中層に仕掛けられていたのは、剣や魔法で防ぐことのできない、古代賢者の最も悪辣な『精神トラップ』であった。
シュゥゥゥゥゥ……。
突如として、迷宮の壁や床から、淡いピンク色をした霧が噴出し始めた。
それは音もなく、瞬く間に回廊全体を甘ったるい香りで満たしていく。
「チッ、毒ガスか! 姫様、息を止めて……!」
暗殺者ノクティスが即座に【絶対清浄空間】を展開しようと印を結ぶ。
「無駄ですわノクティス! これは物理的な気体ではありません! 直接脳と魂に干渉する、純粋な精神魔力……!」
エランが叫んだ瞬間、ピンク色の霧はマイラの作った『絶対防御ドレス』の物理・魔法障壁を完全にすり抜け、八人の身体を包み込んだ。
【幻惑の迷宮】。
それこそが、この中層の真の姿であった。
古代賢者が数千年の叡智を結集して作り上げたこのトラップは、侵入者の脳内に直接語りかけ、その者が心の底で最も強く抱いている『欲望』や『願望』を読み取り、それを完璧な現実(幻覚)として見せ続けるという恐るべき代物である。
過去にこの迷宮に挑んだ高ランク冒険者たちは皆、財宝、名誉、権力、あるいは愛する者との再会といった強烈な欲望の幻覚に囚われ、一歩も動けぬまま餓死していったのだ。
そして今。
ルクスヴェル大陸の頂点を極める七人の化け物たちもまた、この強力な幻覚ガスの直撃を受けてしまった。
彼らは大陸最強の武力と魔力を持っているが、精神構造は「姫様への狂信的な愛」によって極端に偏っており、ある意味で非常に脆かった。
彼らの脳内に、それぞれの『最も強い欲望(理想の姫プ)』が、鮮明な現実として再生され始めた。
(ロアンの幻覚)
『ロアン、いつも私を守ってくれてありがとう! ロアンは世界で一番カッコよくて、私の大好きなワンちゃんだよ! えいっ、よしよしよし!』
幻覚の中で、シルヴィがロアンの頭を撫で回し、モフモフの耳に頬ずりをしている。
現実のロアンは、大剣を床に落とし、「ハッ、ハッ、ハッ……! 姫様ァ……! 私は、私は世界で一番幸せな駄犬ですゥゥゥ!!」と、舌を出して凄まじい勢いで尻尾を振りながら、だらしない顔で虚空を見つめて硬直していた。
(エランの幻覚)
『私、もうエランさんの魔法と淹れてくれるお茶がないと生きていけないの! ずっと、ずーっと私のそばで、私だけのお世話をしてね? 他の人は誰もいらないから!』
幻覚の中で、シルヴィが自分だけに依存し、甘えてくる姿を見たエランは。
「ああぁぁっ……! 姫様、もちろんですわ! 私のすべては姫様のもの……! 永遠に二人きりの楽園を築きましょう!!」と、両手で自らの顔を覆い、恍惚とした表情で立ち尽くした。
(ノクティスの幻覚)
『ノクティスさんの紅茶、本当に美味しい……。これさえあれば、私はもう何もいらない。ノクティスさん、あーんして?』
「……お、おおお……姫様から直々に……あーん、などと……! 私は……私は今、神の領域に達した……!」
現実のノクティスは、完全に目がイッた状態で、虚空に向かって口をパクパクとさせている。
(セリアの幻覚)
『セリア! 私、新しい教会を作ることにしたの! もちろん、初代教皇はセリアだよ! 私の隣で、ずっと一緒に世界を導いてね!』
「おおお、光の聖女様! このセリア、身命を賭して貴女様の教えを世界に広めてご覧に入れます!! アーメン!!」
セリアはひざまずき、涙をボロボロ流しながら虚空に祈りを捧げている。
(マイラの幻覚)
『マイラの作ったドレス、世界で一番可愛い! 毎日一時間ごとに着替えるから、もっとたくさん作って!』
「ヒャハハハハ!! 任せな姫様! アタシが一生かかって、姫様のクローゼットをオリハルコンとレースで埋め尽くしてやるぜェェ!!」
マイラは鼻血を噴き出しながら、ハンマーを抱きしめて仁王立ちしている。
(ルルの幻覚)
『ルルお姉ちゃん! 私の髪、もっと綺麗に梳かして!』
「お、おねえちゃん!? 真祖様が私を、お姉ちゃんと!! ああぁぁっ、尊い! 尊すぎて灰になりそう!!」
ルルは床に転がり、バタバタと身悶えしている。
(ダリウスの幻覚)
『ダリウスさんの背中、お布団みたいで気持ちいい……。私、ここで一生寝てたいな……むにゃむにゃ』
「……フフッ。ゆっくりお休みください、我が主。俺の竜鱗は、貴女様の永遠の揺りかご……」
ダリウスは立ったまま腕を組み、ニチャア……という恐ろしい笑みを浮かべて完全にフリーズしていた。
七人の従者たちは、見事に幻惑の迷宮の罠にハマった。
彼らはそれぞれの理想の世界の中で、シルヴィに極限まで甘やかされ、褒めちぎられ、完全に思考を停止してしまったのである。
端から見れば、ルクスヴェル大陸の最高戦力たちが、揃いも揃ってだらしない顔を浮かべ、虚空に向かって独り言を呟きながら微動だにしないという、世にも恐ろしく、そしてアホらしい光景が広がっていた。
「……あれ? みんな? どうしたの?」
一人だけ、その状況に全くついていけていない者がいた。
最弱吸血姫、シルヴィである。
彼女もまた、ピンク色の幻覚ガスを全身に浴びていた。
本来ならば、迷宮のシステムが彼女の脳内をスキャンし、彼女が最も欲するものを幻覚として見せるはずだった。
しかし、ここで迷宮の人工知能(AI)は、致命的な計算エラーを起こしていた。
(対象ノ精神ヲスキャン開始。……エラー。対象ノ『権力欲』、数値1。……『金銭欲』、数値1。……『支配欲』、数値1。……『名誉欲』、数値1……)
古代の迷宮システムは、必死にシルヴィの「欲望」を探り出そうとした。
しかし、彼女は現代日本からやってきた、根っからの善人であり、欲の無い一般人である。世界を支配したいとも、大金持ちになりたいとも、最強になりたいとも思っていない。
ステータスがオール1であるように、彼女の持つ世俗的な欲望の数値も、ほぼゼロに等しかったのだ。
(対象ガ最モ強ク望ムモノハ、何カ!? ……検索中……検索中……)
迷宮システムは、数千年の歴史の中で初めて「見せるべき幻覚が見つからない」という事態に直面し、処理回路をフル回転させた。
その時、シルヴィのお腹が『きゅるるぅ〜』と小さく鳴った。
「あ、なんだかお腹空いてきちゃったな。さっきパフェ食べたばっかりなのに。ケーキとか食べたい気分かも」
(……検知完了!! 対象ノ現在最モ強イ欲望ハ『食欲』!!)
迷宮システムは、これ幸いとばかりに、残された全魔力を注ぎ込んで、シルヴィの目の前の空間に『幻覚』を投影した。
それは、真っ白な生クリームと、艶やかな真っ赤なイチゴが乗った、見るからに美味しそうな『巨大なショートケーキ』であった。
しかもご丁寧に、ケーキはシルヴィの手が届きそうで届かない、数メートル先の空中にふわりと浮遊している。
「わあ! ケーキだ! 遺跡の中にケーキがあるなんて、すごーい!」
シルヴィの瞳がキラキラと輝いた。
彼女は、自分の欲望が映像化された幻覚だとは微塵も疑わず、「これが古代の賢者が隠したお宝なんだ!」と盛大な勘違いをしてしまった。
「えへへ、待って待ってー!」
フワリと前方に移動し始めた幻覚のケーキを追いかけて。
シルヴィは、だらしない顔で硬直している七人の従者たちをその場に完全に置き去りにし、ただ一人でトコトコと、入り組んだ大理石の迷宮の奥深くへと歩き出してしまったのである。
タッタッタッタッ……。
軽やかな足音だけが、迷宮に響く。
シルヴィはケーキ(幻覚)に夢中で、自分が一人ぼっちになっていることに全く気づいていなかった。
***
それから、およそ三分後。
幻覚の世界の中で、シルヴィに頭を撫でられ、お茶を褒められ、永遠の忠誠を誓い合っていた七人の化け物たち。
彼らは、最高に幸せな夢の中で、ふと、ある【強烈な違和感】を覚えた。
(……おかしい)
ロアンが、幻覚のシルヴィの手に頬ずりをしながら、微かに眉をひそめた。
(姫様は今、俺の頭を撫でてくださっている。……だが、俺の獣の嗅覚が、姫様の甘い香りを感知していない……!?)
(……あり得ませんわ)
エランが、幻覚のシルヴィとティータイムを楽しみながら、冷や汗を流した。
(姫様の温かな魔力の波長が……私の隣から、徐々に遠ざかっている……!?)
(姫様の鼓動が聞こえない!)
(影の重さが違う!)
彼らは、完全に幻覚に囚われていた。視覚も聴覚も触覚も、すべてが迷宮のシステムによって偽装されていた。
しかし、彼らの脳髄の奥底に刻み込まれた【姫様への狂信的なまでの執着心(姫プ・センサー)】だけは、古代の魔術すらも誤魔化すことができなかった。
彼らの魂は、「目の前にいる姫様は偽物だ。本物の姫様が、ここから離れていっている」という事実を、本能レベルで察知したのである。
「「「「「「「————ッッッ!!!!」」」」」」」
次の瞬間。
七人の従者たちは、自らを囚えていた最高に甘美な幻覚の世界を、己の意志(という名の極限のパニック)だけで、強引に、物理的に引き裂いて覚醒した。
パリンッ!! という、ガラスが割れるような音が脳内で響き、彼らの視界が現実へと引き戻される。
そこには、大理石の回廊。
立ち尽くす仲間たちの姿。
そして。
「……ひ、姫様が……」
ロアンの顔面から、一瞬にしてすべての血の気が失せた。
「……いない」
どこにもいなかった。
常に彼らの中心にいて、玉座(ダリウスの肩)に座っているはずの、金髪の愛らしい少女の姿が、跡形もなく消え失せていたのである。
「「「「「「「ひ、姫様ァァァァァァァァァァァァッッ!!!!!!!!」」」」」」」
七人の喉から、この世の終わりを告げるかのような、絶望と恐怖の入り交じった絶叫が轟いた。
「どういうことだ!? なぜ姫様がいらっしゃらない!? まさか、この迷宮の罠に飲み込まれたというのか!!」
セリアが髪を振り乱し、聖剣を抜いて周囲を狂ったように見回す。
「アタシたちが……アタシたちが下らない幻覚なんかに見惚れて、立ち止まっちまったせいだ! その隙に、姫様が一人でどこかへ……!!」
マイラが自らの頭をハンマーで殴りつけようとするのを、ダリウスが必死に止めている。
「言い訳は後です!! 姫様は、一人では転んだだけでお怪我をしてしまうほどに華奢で尊いお方! もしこの迷宮の冷たい床で道に迷い、不安で涙を流しておられたら……!!」
エランの顔が、見たこともないほどの夜叉の如き形相へと変貌していた。
「姫様が泣いておられる……! 姫様が、私たちを呼んで泣いておられる……!! 探せ!! 姫様をお救いしろ!!」
ロアンの獣の瞳が完全に血走り、全身から規格外の黄金の闘気が大爆発を起こす。
「ああああぁぁぁぁぁっ!! 許さん……許さんぞ、古代の賢者!! 姫様から我々を引き離し、あまつさえ姫様に孤独を味わわせるなど!!」
ノクティスの両目から血の涙が流れ落ち、彼の全身から湧き上がった暗黒の魔力が、周囲の大理石の床をドロドロに溶かし始めた。
七人の狂信者たちは、完全に理性を喪失し、【暴走状態】へと突入した。
「姫様が一人で迷子になっているかもしれない」という事実が、彼らのリミッターを完全に吹き飛ばしてしまったのだ。
「「「「「「「姫様ァァァァァァァッッ!!!!」」」」」」」
七人の猛者たちから放たれた、怒り、焦燥、絶望、そして限界突破の殺意。
それが、膨大な魔力と闘気の嵐となって、中層の迷宮全体を物理的に揺るがした。
バチバチバチッ!! ドガガガガガガッ!!
その時、迷宮の壁の奥深くから、不気味な機械の断末魔のような音が鳴り響いた。
古代賢者の試練場の中層を管理する『幻覚システム』のメイン回路が、七人から放たれる規格外の魔力と殺気のプレッシャーに耐えきれず、ショートを起こしたのだ。
『エラー……。検知サレタ魔力値、システムノ許容量ヲ五万倍超過……。物理的崩壊ガ進行中……』
バァァァァァァァァンッ!!!!
迷宮の至る所で、幻覚を投影していた魔力水晶や隠し装置が、次々と火花を散らして爆発・大破していく。
壁の大理石に無数の亀裂が走り、天井からは瓦礫が降り注ぎ、空間を満たしていた真珠色の光が、危険を知らせる赤色の警報光へと切り替わった。
「壁が邪魔だ!! 姫様への直線ルートを創れ!!」
ロアンが大剣を真横に薙ぎ払い、厚さ数メートルの迷宮の壁を、豆腐のように三枚ぶち抜いた。
「私の精霊で、この階層の酸素の流れをすべて掌握しますわ! 姫様の匂いを探り当てます!!」
エランが杖を掲げ、迷宮内の空気を強制的に竜巻のように循環させる。
「俺が前を歩く! 罠があろうが壁があろうが、すべて俺の身体で叩き壊す!!」
ダリウスが巨大な竜の姿に半ば変化し、重戦車のように迷路の壁を突き破って直進を始める。
幻惑の迷宮。
挑戦者の心を折り、静かに死へと誘うはずだったその高尚な知的トラップは。
「姫様が迷子になった」と勘違いして完全に発狂した七人の化け物たちによって、今、文字通りの【物理的な解体作業】に遭っていた。
彼らはもう、迷路の道順など気にも留めない。
壁があれば壊し、トラップが起動すれば作動する前に粉砕し、ひたすらに、ただひたすらに、愛しの姫君の姿を求めて、崩壊していく迷宮を直進していく。
一方、その頃。
「あーん、待ってよー! ケーキさん、逃げないでー!」
迷宮の最深部近く。
シルヴィは、目の前をフワフワと逃げる幻覚のショートケーキを追いかけて、相変わらずるんるん気分で小走りを続けていた。
背後から凄まじい爆音と地響きが聞こえてきているが、彼女は「古代の遺跡って、やっぱりおっきい機械がいっぱい動いてるんだねー」と、またしても盛大な勘違いをして全く気にしていなかった。
「えへへ、あと少しで追いつくぞー!」
木の枝を振り回しながら、幻覚のケーキを追い続ける万年レベル1の吸血姫。
その後ろから、迷宮を物理的に粉砕しながら迫り来る、血走った目の七人の狂信者たち。
古代賢者の残した高度な試練は、彼らの存在そのものによって、完全にただのギャグ空間へと変貌し、無惨な崩壊の時を迎えていたのである。




