第34話:迫り来る大岩と過保護な粉砕
「るんるんるーん♪ 遺跡探検、たーのしーなー!」
数千年の時を越え、幾多の高ランク冒険者を絶望の底に沈めてきた『古代賢者の試練場』。
その恐るべきSランク即死迷宮の内部に、シルヴィの場違いなほどに明るく、のんびりとした鼻歌が響き渡っていた。
緑色の不気味な燐光を放つ苔、ひんやりとした湿った空気、そしてどこからともなく聞こえてくる古代の機械が軋む音。
普通であれば、足を踏み入れただけで精神をすり減らすような陰鬱な空間である。
しかし、ステータス【魅力】【カリスマ】がカンストしている最弱吸血姫シルヴィにとっては、ここはただの『ちょっと薄暗くて涼しい、絶好のお散歩コース』でしかなかった。
なぜなら、彼女の歩く道は完全に整備(※事前粉砕)されており、マイラの作った『絶対防御ドレス』の重量軽減ルーンのおかげで、足取りも羽のように軽いからだ。
「ねえねえ、次のお部屋には宝箱とかあるのかな? モンスターさんが出てきたら、私が木の枝でやっつけちゃうぞー!」
道端に落ちていた(マイラが安全確認のために削り落とした石柱の破片)ただの棒切れを拾い上げ、シルヴィは「えいっ、えいっ」と見えない敵に向かって素振りをしている。
その姿は、初めてのおつかいに出かけた幼子のように無邪気で、そして宇宙の真理を凝縮したかのように愛らしかった。
その背後では。
七人のルクスヴェル大陸最高峰の猛者たちが、血走った目で周囲の壁、天井、床を睨みつけ、限界まで研ぎ澄ませた殺気を放ちながら歩いていた。
(……おい、エラン殿。前方の曲がり角、魔力の流れはどうなっている)
ロアンが、大剣『滅山』を肩に担いだまま、微かに唇を動かして念話を飛ばす。
(問題ありませんわロアン。角の先にあった毒矢の射出装置なら、先ほど私の精霊がすでに内部構造から焼き切りました。姫様の美しい瞳に、あのような野蛮なカラクリを映すわけにはいきませんから)
エランが優雅に微笑みながら、恐ろしい事実を口にする。
(俺の竜の嗅覚にも、前方に魔物の臭いはない。だが、油断はするな。この遺跡を造った古代の魔術師は、性格が極めて捻じ曲がっている。魔法ではなく、純粋な『物理的質量』による罠を仕掛けてくる可能性がある)
ダリウスが鼻を鳴らし、警告を発した。
(物理的な罠だと? ふん、笑わせるな)
セリアが聖剣の柄を握りしめ、冷たく鼻で笑う。
(いかなる質量が迫ろうとも、この私の聖なるオーラとロアンの大剣があれば、すべて塵に帰すだけだ。姫様の歩む道に、障害物など一つとして残しはしない。……ああっ、それにしても姫様が棒切れを振るうお姿、なんと勇ましく、そしてキュートなのでしょう! 私、今すぐあの棒切れに代わって姫様に振り回されたい!!)
(テメェら、警備に集中しろ! 姫様が転んでお膝を擦りむきでもしたら、アタシら全員腹を切って詫びるしかねえんだぞ!!)
マイラが小声で怒鳴り散らす。
彼ら七人の脳内は、「姫様への狂信的な愛」と「遺跡に対する極限の破壊衝動」で完全に埋め尽くされていた。
シルヴィの平和な鼻歌と、背後で渦巻く致死量の殺気。
この恐ろしくも滑稽なアンバランスな集団は、遺跡の長く薄暗い石造りの回廊を、さらに奥へと進んでいった。
その時である。
カチッ。
シルヴィの小さなブーツが、回廊の中央に敷かれた、周りとはわずかに色の違う石板を踏み抜いた。
それは、数千年の間、一度も作動することなく静かに獲物を待ち続けていた、古代遺跡特有の【完全物理式・質量圧殺トラップ】の起動スイッチであった。
「あれ? なんか今、足元で変な音がしたような……?」
シルヴィが首を傾げ、立ち止まった。
その直後。
ゴゴゴゴゴゴゴゴォォォォォォォン……ッ!!
遺跡全体を揺るがすような、凄まじい地鳴りが背後から響き渡った。
「えっ!? なに!? 地震!?」
シルヴィが慌てて後ろを振り返る。
彼女の視線の先。
先ほどまで歩いてきた長く真っ直ぐな回廊の奥の壁が、音を立てて上にスライドし、ポッカリと巨大な空洞が開いた。
そして、その空洞の奥から——。
回廊の横幅にピッタリと収まるサイズの、直径十メートルはあろうかという【超巨大な丸岩】が、猛烈な速度で転がり出てきたのである。
それはまさに、冒険活劇の金字塔で見られるような、インディ・ジョーンズ的な王道トラップ。
魔法の力など一切使われていない。ただ純粋に、「数十トンという圧倒的な質量の岩を、坂道を利用して転がし、侵入者をペシャンコに押し潰す」という、最も原始的で、それゆえに回避が困難な凶悪ギミックであった。
ゴロロロロロォォォォッ!!
岩が転がるたびに石畳が砕け、凄まじい振動と轟音が回廊に反響する。
その質量とスピードは、人間など一瞬で血だまりに変えてしまうだろう。
しかも、回廊の幅と岩のサイズがピッタリであるため、横に避ける隙間など一ミリも存在しない。逃げるには、前方に全力で走り続けるしかないのだ。
「ひっ……!!」
大迫力で迫り来る巨大な丸岩を目の当たりにして、シルヴィの小さな肩がビクッと跳ねた。
彼女の大きな赤い瞳に恐怖の色が浮かび、可愛らしい悲鳴が漏れる。
ステータス【体力:1】【敏捷:1】のシルヴィにとって、あのような速度で転がってくる岩から走って逃げ切ることなど、絶対に不可能である。
彼女の脳裏に「潰される!」という絶望がよぎった。
——しかし。
この遺跡の設計者である古代の賢者は、致命的な計算ミスを犯していた。
彼は、この遺跡に挑む者が「知恵と勇気を持った冒険者」であることを想定していた。
まさか、レベル1の最弱吸血姫と、彼女の『ひっ!』という怯えの声を聞いただけで理性を完全に消失させる【七人の超規格外のバケモノたち】がやってくるなど、夢にも思わなかったのである。
シルヴィの怯えた悲鳴。
それは、七人の従者たちにとって、宇宙の崩壊を意味する最悪の絶望であり、同時に、岩に対する【絶対的殺意のトリガー】であった。
「「姫様を……驚かせるとは、万死に値するゥゥゥゥゥッ!!!!」」
シルヴィの視界の端から、二つの影が猛烈な速度で飛び出した。
獣人最強の大剣使いロアンと、教会最強の特級聖騎士セリアである。
「姫様の清らかな瞳に、恐怖を刻み込んだ罪!! その岩石の質量ごと、地獄の底で後悔しろォォォッ!!」
ロアンが吠えた。
彼の全身から、これまでにないほど濃密で、圧倒的な黄金の闘気が噴出する。
彼の愛剣『滅山』——その名の通り、山をも両断するという巨大な剣が、黄金の光を帯びて大きく振り被られた。
「あのような薄汚い石塊が、我らが聖女様に向かって転がってくるなど!! 宇宙の摂理に対する最大の冒涜!! 塵一つ残さず、光の彼方へ消え去れェェェッ!!」
セリアが絶叫した。
彼女の背中には、狂信的な怒りによって顕現した純白の光の翼が広がり、手にした聖剣から、魔をも浄化する極大の聖なるオーラが天を衝く勢いで立ち昇る。
迫り来る数十トンの巨大な丸岩。
それに向かって、逃げるどころか、真っ向から突撃していく二人の猛者。
その距離がゼロになった瞬間。
「「奥義!! 【獣王・天破両断】!! & 【聖絶・神罰十字】!!!!」」
ズガァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァンッ!!!!!!!!
黄金の剣圧と、純白の聖なるオーラが、巨大な丸岩の正面で激突・交差した。
それは、ただ岩を斬るというレベルの攻撃ではなかった。
ロアンの『滅山』が放つ究極の物理破壊力が岩の構造を分子レベルで断ち切り、そこにセリアの『聖なるオーラ』が、岩を構成する魔力と物質そのものを極限まで浄化・消滅させる。
数十トンという圧倒的な質量を誇っていた巨大な丸岩は。
空中でピタリと静止したかと思うと、次の瞬間。
サラサラサラサラ……ッ。
まるで、巨大な砂時計のガラスが割れたかのように。
音もなく、一瞬にして、目に見えないほど細かな【小麦粉のようなパウダー状の砂】へと完全に変異し、空気中に拡散していったのである。
爆音も、破片の飛散も、地響きも、何もない。
ただ、物理法則を完全に無視した異常な力によって、絶対的な質量の脅威が、一瞬で「ただの白い粉」へと書き換えられてしまったのだ。
「えっ……?」
シルヴィは、目の前で起きた現象が全く理解できず、ぽかんと口を開けた。
さっきまで自分を押し潰そうとしていた巨大な岩が、急に目の前で消えてなくなり、代わりに白い粉雪のようなものがフワフワと舞っているのだ。
「ゴホッ、ケホッ……」
空気中に漂う細かな砂埃(元・数十トンの岩)が喉に入り、シルヴィは小さく咳き込んだ。
「な、なんだろう……急に砂埃が……ゴホッ。この遺跡って、風通しがいいんだね……」
シルヴィは、先ほどの地響きも巨大な岩も、すべて『遺跡のどこかで吹いた突風が砂埃を巻き上げただけ』だと、極めて呑気な(そして盛大な)勘違いをしてしまった。
彼女の目には、ロアンとセリアが前に飛び出したのは「風から私をかばってくれた」ようにしか見えなかったのだ。
「ゴホッ、でもちょっと、息が苦しいかも……」
シルヴィが涙目で喉を押さえた。
その、シルヴィの【咳き込み】と【涙目】。
それが、残りの五人の従者たちの狂信回路に、致命的なトドメを刺した。
「ひ、姫様が……!! 姫様が咳き込んでおられるゥゥゥッ!!」
エランが杖を取り落とし、顔を真っ青にして絶叫した。
「ああ、なんという失態! 姫様の清らかな肺に、あのような下等な砂粒を吸い込ませてしまうなんて!! 私の防風結界の展開が0.01秒遅れたばかりに!! 私は万死に値しますわ!!」
「テメェら、なにやってんだァァァッ!!」
マイラが、岩を粉砕したばかりのロアンとセリアに向けて、怒りのハンマーを振り下ろそうとする。
「岩を粉にするのはいいが、そのあとの粉塵対策を怠るとはどういう了見だ! 姫様の気管支にダメージが入ったら、テメェらの首を落としたって償いきれねえんだぞ!!」
「ぐぬぬ……! 面目ない!! 俺の剣圧で完全に消し飛ばすべきだった!!」
ロアンが土下座の勢いで地面に平伏する。
「えっ? ちょっとみんな、どうしたの? 喧嘩しないで!」
シルヴィが慌てて止めようとするが、咳が止まらない。
その時、一陣の洗練された風が、シルヴィの周囲を優しく包み込んだ。
「……姫様。大変失礼いたしました。このノクティスの不手際、海よりも深くお詫び申し上げます」
漆黒の燕尾服を着た執事、ノクティスである。
彼は、シルヴィの横に音もなく膝をつき、片手に持った純白のシルクのハンカチを、優しくシルヴィの口元に当てた。
そして、彼のもう片方の手からは、高度に圧縮された『魔界の清浄なる風』が放たれていた。
「【絶対清浄空間】」
ノクティスが低く詠唱すると、回廊に漂っていた砂埃が、目に見えない巨大な掃除機に吸い込まれるように、一瞬にして彼の掌へと集束し、消滅していった。
それだけではない。
砂埃が消え去った後の空間には、どこからともなく、最高級の『夜想花』の紅茶の芳醇な香りが漂い始めたのである。
「暗殺者にとって、空気を支配することは基本中の基本。姫様の呼吸される空気に、不純物など一ミクロンも混じらせるわけにはいきません。……さあ姫様、もう大丈夫でございます」
ノクティスは、極めてスタイリッシュに、そして狂気的なまでの忠誠心を込めて、完璧な執事の礼をとった。
「あ、ほんとだ。咳止まった! いい匂いまでして……ノクティスさん、ありがとう!」
シルヴィがハンカチを返し、パッと花が咲いたような笑顔を向けた。
「あぁ……!! 姫様の『ありがとう』……!!」
ノクティスは、その天使の笑顔を至近距離で浴び、顔面を真っ赤に染めて悶絶した。
「このノクティス、姫様の肺をお守りできたこと、暗殺者としての数百年のキャリアの中で最高の栄誉に存じます!! もう思い残すことはありません、今すぐここで腹を切って……!」
「ダメダメ! 死んじゃダメだよ!」
シルヴィが慌ててノクティスの腕を掴む。
「ノクティスばかりズルいですわ!! 私も姫様のお背中を優しくさすって差し上げます!!」
ルルが嫉妬に狂った顔で飛びついてくる。
「俺の竜の吐息で、この遺跡の空気をすべて換気してこようか!?」
ダリウスが明後日の方向に向けてブレスを吐こうとする。
「もう、みんな大げさなんだから。ただの砂埃だったんでしょ?」
シルヴィは、周囲で繰り広げられる世界最高峰の猛者たちのドタバタ劇を、呆れたように、しかし楽しそうに笑い飛ばした。
彼女の目には、数十トンの岩が迫ってきたという死の恐怖など、一ミリも映っていなかった。
初見殺しのSランク即死トラップは、七人の過保護すぎる従者たちによって、文字通り【ただの砂埃】へと格下げされ、跡形もなく消え去ってしまったのである。
「よし! 空気も綺麗になったし、どんどん進もう!」
シルヴィは、全く経験値が入らないまま、拾った木の枝を元気に振り回して再び歩き始めた。
古代賢者の残した悪辣なトラップ群が、次々と理不尽な物理破壊によってその存在意義を否定されていく。
レベル1の最弱吸血姫と、彼女を守る(甘やかす)ためなら世界すらも滅ぼす七人の狂信者たちによる、史上最悪のダンジョン破壊ツアーは、まだまだ続くのであった。
「(……おい、次は何だ。幻覚ガスか? レーザーか?)」
ロアンが背後で剣を構え直す。
「(なんだろうと関係ありませんわ。姫様が気づく前に、すべて空間ごと【削除】するだけですわ)」
エランが冷酷に微笑む。
古代遺跡の哀れな悲鳴は、誰にも届くことなく、遺跡の深奥へと吸い込まれていった。




