第33話:見えない落とし穴と竜の橋
頭上から降り注ぐはずだった百トンのトゲ付き岩盤を、わずか0.1秒の間に七人の従者たちが【完全粉砕・隠蔽】したことなど露知らず。
万年レベル1の最弱吸血姫シルヴィは、「古い建物って音が鳴るんだねー」と呑気な感想を漏らしたまま、古代遺跡『古代賢者の試練場』の奥へと意気揚々と足を進めていた。
「よし! このままどんどん進んで、いっぱいいっぱい経験値を稼いじゃうぞー!」
彼女が着ているマイラ特製のフリフリ絶対防御ドレス(重量軽減ルーン百個乗せ)の裾が、歩くたびにフワリ、フワリと軽やかに揺れる。
その足取りは、まるで春のうららかなピクニックでお花畑を散策しているかのように軽快で、一切の警戒心も、恐怖心も存在しなかった。
しかし、シルヴィの後ろを歩く七人の従者たち——ルクスヴェル大陸の頂点を極める化け物たちの顔色は、もはや死人のように青ざめ、全身から尋常ではない滝のような冷や汗を吹き出していた。
(……おい。エラン殿。前方のあの光る回廊、お前の眼にはどう見えている)
獣人ロアンが、大剣『滅山』の柄を握りしめたまま、ギリギリと歯を食いしばって念話を飛ばした。
(……ええ、見えていますわ。あのように美しく燐光を放つ石畳など、ただの『高度な幻術』。あの通路には……床など存在しません)
エルフのエランが、杖を握る手をガタガタと震わせながら答えた。
そう。シルヴィが「キラキラ光って綺麗!」と無邪気に突き進んでいる前方の回廊。
そこは、古代の賢者が仕掛けたこの遺跡でも屈指の悪辣なトラップ——【愚者の奈落】と呼ばれる空間であった。
一見すると、緑色の燐光を放つ美しい石畳がまっすぐに続いているように見える。
しかし、それは侵入者を欺くための精巧な視覚トリックであり、実際には石畳など一枚も存在しない。あるのは、底が見えないほど深く、暗い『底なしの縦穴』だけである。
しかも、ただの落とし穴ではない。
エランの魔力探知によれば、その縦穴の内部には強力な【反魔法領域】が展開されていた。つまり、穴に落ちた瞬間に浮遊魔法や転移魔法はすべて無効化され、ただ重力に従って数千メートル下にあるであろう無数の毒槍の海へと真っ逆さまに落下するしかない、完全なる初見殺しの死地なのである。
(姫様! 今すぐお待ちください! そこは床がありません!!)
(ダメだ、声をかければ姫様が驚いてバランスを崩してしまうかもしれない!!)
(どうする!? 物理的に姫様を引っ張り戻すか!?)
七人の脳内で、超高速の軍議が交わされる。
しかし、彼らが迷っている間にも、やる気に満ち溢れたシルヴィの歩みは止まらない。
「なんかこの光る床、ちょっとフワフワしてて不思議な感じがするねー!」
シルヴィの小さなブーツが、幻術によって描かれた「光る石畳(ただの空洞)」へと、無防備に踏み出されようとしていた。
『————マズいッ!!』
七人の猛者たちの心臓が、恐怖で文字通り凍りついた。
シルヴィの足が、中空を踏み抜いた。
カクッ。
「あれ?」
シルヴィの身体が、重力に引かれてフワリと沈み込み始める。
足の裏に床の感触がない。幻術の石畳をすり抜け、彼女の小さな身体が底なしの奈落へと落下を開始したのである。
その瞬間。
時間にして、わずか【0.1秒】。
しかし、極限の集中状態にあった七人の化け物たちの脳内では、その0.1秒は永遠のように引き伸ばされ、それぞれの頭の中で最適解を求めるためのすさまじい演算が行われていた。
(俺が腕を伸ばして姫様の首根っこを掴む! ……いや、ダメだ!! 姫様のステータスは筋力1、体力1。俺の剛腕で落下中の姫様を急停止させれば、その衝撃で姫様の華奢な肩が外れてしまう!!)
ロアンが己の獣の身体能力を呪った。
(私が風の精霊で姫様の身体を包み込んで浮かせますわ! ……ダメです、奈落には反魔法領域が! 魔術が発動するまでに0.5秒のラグが生じます! その間に姫様は数メートル落下してしまい、精神的な恐怖を与えてしまいます!!)
エランが己の魔術の遅延を呪った。
(私の聖なるオーラで足場を作る! ……いや、魔法と同じく打ち消される!)
(アタシのドレスなら底のトゲに落ちても無傷だが、バンジージャンプのような落下体験自体がアウトだ!!)
(私の影移動も、この特殊な磁場では座標がズレる!)
(コウモリに変化して受け止めるには、姫様は重すぎますわ!!)
セリア、マイラ、ノクティス、ルル。
彼らもまた、自らの能力と『反魔法領域』という古代のギミックの前に、最適解を見出せずにいた。
姫様の身体に物理的な負担(衝撃)を一切与えず。
姫様に「落ちた」という恐怖心すら一ミリも感じさせず。
このまま自然な形で、見えない落とし穴を通過させる方法。魔法が使えないこの状況で、そんな神業が可能なのか。
——否、可能である。
この場にただ一人、魔法に頼らずとも、圧倒的な『物理的質量』と『強靭な肉体』を持ち、かつ【姫様を玉座にお乗せする】という使命にすべてを懸けている男がいれば。
(退け、貴様ら。姫様の足場は、俺が創る)
竜騎士ダリウス。
彼の思考は、他の誰よりも早く、そして最もイカれた結論に達していた。
ドガァァァァァァァァンッ!!!!
ダリウスの二メートル半を超える巨体が、凄まじい脚力で床を蹴り、シルヴィが落下しかけている縦穴の中へと、文字通り「頭からダイブ」したのである。
反魔法領域など関係ない。彼は純粋な筋力と質量だけで、空気を切り裂いて落下していく。
(俺の竜の血よ、極限まで沸騰しろ!!)
ダリウスは、空中で自らの巨大な身体を水平に捻った。
そして、奈落の左右の石壁に向けて、自らの両腕と両脚を、ありったけの力で「バンッ!!」と突っ張らせたのだ。
メキメキメキッ!!
ダリウスの手足に生えた漆黒の竜鱗が、数千年の強度を誇る古代の石壁に深く突き刺さり、火花を散らす。
彼の巨体が、縦穴の空中で「つっかえ棒」のようになり、ピタリと停止した。
しかし、ただ停止しただけでは意味がない。
彼の背中の上に、今まさにシルヴィの足が降りてこようとしているのだ。
もしダリウスの背中が岩のように硬ければ、シルヴィは「硬いものに落ちた」と衝撃を感じてしまう。最悪の場合、足首を捻ってしまうかもしれない。
(全神経を、背中の筋肉に集中させろ!! 姫様の柔らかい足の裏が触れる、そのわずかな接地面積の筋肉だけを、最高級のベルベットクッションのように弛緩させるのだ!!)
ダリウスは、自らの手足にかかる数トンの反発力を気合いでねじ伏せながら、背中の筋肉の硬度をミリ単位で調整した。
鋼鉄の竜鱗を瞬時に引っ込め、筋肉を極限まで柔らかくし、かつ沈み込みすぎない『絶妙なトランポリンのような弾力』を生み出す。
そして。
シルヴィの小さなブーツが、中空をわずかに数センチ落下したところで。
ポスンッ。
「あれ?」
シルヴィの足が、ふかふかで、それでいてしっかりとした弾力のある『何か』の上に着地した。
それは、魔法でも幻術でもない。
汗と涙と狂信的な努力によって生み出された、竜騎士ダリウスの【生身の背中(絶対安静クッション仕様)】であった。
「……なんか、急に床がフワフワになったよ? 不思議な感触!」
シルヴィは、自分が奈落に落ちかけたことなど一ミリも気づいていなかった。
視覚的には「光る石畳」という幻術がかかったままであるため、彼女の目には「光る床の上を歩いている」ようにしか見えない。
だが実際の足元は、ダリウスの背中なのである。
シルヴィがもう一歩、前へと足を踏み出す。
(ぐおぉぉぉぉっ!! 姫様のお御足が!! 俺の背中を!! 踏んでおられる!!)
ダリウスの脳内で、歓喜のファンファーレが鳴り響いた。
両手両足を壁に突き刺し、空中で信じられない体勢をキープしている彼にとって、その筋肉にかかる負担は強烈な拷問に等しい。
だが、そんな苦痛など、ダリウスにとっては宇宙最高の極上のご褒美であった。
(あぁ……なんという羽毛のような軽さ! なんという愛らしい足音! 俺は今、数千年の歴史を持つ古代遺跡の奈落で、我らが女神の『床』となっている! 俺の存在意義が、今ここで完全に証明されたのだ!!)
ダリウスの目から、滝のような感動の涙が噴き出し、奈落の底へとパラパラと落ちていく。
「わあ、トランポリンみたいで楽しい! ポヨン、ポヨンってする!」
シルヴィは全く疑うことなく、ダリウスの背中の上を「えいっ、えいっ」と少し跳ねるようにして楽しげに歩いていく。
(ひ、姫様!! 飛び跳ねておられる!! ああ、もっと! もっと力強く踏みしめてください!! 俺の背中は、姫様のためだけに存在しているのですから!!)
ダリウスは、シルヴィが飛び跳ねるたびに、その衝撃を完全に吸収して相殺するため、自らの背筋を超高速で波打たせ、文字通り「生きているトランポリン」と化していた。
その、あまりにも常軌を逸した光景を。
落とし穴の手前で取り残された六人の従者たちは、血の涙を流しながら見つめていた。
「…………ダリウスの野郎ォォォッ!!」
ロアンが大剣を地面に叩きつけ、ギリギリと歯を食いしばった。
「あのトカゲ野郎、一人だけ抜け駆けしやがって!! 姫様のお御足をその背中に受けるなど、どれほどの栄誉か分かっているのか!! 代われ!! 今すぐその場所を俺と代われェェェッ!!」
「ずるいですわ! ずるいですわダリウス!!」
エランが杖をへし折りそうな勢いで悔しがっている。
「姫様が『フワフワして楽しい』と笑っておられる……! あの笑顔を引き出したのが私ではなく、あのような汗臭い竜騎士の背中だなんて! 許せません、今すぐ私が炎の精霊で奴の背中を焼いて、代わりに私が床になりますわ!!」
「ぐぬぬ……! 聖女様のお足元を支えるのは、このセリアの神聖なる盾であるべきだというのに!」
「クソッ、アタシのオリハルコンの板よりも、あのトカゲの筋肉の方が弾力があるってのかよ!」
「あああ……姫様のブーツの裏……私も踏まれたい……!!」
ロアン、エラン、セリア、マイラ、ルルの五人が、嫉妬と羨望で狂いそうになりながら、ダリウスに向けて強烈な殺気を放っている。
唯一、冷静な執事であるノクティスだけが、血走った目で暗器を磨きながら呟いた。
「……フン。体力勝負の床暖房など、下等なトカゲに任せておけばいい。私の使命は、姫様がこの先で喉を渇かせた時に、最高の紅茶を瞬時に提供することだ……」
(※ノクティスの手も悔しさでブルブルと震えていた)
「おーい、みんなー! 早くおいでよー! この床、すっごく楽しいよー!」
見えない落とし穴(ダリウスの背中)を悠々と渡り切り、対岸の安全な通路へと辿り着いたシルヴィが、満面の笑顔で六人に向かって手を振った。
「「「「「「ハッ!! 今すぐお傍に!!」」」」」」
六人の従者たちは、我を忘れて奈落へと飛び出した。
彼らもまた、ダリウスの背中(生きる橋)の上を渡らなければならないのだが。
「退けェェッ! まずは俺が姫様の元へ行く!!」
ドンッ!! と、ロアンの重いブーツがダリウスの背中を容赦なく踏みつけた。
「きゃっ、ロアン押さないでくださいわ! 私は優雅に渡りますから!」
カツンッ! と、エランの尖ったヒールがダリウスの鱗に突き刺さる。
「どっこいしょっと! いやー、竜の背中は安定してるねぇ!」
ドスゥンッ! と、マイラが百キロのハンマーを担いだままダリウスの上を歩く。
(……貴様らァァァッ!! 姫様だからクッションにしただけで、貴様らのような汚らわしい連中まで柔らかく受け止めると思うなよ!!)
ダリウスは、六人の従者たちが渡る瞬間だけ、背中の筋肉を【オリハルコンをも凌ぐ超硬質の竜鱗】へと強制的に硬化させた。
「ぐはぁっ!? な、なんだこの床!? さっきまでフワフワだったのに、急に鉄板のように硬く……! 膝が砕けるかと思ったぞ!!」
ロアンが痛みに顔を歪める。
「あ痛っ!? ヒールが折れましたわ! このトカゲ、意図的に硬くしましたわね!?」
エランが涙目で抗議する。
「……フン。我が背中は、姫様だけの特等席だ。貴様らのような羽虫どもは、せいぜい足の裏を痛めておくがいい」
ダリウスが鼻を鳴らし、全員が渡り切ったのを確認してから、悠然と壁から手足を抜き、対岸へと跳躍して着地した。
「あれ? ダリウスさん、いつの間に下から来たの? 忍者みたい!」
シルヴィが目を丸くして拍手をする。
「ははっ! 姫様の安全をお守りするため、少々地下の構造を確認しておりました。この先の道も、問題ございません!」
ダリウスは、満身創痍の背中(ロアンたちに踏まれたため)の痛みを微塵も見せず、爽やかな竜の笑みを浮かべた。
「そっか! ダリウスさんがそう言うなら安心だね! じゃあ、どんどん行こう!」
シルヴィは、自らが「初見殺しのSランク即死トラップ」を一つクリアしたことなど夢にも思わず、再びご機嫌な足取りで遺跡の奥へと進んでいく。
古代賢者が数千年の叡智を注ぎ込み、無数の挑戦者を絶望の底に突き落としてきた『愚者の奈落』。
それは、一人の竜騎士の「姫様に足の裏の衝撃を与えてはならない」という常軌を逸した愛と筋肉(物理)によって、完全に存在意義を否定され、ただの【ちょっと楽しいトランポリンの通路】へと成り下がってしまったのである。
そして、彼らの破天荒すぎる遺跡破壊ツアーは、まだ始まったばかりであった。
「……おい、ロアン。前方から凄まじい魔力の気配がするぞ。次のトラップの起動音だ」
「フン。姫様を驚かせるような仕掛けは、俺の滅山で残らず鉄屑に変えてやる。行くぞ貴様ら!!」
「「「「「「応!!!」」」」」」
レベル1の吸血姫の背中を守るため、七人の化け物たちの目は、完全に殺戮者のそれへと変わっていた。
古代遺跡の悲鳴が、今日この日、ルクスヴェル大陸の東の果てに響き渡ることになる。




