第3話:慈悲深き姫(ただの善人)と忠誠の誓い
森の木々を揺らす風が、どこか冷たく感じられた。
シルヴィは未だに地面に尻餅をついたままで、ぜぇぜぇと荒い息を吐き出していた。体力「1」という貧弱な肉体にとって、先ほどの絶体絶命の危機と、そこからの感情の激昂は、あまりにも過酷な運動だったらしい。心臓がバクバクと五月蠅く鳴り響き、冷や汗が背中を伝う。
(……はぁ、もうだめ……。私、異世界に来てから数十分しか経ってないのに、すでに寿命が10年くらい縮まった気がする……)
前世の記憶の片隅にある、平和なオフィスの椅子や、温かい緑茶の味が恋しくて仕方がなかった。こんな危険なモンスターがうろつく森の中で、美少女の姿をしたスライム以下の戦闘力で生きていけるわけがないのだ。
そんなシルヴィの心情など露知らず、目の前では二人の超一流冒険者が、まるで世界を救った聖人でも拝むかのような熱烈な眼差しで彼女を見つめていた。
「姫様……怪我はありませんか? あの下等生物の汚らわしい圧力が、万が一にも貴女様の絹のようなお肌を掠めてはいないでしょうか……!」
獣人の戦士・ロアンが、まるで壊れ物を扱うかのようにぶるぶる震えながら、巨大な両手を差し出してきた。その巨体から発せられる圧倒的なプレッシャーは先ほどよりも遥かに強大だが、今のロアンの目には敵意の欠片もなく、ただひたすらに純粋な「崇拝と心配」の色だけが浮かんでいた。
また、少し離れた場所ではエルフのエランが、青ざめた顔で自分の杖を握りしめている。
「ああ、なんて恐ろしいことをしてしまったのかしら……。もし私の魔法の余波が、少しでも姫様の御髪を焦がしていたらと思うと、今すぐこの場で腹を切ってお詫びしなければ気が済みませんわ……!」
「いや、切らなくていいから! 切らないで!」
シルヴィは慌てて両手をブンブンと横に振った。自害されでもしたら精神的に耐えられない。
その必死な拒絶のポーズを見たロアンとエランは、なぜかさらに胸を打たれたように、感極まった表情でガタガタと震え出した。
「お聞きになりましたか、エラン……! なんという寛大なお言葉……! 自分を殺しかけた私たちを責めるどころか、自害すら気遣ってくださる……! この慈悲深さ、まさに真の聖女、いいや、それをも超越した存在です……!」
「ええ、ええ、ロアン! 私たちはなんと愚かで、罪深い存在だったのでしょう……! このような気高い御方を、ただの迷子だと思い込んで守護しようなどと、おこがましいにもほどがありましたわ!」
二人の中で、シルヴィに対する評価が「守ってあげるべきか弱い少女」から「私たちが崇拝し、魂を捧げるべき絶対的な女神」へと、ものすごいスピードで跳ね上がっていく。
シルヴィとしては「いや、ただ本当に死にたくなかっただけなんだけど……」とツッコミを入れたかったが、言葉にしようにも体力と気力が追いつかず、ただ「は、はあ……」と乾いた笑いを浮かべるのが精一杯だった。
その時、ふとシルヴィの腹の虫が「ぐぅ〜」とかわいい音を鳴らした。
ピタリと、ロアンとエランの動きが止まる。
「……いま、なにか聞こえませんでしたか?」
「ええ、まるで世界で一番美しい小鳥のさえずりのような、しかし、どこか切なげな音が……」
「お腹が空いたの……」
シルヴィが恥ずかしそうに両手でお腹を抑えながら呟くと、二人は雷に打たれたような衝撃を受けた顔をした。
「なっ……! 姫様がお腹を空かせているだと……!? あああ、なんてことだ! 私という専属の護衛(自称)がいながら、主君に飢えの苦しみを与えてしまうとは、切腹では足りません、生き恥を晒すことになります!」
「落ち着いてくださいロアン! でも、確かに一大事ですわ! 早く、早く何か栄養のあるものを……!」
ロアンは慌てて背負っていた大きな荷物袋を漁り始め、エランは周囲の木々に目を凝らして「この森に生えている果物の中で、最も高貴で毒のないものを……」と必死になり始めた。
(なんか、この人たち、すごく頼りになるのか、それともただの過激派ファンなのか分からない……でも、悪意がないのは本当みたい……)
シルヴィは地面に手をつき、よいしょ、と何とか立ち上がった。
しかし、筋力「1」の身体はやはり重く、ふらりと足元が揺らぐ。
「きゃっ」
転びそうになったシルヴィの体を、ロアンの巨大で温かい手が素早く、しかし羽毛に触れるかのように優しく支えた。
「おっと……! 申し訳ありません、姫様!」
「あ、ありがとう……ロアンさん、だっけ?」
「はっ! ロアンとお呼びください! このロアン、命に代えても貴女様をお守りいたします!」
ビシッと敬礼するように胸を叩くロアンと、隣で「私もですわ!」と強く頷くエラン。
二人の圧倒的な熱量に気圧されつつも、シルヴィは自分が置かれた状況を少しずつ整理し始めた。
(吸血鬼の真祖で、ステータスは全部1のハリボテ。でも、なぜかこの世界の人たちは私を見ると勝手に崇拝してくれて、命を懸けて守ろうとしてくれる。これって、戦わなくても生きていける……ってことよね?)
もちろん、いつ化け物級の魔物が現れるか分からないこの異世界で、自分の戦闘力が「1」というのは恐怖でしかない。しかし、目の前にいる二人のような「過保護すぎる最強の従者」を味方につけておけば、少なくとも野垂れ死にする心配はなさそうだった。
「あのさ、ロアン、エラン。私、記憶が曖昧で、この世界のこともよく分からないの。それに、行く当てもなくて……」
シルヴィが少し不安そうに俯きながらそう言うと、ロアンとエランは顔を見合わせ、力強く頷いた。
「お任せください、姫様! 貴女様がどのようなご事情であれ、このロアンが一生涯お供いたします! まずはこの近くにある城塞都市『グランヴェール』へ向かいましょう。あそこなら、姫様にふさわしい最高級の宿と、美味しい食事が用意できます!」
「賛成ですわ、ロアン。あんな鄙びた森の中に、姫様をこれ以上留めておくなど言語道断。さあ、グランヴェールへ参りましょう!」
しかし、すぐに現実的な問題が立ち塞がった。
「ううん、歩いて行けるかな……私、なんだかすごく足が疲れて……」
そう、シルヴィの体力と敏捷は「1」である。少し歩くだけで息切れし、数分で動けなくなるような貧弱仕様なのだ。
それを聞いたロアンは「はっ!」と顔を青くした。
「私の配慮が足りませんでした……! このような舗装もされていない荒れた道を、姫様の御御足で歩かせるなど、万死に値する失態……!」
ロアンは振り返ると、近くに生えていた太い巨木をじっと見つめた。その眼光が鋭く光る。
「おい、木よ。少し失礼するぞ」
ドゴォッ! と凄まじい音と共に、ロアンが素手で(あるいは大剣の柄で)巨木の一本をいとも簡単に薙ぎ倒した。驚愕するシルヴィの目の前で、ロアンは手際よく木を切り刻み、数分も経たないうちに、頑丈で美しい「即席の輿(こし・王侯貴族が乗るような移動用の椅子)」を作り上げてしまった。
「さあ、姫様。こちらにお座りください。これより、このロアンが責任を持って、一歩も歩かせることなくグランヴェールまでお運びいたします!」
「ちょ、ちょっと待って! そんなの恥ずかしいよ! 私が自分で歩くから……」
「いいえ、ご遠慮なさらず! むしろ私に運ばせていただけることが、このロアンにとっての無上の喜びなのです!」
エランもまた、自分の杖を軽く振るった。
「それだけでは不十分ですわ、ロアン。姫様の美しい金髪と白いお肌が、太陽の紫外線や埃で傷つかないよう、私が風の精霊による微風のヴェールと、日傘の魔法を展開しておきますわね」
ふわり、と心地よいそよ風がシルヴィを包み込み、頭上には眩しい光を遮る優しい木漏れ日のような魔力の傘が現れた。
「あわわ……なんだか至れり尽くせりすぎて、逆に申し訳ない気持ちになってきた……」
シルヴィが両手で顔を覆って赤面すると、ロアンとエランはその姿を見て「あぁ、なんて奥ゆかしく愛らしいお方なのだ……!」と勝手に感動の涙を流している。
もはやシルヴィが何をしても、彼らの脳内フィルターを通すと「世界最高峰の美徳」に変換されてしまうようだった。
「さあ、姫様。お乗りください」
ロアンが恭しく頭を下げ、即席の輿を差し出す。
拒否する選択肢はないと悟ったシルヴィは、トボトボと歩いて輿に腰掛けた。
ふかふかとした草が敷き詰められており、座り心地は悪くない。むしろ、高級なソファーよりも快適かもしれない。
「それじゃあ……グランヴェールって街まで、よろしくね」
「はっ! お任せください、姫様! 出発進行!」
ロアンがひょいと軽々と輿を持ち上げ、まるで揺れを一切感じさせないような完璧な足取りで歩き出す。その脇を、エランが優雅に舞うようにして付き従う。
輿に揺られながら、シルヴィは空を見上げた。
どこまでも高く、どこか青すぎる異世界の空。
自分のステータスは最低最悪の「1」のハリボテ。現代知識もチートな能力もない。だけど、なぜか最強の戦士と精霊使いが自分の下僕(?)になって、過保護すぎるほど大切に扱ってくれている。
「……なんか、思ってた異世界生活と全然違うけど……まあ、いっか!」
シルヴィはクスリと微笑み、風のヴェールに髪を揺らされながら、まだ見ぬ街へと向かって揺られていくのだった。
これが、のちに大陸全土を揺るがす「最強にして最恐の吸血姫伝説」の、あまりにも平和でコミカルな第一歩であった。




