第2話:スライム遭遇と過剰すぎる救世主
ギュッと固く目を瞑り、両手で顔を覆ったまま、シルヴィは死の衝撃を待っていた。
スライムが地面を蹴る、水風船が弾けるような「キュイッ」という音が耳に届いてから、すでに数秒が経過している。
シルヴィのステータスは、体力はおろか防御力も敏捷性もすべて最低値の「1」だ。一般的な村人以下のひ弱な肉体である。スライムの体当たりであっても、まともに食らえば骨の数本は軽く折れ、最悪の場合は内臓破裂で即死する自信があった。
(あぁ、短い二度目の人生だった……。せめて、来世はもうちょっとステータス割り振りがまともな世界に生まれたい……お母さん、お父さん、ごめんなさい……)
脳内で走馬灯の準備を始め、ギュッと奥歯を噛み締める。
——しかし。
1秒、2秒、3秒、5秒、10秒……。
どれだけ待っても、顔面や腹部にスライムの冷たいゼリー状の肉体がぶつかってくる気配はない。痛みも、衝撃も、何一つ訪れなかった。
「……あれ?」
恐る恐る、顔を覆っていた両手の指の隙間から、薄く目を開けてみる。
視界に飛び込んできたのは、信じられない光景だった。
先ほどまで獲物を狙う肉食獣のように凶暴なジャンプを見せていた青いスライムが、シルヴィの顔の数十センチ手前の空中で、まるで透明な壁にでも激突したかのようにピタリと静止し、そのままボトリと地面に落ちていたのだ。
「きゅ、きゅいぃ……っ」
しかも、スライムはぶるぶると激しく震えている。獲物を前にした興奮の震えではない。それは明らかな『恐怖』による震えだった。まるで、天敵の前に引きずり出されたカエルのように、スライムは地面にへばりついて小刻みに震縮を繰り返している。
「ど、どうしたの……?」
シルヴィが状況を飲み込めず、きょとんと首を傾げたその時だった。
「——貴様。その汚らわしい粘液を、あろうことかその気高く美しい御方にぶつけようとしたな……? 万死、いや、億死に値するぞ」
地鳴りのような、低く、しかし明確な殺気を孕んだ野太い声が森に響き渡った。
ビクッとして声のした方向を見上げると、そこにはシルヴィの常識を覆す二つの影が立っていた。
一人は、見上げるほどの巨漢だった。身長は優に2メートルを超えているだろう。筋骨隆々の丸太のような腕、鋭い牙、そして頭にはピンと立った獣の耳が生え、腰からは銀色の毛並みを持つ立派な尻尾が伸びている。獣人族の戦士だ。
身の丈ほどもある巨大な無骨な大剣を肩に担ぎ、その眼光は歴戦の傭兵のように鋭い。
もう一人は、対照的に華奢で流麗な姿をした女性だった。
美しいエメラルドグリーンの長い髪、尖った耳。森の精霊がそのまま具現化したような神秘的な美貌を持つエルフだ。彼女が身に纏うローブからは、素人目に見ても尋常ではない濃密な魔力が立ち昇っており、手にした杖の先端にある水晶は、チカチカと危険な光を放っている。
二人は、偶然この森を通りかかっただけの高ランク冒険者だった。
だが、彼らの視線は、地面で震えるスライムではなく、尻餅をついて涙目になっているシルヴィの姿に釘付けになっていた。
その瞬間、シルヴィの脳内に再びあのシステム・ナビゲーターの無機質な声が響いた。
『通知:パッシブスキル【真祖の威光】および【絶対的庇護欲】が、前方のアクティブな生命体二名に対して自動発動しました。対象の精神に干渉し、ステータス【魅力】【カリスマ】のカンスト値に比例した強制力が適用されます』
「……えっ?」
システムのアナウンスが終わるか終わらないかのうちに、二人の様子が劇的に変化した。
獣人の戦士は、先ほどまでの荒々しい歴戦の戦士の顔を完全に喪失し、ポカンと口を開けてシルヴィを見つめている。その頬はみるみるうちに朱に染まり、鋭い犬歯がのぞく口元はだらしなく緩み始めた。
そして、後ろでピンと張り詰めていた銀色の尻尾が、突如として『ブォンブォンブォン!!』と、まるでヘリコプターのプロペラかのように猛烈な勢いで左右に振られ始めたのだ。尻尾の風圧で周囲の落ち葉が竜巻のように舞い上がる。
「あ、ああ……なんという……なんという愛らしく、儚く、尊い御方なのだ……!!」
獣人の戦士は、大剣を取り落としそうになるのを慌てて握り直し、目を潤ませて叫んだ。
「俺の、俺の魂が叫んでいる! この御方をお守りしなければ、俺がこの世に生まれてきた意味がないと! 見ろ、あの怯えた子鹿のような瞳! 今にも壊れてしまいそうな華奢な肩! 俺のすべてを懸けて、指一本、いや、風のひと吹きすら触れさせてはならないッ!!」
完全に何かのスイッチが入ってしまったらしい。
一方、隣に立つエルフの女性も、ただならぬ状態になっていた。
彼女は元々、人間や他の種族を見下すような、氷のように冷たい瞳をしていた。しかし今、彼女の瞳孔は極限まで見開かれ、呼吸は荒く、頬を紅潮させてシルヴィを凝視している。
「あぁ……奇跡。これが神の奇跡なのですね。私が今まで見てきたエルフの森の芸術も、満天の星空も、この御方の美しさの前では泥水も同然……。なんという無垢、なんという神聖なる輝き。あぁっ、私の女神様……!」
エルフの女性は両手で顔を覆い、感激のあまりポロポロと涙を流し始めた。
二人の脳内では、シルヴィの持つ理不尽なパッシブスキルによって『この世の何よりも守るべき絶対的な存在』としての書き換えが完了してしまっていたのだ。
「えっと……あの……?」
シルヴィがおずおずと声をかけようとした瞬間、二人の視線が、シルヴィの足元でピクピクと痙攣している青いスライムへと向けられた。
その瞬間、二人の表情から一切の慈愛が消え失せ、絶対零度の殺意が森を支配した。
「……おい、そこの下等生物」
獣人の戦士の声は、地獄の底から響く悪魔のようだった。
「貴様、我らが姫君(今勝手に決めた)の玉肌に、その薄汚いゼリーを擦り付けようとしたな? 姫君の美しい瞳に『恐怖』という感情を抱かせたな?」
「許せません……ええ、決して許してはなりませんわ、ロアン」
エルフの女性が杖を高く掲げた。
「このような下等で醜悪な粘液生物が、私の女神の視界に1秒でも存在し続けること自体が、宇宙の法則に対する重大な反逆ですわ。今すぐ、その存在そのものを歴史から抹消いたします」
「待てエラン、俺がやる! 俺のこの愛剣『滅山』で、あいつの細胞一つ残さず微塵切りにしてやる!」
「野蛮な剣など引っ込めていなさい! 姫君の御前が血(?)で汚れるでしょう! 私の『古代精霊の浄化炎』で、跡形もなく消し炭にして差し上げますわ!」
二人の周囲で、尋常ではないエネルギーが膨れ上がり始めた。
獣人・ロアンの構えた大剣からは、黄金色の闘気が噴火のように立ち上り、周囲の空間がビリビリと歪む。
エルフ・エランの掲げた杖の先には、太陽を直接持ってきたかのような超高熱の巨大な火球が形成され、森の木々が熱でチリチリと焦げ始めた。
「きゅ、きゅいいぃぃぃぃっ!?」
スライムは絶望的な悲鳴を上げた。
無理もない。本来、初心者の村の子供が木の棒でポカポカ叩いて倒すような最弱モンスターに対して、魔王の側近を倒す時に使うような『国宝級の絶技』と『戦略級の古代魔法』が同時に放たれようとしているのだ。
オーバーキルという言葉すら生ぬるい。蚊を落とすために核ミサイルを撃ち込もうとしているようなものである。
そして、それ以上に絶望していたのは、他ならぬシルヴィ本人だった。
(ま、待って待って待って!? なにあのエネルギーの塊!? 剣圧だけで地面がえぐれてるし、火の玉の熱で私の髪の毛チリチリになりそうなんだけど!?)
シルヴィの防御力は「1」である。
もしあの二人がスライムに向けて全力の攻撃を放てば、間違いなくその余波だけでシルヴィの体力はゼロになり、消し飛んでしまう。
助けに来てくれた(?)はずの二人の過剰すぎる殺意が、今まさにシルヴィの命を奪おうとしていた。
「姫様! どうかその美しいお顔をお背けください! 三秒後には、この汚らわしい塵は消滅しております!」
「私の女神様、目障りな虫はすぐに駆除いたしますわ! さあ、塵一つ残さず消え去りなさい!!」
二人が同時に、必殺のモーションに入った。
スライムは完全に死を悟り、液状化して地面に溶け込もうとしている。
「や、やめてえええええええええっ!!」
シルヴィは、残されたなけなしの体力(1)を振り絞り、必死の形相で両手を広げて叫んだ。
「スライムさん可哀想だから! 絶対に攻撃しないで!! お願いだからぁっ!!」
その悲痛な叫び声(本人は自分の命乞いのつもり)は、極限まで高まっていた二人の必殺技を、見事に強制キャンセルさせた。
「……なっ!?」
「ひ、姫様!?」
ロアンは大剣の軌道を無理やり空へと逸らし、強烈な剣圧が上空の雲を真っ二つに切り裂いた。
エランは杖に込めた極大魔法を自らの魔力回路に逆流させて打ち消し、「かはっ!」と血を吐きながら膝をついた。
二人とも、シルヴィの言葉を聞いた瞬間に「何があっても攻撃を止めなければ」という絶対の服従本能が働き、自らを傷つけてでも攻撃を停止したのである。
静寂が戻った森の中で、シルヴィはへたり込んだまま、ぜぇぜぇと肩で息をしていた。
助かった。間一髪、余波で死ぬところだった。
一方、無理やり攻撃を止めた二人は、荒い息を吐きながら、信じられないものを見るような目でシルヴィを見つめていた。
「……なんという、ことだ……」
ロアンが震える声で呟いた。
「自らの命を狙い、牙を剥いた醜悪な魔物に対して……『可哀想だから』と、庇われたというのか……?」
「あぁ……信じられませんわ……」
口元から流れた血を拭いもせず、エランもまた、神の奇跡を目の当たりにした信者のように瞳を輝かせた。
「あれほどの恐怖を前にしても、なお他者を慈しむ心。すべての生命を等しく愛する、海よりも深く、空よりも果てしない慈悲の精神……っ! 私、自分の底の浅さが恥ずかしいですわ。なんて、なんて気高く美しい魂の持ち主なのでしょうか……!!」
(えっ?)
シルヴィは首を傾げた。
別に慈愛の精神を発揮したわけではない。「私が巻き込まれて死ぬからやめろ」と叫んだだけである。そもそも、体力1の今の彼女にとって、目の前のスライムよりも、この過剰戦力の二人の方がよっぽど『命を脅かす恐ろしい存在』だったのだ。
しかし、パッシブスキルによって脳内フィルターが「シルヴィ=尊き女神」に固定されている二人にとって、その行動は『究極の自己犠牲と慈悲』にしか見えなかった。
スライムは、命拾いしたことを悟ったのか、あるいはシルヴィから発せられる『真祖の威光』に完全に平伏したのか。プルプルと小刻みに震えながら、シルヴィに向かって何度もお辞儀をするような動作(ゼリーが前後に揺れるだけだが)を繰り返し、そのまま弾かれたように森の奥へと逃げていった。
その様子を見たロアンとエランは、ついに感極まり、シルヴィの御前にドサリと両膝をついた。
「姫君……いや、我が主よ。この愚かなロアン、貴女様の海のようなお心に、完全に打ちのめされました。どうか、この命、貴女様の盾としてお使いください!」
「私の女神様。このエランの生涯は、今この瞬間のためにあったのですね。貴女様の歩む道に咲く花として、どうか私をお傍に置いてくださいませ……!」
二人の高ランク冒険者は、額を地面にこすりつけるような勢いで、最弱レベル1の吸血姫に絶対の忠誠を誓ってしまった。
「え、えええ……? なんだかよく分からないけど……とりあえず、私を殺さないでくれるなら、よろしくね……?」
体力1で立ち上がることもできず、泥だらけのまま愛想笑いを浮かべるシルヴィ。
こうして、最弱の主人公と、彼女を神のごとく崇拝する最強で過保護な従者たちによる、壮大なる勘違いの旅が幕を開けたのであった。




