第1話:魂のルーレットと絶望のステータス
ふかふかとした、妙に柔らかい感触が頬をくすぐっていた。
どこかで小鳥のさえずりが聞こえる。風が木々を揺らす、ざわわという心地よい葉音。そして、土と草の青っぽい匂い。
「……んん……」
重い瞼をゆっくりと持ち上げると、視界いっぱいに眩しい木漏れ日が飛び込んできた。見上げるほど高い、見たこともないような巨大な広葉樹の枝葉が、空の青さを切り取るように広がっている。
体を起こそうとして、手をついた場所がふかふかの苔むした地面であることに気づいた。
「えっと……ここは、どこ……?」
自分が誰で、今まで何をしていたのか。頭の中に霞がかかったように曖昧だった。
ただ、「満員電車に揺られていた」「毎日パソコンの画面を睨んでいた」といった、現代日本と思われる漠然とした記憶の断片だけが、パラパラと脳裏をかすめていく。しかし、自分の本名や家族の顔、具体的な人生の記憶は、どうしても思い出せなかった。
まるで、夢から覚めた直後に、その夢の内容を急速に忘れていくような感覚。
その時だった。
『ピーン! 魂の定着を完了しました。ルクスヴェル世界へようこそ、新たな来訪者様』
無機質だが、どこか事務的な明るさを持った声が、脳内に直接響き渡った。
「ひゃあっ!? な、なに? 誰の声!?」
『私はシステム・ナビゲーターです。貴女の魂は元の世界で限界を迎え、この異世界ルクスヴェルへと迷い込みました。当世界では、新たな魂が肉体を得る際、神の用意した【魂のルーレット】によってすべての初期設定が行われます』
「たましいの、ルーレット……?」
『はい。種族、性別、容姿、初期ステータス、所持スキルのすべてが、完全なるランダムで決定されるシステムです。なお、一度決定された設定はいかなる手段を用いても【絶対に変更不可】となっております』
異世界転生。ルーレット。絶対に変更不可。
なんとなく残っている現代知識のサブカルチャー的な語彙が、その状況を瞬時に理解させた。つまり、自分は死んだか何かでこのファンタジー世界にやってきて、キャラメイクをすべて運任せにされたということらしい。
「え、ええと……じゃあ、私の今の姿ってどうなってるの?」
『ご自身の目で確認されることを推奨いたします』
システムの声に促され、ふらつく足で立ち上がる。なんだか体が酷く軽く、同時に酷く重いような、ちぐはぐな感覚があった。
周囲を見渡すと、少し離れた場所に澄んだ水たまりがあるのが見えた。そろそろと近づき、そっと水面を覗き込む。
「…………えっ?」
水鏡に映っていたのは、見ず知らずの『絶世の美少女』だった。
絹糸のように細く、太陽の光を吸い込んだように輝く金髪が、腰のあたりまでサラサラと流れている。肌は透き通るように白く、まるで最高級の陶磁器のよう。大きな瞳は宝石のルビーを溶かしたような深い真紅で、パチクリと瞬きをするたびに長い睫毛が影を落とす。
年齢は十代前半くらいだろうか。少しだけ幼さを残しながらも、深窓の令嬢どころか、どこかの王族の箱入り姫と言われても誰もがひれ伏すような、圧倒的で暴力的なまでの『美』がそこにあった。
身に着けているのは麻布で作られたような簡素な貫頭衣(初期装備の布の服)だが、彼女が着ているだけで、一流デザイナーが仕立てたオートクチュールのドレスに見えてくるから不思議だ。
「こ、これ……私!? 嘘でしょ、こんな可愛い子……」
自分の頬をぷにぷにと引っ張ってみる。水面の美少女も同じように頬を引っ張った。
信じられない。前世の記憶は曖昧だが、間違いなくこんなに美しくはなかったはずだ。
「やった……! ルーレット大成功じゃない! これなら異世界でもアイドルとして生きていけるかも!」
『ご自身の詳細な情報を確認する場合は、「ステータス・オープン」と念じてください』
「あっ、はい! ステータス・オープン!」
ウキウキとした気分で声に出すと、空中に半透明のウィンドウがふわりと浮かび上がった。そこには、RPGのゲーム画面のような項目が並んでいる。
【名前】 シルヴィ
【種族】 夜魔の真祖(吸血鬼の姫)
【称号】 なし
【レベル】 1
「よるまのしんそ……吸血鬼のお姫様!?」
驚愕のあまり声がひっくり返った。吸血鬼といえば、ファンタジー世界における最強クラスの魔物ではないか。しかもその真祖、つまりトップオブトップである。
『補足説明いたします。種族【夜魔の真祖】が魂のルーレットで選ばれる確率は、およそ0.0000001%となっております。大変な豪運です』
「ぜ、ゼロがいっぱい……! つまり私、超激レアの大当たりを引いちゃったってことだよね!?」
興奮で胸が高鳴る。吸血鬼の真祖といえば、不老不死で、強大な魔法を使い、空を飛び、眷属を従えて夜を支配する無敵の存在。
この美貌に加えて、圧倒的な力まで手に入れてしまったのだ。これからの異世界ライフは、安全で快適で、無双しまくりのバラ色に違いない。
「ふふふ……私、世界最強の吸血姫として、優雅に生きていくわ! さあ、私の最強のステータスを見せてちょうだい!」
意気揚々と、ステータス画面の下部へと視線をスクロールさせる。
【体力】 1
【筋力】 1
【敏捷】 1
【防御】 1
【魔力】 1
【魅力】 カンスト(測定不能)
【カリスマ】 カンスト(測定不能)
「…………へ?」
シルヴィの時間が止まった。
目をこすり、もう一度ウィンドウを凝視する。しかし、並んでいる数字は変わらない。
「えっと……ナビゲーターさん。この『1』っていう数字は、もしかしてこの世界では物凄い高い数値だったり……?」
『いいえ。一般的な人間の成人男性の平均値が【10】。その辺の森にいる最弱のモンスター、スライムの平均値が【3】となっております』
「スライム以下じゃん!!」
森の中に、シルヴィの悲鳴が響き渡った。
どういうことだ。吸血鬼の真祖なのに、スライムより弱い? 筋力1ってなんだ。ペットボトルを開けるのにも苦労するレベルではないのか。防御1って、紙か何かでできているのか。
「お、おかしい! なんで吸血鬼の姫なのにこんなステータスなの!? バグ!? 絶対バグでしょ!」
『正常な仕様です。貴女は【魅力】と【カリスマ】の2項目において、ルーレットの数値をすべて吸い取ってカンストさせてしまいました。結果として、戦闘に関するすべての基礎ステータスが最低値の【1】に固定された、極端なピーキー設定となっております』
「ピーキーってレベルじゃない! ハリボテ! ただのハリボテじゃん!!」
絶望のあまり膝から崩れ落ちるシルヴィ。しかし、体力1の彼女にとっては、膝をつく動作ですら「少し疲れる」重労働だった。ぜぇぜぇと息を切らしながら、必死にウィンドウのさらに下を確認する。
「ま、待って、スキル! そうだ、吸血鬼ならすごい魔法とか、一撃必殺のスキルがあるはず!」
【アクティブスキル】
・なし
【パッシブスキル】
・『真祖の威光』:
自身よりレベルが下の者は逆らえず、上の者は謎の畏敬の念を抱く。
・『絶対的庇護欲』:
他者の「守ってあげなきゃ!」という本能を強制的にMAXにする。
「……攻撃スキル、ゼロ」
『はい。ステータスが魔力1のため、魔法を発動することは不可能です。また、筋力が1のため、剣や槍といった武器をまともに振るうこともできません』
「このパッシブスキルって何!? 敵が襲ってきたらどうするの!」
『魅力とカリスマのカンストによる強制力です。敵対する意思そのものを削ぐ、あるいは周囲に守ってもらうことに特化しております。ご自身で戦うことは推奨されません』
つまり、シルヴィは「信じられないほど顔が良くて、謎のオーラがあるけれど、腕力は虫と同レベル」という、究極の観賞用キャラクターとしてこの危険な異世界に放り出されたのだ。
「そんな……終わった。異世界モノのお約束なら、現代知識でチートして生き残る方法もあるかも……!」
頭を抱え、必死に前世の記憶を掘り起こす。
石鹸の作り方? ええと、灰と……油? 油ってどうやって抽出するの?
火薬の作り方? 硫黄と木炭と……硝石? 硝石ってどこに落ちてるの? トイレの土? 触りたくない!
マヨネーズ? 卵と油と酢を混ぜる……って、そもそも油と酢がないし、卵も森のどこにあるか分からない!
「……私、現代の知識もなにもない、ただの一般人だった……!!」
致命的な事実に直面し、シルヴィはがっくりと肩を落とした。
そもそも、彼女の性格は根っからの平和主義者であり、虫一匹殺せないような生粋の善人(というよりお人好し)である。仮に魔法が使えたとしても、魔物を容赦なく焼き払うような真似ができたかどうか怪しいところだ。
「どうしよう……こんな森の中で一人ぼっち。体力1じゃ街まで歩く前に倒れちゃうよ……」
不安で涙目になっていた、その時だった。
ガサッ、ガサガサッ。
すぐ背後の茂みが大きく揺れた。
ビクッと肩を震わせ、恐る恐る振り返るシルヴィ。
「キュイッ!」
茂みをかき分けて現れたのは、青色の半透明なゼリー状の生物だった。
バレーボールほどの大きさで、ぷるぷると震えながら、確かな敵意(あるいは獲物を見る目)を持ってこちらに近づいてくる。
「す、スライム……」
ゲームなどでは「最初の町を出て一番初めに戦うチュートリアルモンスター」として親しまれている存在。
しかし、現実世界で、しかもステータスすべてが「1」のシルヴィにとっては、見上げるような巨竜にも等しい絶望的な脅威だった。
スライムのステータス平均値は「3」。対するシルヴィの防御力は「1」。
もしあのゼリー状の体当たりをモロに食らえば、冗談抜きで骨折、あるいは即死する可能性すらある。
「ひぃっ……! こ、こないで……!」
逃げようとして立ち上がった瞬間、敏捷1の悲しき運命により、シルヴィは自分の足元にあった小さな木の根につまずいた。
「きゃっ!」という短い悲鳴とともに、見事にすってんころりんと尻餅をついてしまう。
打ったお尻がじーんと痛い。涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。
「キュイイイッ!!」
弱った獲物を見逃さないとばかりに、スライムが地面を蹴って大きく跳躍した。
青いゼリーの塊が、シルヴィの顔面めがけて弾丸のように飛んでくる。
避けられない。防げない。
「いやぁぁぁぁっ!!」
シルヴィは両手で顔を覆い、ギュッと目を瞑った。
私の二度目の人生、たったの15分で終わっちゃうんだ。
せめて、痛みを感じる前にひと思いにやってほしい。
絶望の闇の中で、彼女はただ、迫りくる衝撃を待つことしかできなかった。




