第29話:両軍総毛立つ、絶対強者の微笑み
『裁きの平原』。
かつて幾万の命が散り、無数の血を吸い込んできたこの呪われた国境の荒野は今、ルクスヴェル大陸の歴史上、最も異様で、最もシュールで、そして最も「恐ろしい静寂」に包まれた戦場と化していた。
西に布陣する人間軍十万。東に布陣する魔王軍十万。
合わせて二十万という、世界を終わらせるに十分な規模の軍勢が、今まさに開戦の突撃ラッパを吹き鳴らそうとしていたその【完全なる無人地帯】のど真ん中。
そこには、半径数十メートルだけぽっかりと「春の野原」が出現し、純度百パーセントのミスリル製シートとオリハルコン製のテーブルが広げられていた。
そして、その豪奢なテーブルを囲むようにして、一人の絶世の美少女と、彼女を狂信的に崇拝する七人の化け物たちが、極めて優雅に、かつ和やかにピクニックのティータイムを楽しんでいたのである。
人間軍の総司令官である老将軍は、馬上で完全に硬直していた。
彼の手には、全軍に突撃を命じるための宝剣が振り上げられたままである。しかし、その宝剣は今や、老将軍の激しい震えによってガタガタと情けない音を立てていた。
「な……な、なぜだ……?」
老将軍の口から、掠れた声が漏れる。
彼の視線の先、平原のど真ん中にいる金髪の少女。それは間違いなく、数日前に聖都アイギスを未曾有の災厄から救った『光の聖女様』であった。教皇から送られてきた魔法映像で、全軍がその神々しい姿を共有している。間違いようがない。
「なぜ我らの救世主たる光の聖女様が、あのような最前線のど真ん中にいらっしゃるのだ!? い、いや、それ以上に……なぜだ!!」
老将軍の目が、限界まで見開かれた。
「なぜ聖女様は、魔族の幹部どもに傅かれているのだ!?」
老将軍の視界には、信じられない光景が映っていた。
聖女様の傍らに控えているのは、魔王軍の凶悪な強硬派幹部として人間界でも悪名の高い、暗殺者ノクティスと吸血鬼ルルではないか。
しかも、あろうことかその魔族どもが、聖女様に向かって恭しく紅茶を注ぎ、手作りのサンドイッチを差し出している。そして聖女様は、それを満面の笑みで受け取っているのだ。
「将軍! あ、あれをご覧ください! 魔族どもと一緒にいるのは、我が教団が誇る最強の異端審問官、セリア特級聖騎士殿ですぞ!」
副官の騎士が、泡を吹きそうな顔で指差した。
「セ、セリア殿が、魔族の幹部と隣同士で座って、一緒にお茶を飲んでおられる……! い、いったい何が起きているのです!? セリア殿は魔族に洗脳されてしまったのでしょうか!?」
「莫迦者! あのセリア殿に限ってそのようなことがあるはずがなかろう!」
老将軍は額から滝のような冷や汗を流しながら、必死に脳内を回転させた。そして、極度の緊張と混乱の末に、一つの『超解釈』へと辿り着いた。
「……そうか。分かったぞ。あれは、聖女様の『大いなる慈悲』なのだ」
「じ、慈悲、ですか?」
「そうだ! 見よ、あの恐ろしい魔族の幹部どもを! 奴らは今、完全に戦意を喪失し、聖女様の下僕として給仕を行っているではないか! 聖女様は、武力で魔王軍を討ち滅ぼすのではなく、その絶対的な愛と光の威光によって、魔族の幹部すらも『改心』させてしまわれたのだ!!」
「な、なんとぉぉぉっ!!」
人間軍の将兵たちの間に、どよめきと感動の波が広がった。
「あのような邪悪な魔王軍の幹部を、愛の力で従者に変えてしまわれるとは!」
「奇跡だ……! これぞ真の聖女様のお力!!」
人間軍は完全に勘違いし、シルヴィへの崇拝をさらに深めていた。
しかし、彼らが一歩でも前に出てシルヴィを助けに行こうとしない(できない)のには、明確な理由があった。
東側、魔王軍の陣営でも、全く同じレベルの、いや、人間軍以上の絶望的なパニックが起きていたのである。
前線を指揮する四腕の魔将は、握りしめていた巨大な戦斧を取り落としそうになっていた。
彼の四つの腕すべてが、小刻みに痙攣している。
魔王軍の強靭なオークやトロールの重装歩兵たちも、一歩たりとも前へ進むことができず、その場に縫い付けられたように立ち尽くしていた。
「ば、馬鹿な……。あれは、死んだはずのノクティス様とルル様ではないか……!」
魔将が、信じられないものを見る目で平原の中央を凝視していた。
「なぜだ! なぜ我らが誇る最高幹部のお二人が、あのような人間の小娘の足元にひれ伏し、あまつさえエプロン姿で甲斐甲斐しく紅茶を淹れているのだ!?」
魔王軍の視点から見れば、それは完全なる恐怖映像であった。
魔界でも冷酷無比で知られる最強の暗殺者ノクティスが、満面の(しかし目が血走った)笑みを浮かべてサンドイッチの皿を捧げ持っている。
吸血鬼至上主義で他種族を見下していたルルが、自らのメイド服の裾を汚すことも厭わず、少女の靴の汚れをハンカチで拭き取っている。
「ま、魔将様! あの少女から……とてつもなく恐ろしいオーラを感じます!!」
上位魔族の副官が、ガチガチと牙を鳴らしながら叫んだ。
「あの甘美で、しかし絶対的な死を思わせる気配……! 間違いありません、我ら魔に属する者が本能レベルで服従を強いられる存在、神話の『真祖』の放つ威光です!! だからこそ、ノクティス様たちも逆らえず、あのように奴隷と化しているのに違いありません!!」
「し、真祖だと!? 神話の時代の怪物が、なぜ現代に!?」
魔将は絶望に顔を歪めた。
だが、魔王軍の兵士たちをその場に釘付けにしている最も大きな要因は、シルヴィのオーラ(※本人はただピクニックを楽しんでいるだけ)ではなかった。
シルヴィを取り囲む『七人の従者』たちから放たれる、常軌を逸した【異常な殺気】である。
(一歩でも動けば……殺される……!!)
人間軍の老将も、魔王軍の魔将も、そして二十万の兵士の全員が、全く同じプレッシャーを肌で感じ取っていた。
平原の中央で、ロアンは大剣『滅山』を地面に突き立て、腕を組んで立っているだけだ。
エランは杖を片手に、微笑みながらシルヴィに日傘の魔法をかけているだけ。
セリアも、マイラも、ダリウスも、ただシルヴィのピクニックの世話を焼いているだけに見える。
しかし、彼ら七人から全方位に向けて放たれている無言のプレッシャーは、明確にこう告げていた。
『——姫様のお食事の邪魔になる音を少しでも立てた奴は、人間だろうが魔族だろうが、両軍まとめて宇宙の果てまで追いかけて塵一つ残さず消滅させる。風を起こすな。土煙を上げるな。息すらもするな』
二十万の兵士たちは、その強烈すぎる殺気の前に、冷や汗を滝のように流して硬直していた。
弓兵は弦を引く指が震えて矢を落としそうになり、騎兵の乗る軍馬は恐怖で口から泡を吹いて気絶寸前である。空を飛んでいた魔王軍のワイバーン部隊に至っては、ダリウスが一度「ギロリ」と上空を睨みつけただけで、数百匹が白目を剥いて墜落していく始末だった。
戦場の全員が、「ここで戦端を開けば、間違いなくあの七人のバケモノによって両軍とも瞬殺される」という絶対的な死の確信を共有していた。
その結果、二十万の軍勢が完全にフリーズし、武器を構えたまま一歩も動けないという、歴史上類を見ない奇妙な膠着状態が誕生したのである。
そんな、外野の地獄のような緊張感や絶望など露知らず。
中心にあるオリハルコンとミスリルの豪奢なピクニックセットの上では、極めて平和で、お花畑なティータイムが進行していた。
「ん〜! このサンドイッチ、ほっぺたが落ちるくらい美味しい!」
シルヴィが、幻の海竜のローストビーフが挟まれたサンドイッチを頬張り、満面の笑顔を浮かべた。
「お肉がすごく柔らかくて、ソースの味も最高! ノクティスさんとルルさん、本当にお料理上手だね!」
「ああっ……! 姫様のお褒めの言葉……!!」
ノクティスは執事服の胸を強く押さえ、涙腺を崩壊させて天を仰いだ。
「このノクティス、数百年の暗殺者人生を歩んできましたが、このサンドイッチを作った今日という日が、間違いなく我が生涯の絶頂期でございます!!」
「姫様が私の作ったタルトを食べてくださるまで、私はこの場で息を止めて待機いたしますわ!!」
ルルもメイド服の裾を握りしめ、感激のあまりガクガクと震えている。
「チッ、新参どもが料理の腕だけで調子に乗りおって」
ロアンが鼻を鳴らし、巨大な尻尾をゆっくりと揺らしながらシルヴィの背後に回った。
「姫様、もしや風が冷たくはありませんか? このロアンの毛皮で、温かい壁を作りましょう」
「ううん、エランさんが温度調節してくれてるから、すごくぽかぽかだよ。あ、ロアンもサンドイッチ食べる?」
「おおおぉぉ……! 姫様が私に食べ物を分けてくださるなど! 恐れ多くて噛み砕くことすらできません!! 飲み込みます!!」
ロアンが涙を流しながらサンドイッチを丸呑みにする。
「姫様、食後のデザートの前に、こちらの『太陽の吐息』のお茶でお口直しを」
エランが優雅にカップを差し出す。
「アタシの作ったオリハルコンのテーブル、高さは丁度いいかい姫様!?」
マイラがドヤ顔でハンマーを担いで笑う。
「俺の鱗はいつでも姫様の座布団代わりになる。遠慮なく寄りかかってくれ」
ダリウスが巨大な身体を丸めてシルヴィの背もたれになる。
七人の従者たちは、シルヴィを喜ばせることだけに全神経を集中させており、外で硬直している二十万の軍勢のことなど完全に思考から除外していた。彼らにとって、周りの軍勢は「ピクニックの背景として描かれた、少し出来の悪い壁紙」程度の認識でしかなかった。
そして、美味しいサンドイッチを半分ほど食べ終え、紅茶で一息ついたところで。
シルヴィはふと、両サイドでピタリと固まったまま、自分たちを凝視している無数の人々の存在に、ようやく(再び)気がついた。
「……あれ?」
シルヴィは、紅茶のカップを持ったまま、首をコテンと傾けた。
右を見れば、銀色の鎧を着た人間軍十万が、冷や汗を流しながら固まっている。
左を見れば、赤黒いオーラを纏った魔王軍十万が、ガチガチと牙を鳴らしながら震えている。
「ねえ、ノクティスさん。あの人たち、さっきからずーっとこっち見てるね」
シルヴィが不思議そうに目をパチクリと瞬かせた。
「ああ、気になさらず姫様」
ノクティスが完璧な執事の微笑みで答える。
「ただの背景です。もし彼らの存在が姫様の視界の邪魔になるようでしたら、五分ほどお時間をいただければ、すべて『お掃除』してまいりますが」
「ダメだよ! そんなことしちゃ!」
シルヴィは慌ててノクティスを止めた。
彼女の持ち前の『超絶お人好し(ただの善人)』という性格が、ここで最悪(最高)の形で発揮された。
シルヴィの目から見れば、外で立ち尽くしている二十万の兵士たちは、「戦争をしている」というよりも、「ピクニックをしている自分たちを、お腹を空かせて遠くから羨ましそうに見つめている地元の人たち」に見えたのだ。
現代日本で育った彼女の感覚では、まさかファンタジー世界の種族間戦争の真っただ中に自分たちがシートを広げているなどとは、夢にも思わなかったのである。
「せっかくお天気も良くて、こんなに広い場所でお弁当食べてるんだから。みんなで一緒に食べた方が美味しいに決まってるよ!」
シルヴィは、よいしょっと立ち上がり、総重量二十キロ(ルーンで軽減されているが)のフリフリ絶対防御ドレスのスカートをつまんで、両軍の方へと振り返った。
そして、二十万の兵士たちに向かって。
一切の警戒心も、悪意も、恐怖もなく。
ただ純粋に、お腹を空かせた(と思い込んでいる)地元の人たちをピクニックに誘うように、無邪気な満面の笑顔を浮かべて、大きく手を振ったのだ。
「あ、地元の人たちかなー? お腹空いてるのー? 一緒にご飯食べますかー?」
————その瞬間であった。
ステータス【魅力】と【カリスマ】のカンスト値によって放たれるパッシブスキル『真祖の威光』と『絶対的庇護欲』。
それが、シルヴィの「無邪気な笑顔」と「心からの親愛を込めた声」に乗って、物理的な波動となって大気を震わせた。
『警告:対象【人間軍十万】【魔王軍十万】に対し、限界突破出力での精神干渉(広域・同時指定)を実行します』
ドグゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥンッ!!!!!!
二十万の将兵の脳内に、核爆発を遥かに超えるスケールの、致死量の『尊さ』と『強制服従の精神波』が着弾した。
「「「「「「「————っ!!!!!!」」」」」」」
平原にいる二十万人の時間が、完全に停止した。
風の音も、馬のいななきも、ワイバーンの羽ばたきも、すべてが消え失せた。
人間軍の老将の脳内では、数十年の軍歴で培ってきた戦略や国家への忠誠が、すべて白紙に戻っていた。
(あぁ……なんという……なんという愛らしい微笑み……! 聖女様が、我々のような血に塗れた汚らわしい兵士どもに向かって、一緒にご飯を食べようと……! この御方の笑顔を前にして、剣を振るうことなど、宇宙の摂理に対する最大の冒涜ではないか!!)
魔王軍の魔将の脳内でも、魔界の王への絶対的な服従心や、人間族への憎悪が、跡形もなく粉砕されていた。
(あ、あ、あああぁぁぁ……っ!! この絶対的な威光……! 逆らえない、いや、逆らいたくない! あの美しき真祖様の前にひれ伏し、あの笑顔を守るためだけに、私のこの四つの腕は存在していたのだ!!)
人間も、魔族も、オークも、エルフも、獣人も。
平原に立つすべての命が、シルヴィの放った『絶対強者の微笑み(※本人は誘っているだけ)』の前に、完全に、そして無条件に降伏したのである。
カラン……ッ。
老将軍の手から、宝剣が滑り落ちた。
ガシャンッ。
魔将の手から、巨大な戦斧が地に落ちた。
それを合図にしたかのように。
ガラン、カシャァァン、ドスッ……!!
二十万人の兵士たちが、次々と武器を地面に投げ捨てた。
誰一人として、もう戦おうとする意志を持つ者はいなかった。彼らの瞳に宿っているのは、敵への殺意ではなく、平原の中央で微笑む一人の少女に対する、狂おしいほどの『崇拝』と『庇護欲』だけであった。
「あ、みんな武器置いちゃった。やっぱりお祭りか何かだったのかな?」
シルヴィが首を傾げている背後で、ノクティスが深々とため息をついた。
「……やれやれ。姫様が『一緒にご飯を食べよう』と仰ったのだ。貴様ら、自分たちがどれほど光栄な場に居合わせているか、理解しているのだろうな?」
ノクティスの声が、魔力に乗って平原の二十万人に響き渡った。
「「「「「「「ハ、ハハァァァァァァァァァッ!!!!!」」」」」」」
人間軍十万と、魔王軍十万。
合わせて二十万の軍勢が、地響きを立てて、シルヴィに向かって一斉に平伏し、最も深い土下座の姿勢をとった。
世界の終わりを告げるはずだった最終戦争は。
一人の少女の「お弁当のお誘い」と、それを全力でサポートする過保護な従者たちの圧倒的な圧力によって、一滴の血も流れることなく、完全に崩壊してしまったのである。
人類と魔族の歴史上、最も平和で、最も狂気に満ちた『ピクニック(世界平和条約締結式)』が、今まさに始まろうとしていた。




