第28話:世界の終わりのティータイム
ルクスヴェル大陸の国境地帯に広がる、広大にして荒涼たる不毛の地——『裁きの平原』。
過去の歴史において、幾度となく人間と魔族の血で染め上げられてきたこの呪われた平原は、今まさに、世界そのものを終焉に導きかねないほどの圧倒的な殺意と絶望に支配されていた。
平原を二分するように、二十万という途方もない数の軍勢が対峙している。
西側に布陣するのは、人類の存亡を懸けて集結した人間軍十万。
白銀の重装甲に身を包んだ王国騎士団を筆頭に、教会の誇る聖騎士団、そして空を覆うほどの数を揃えた魔法兵団。彼らが掲げる無数の軍旗が、吹き荒れる乾いた風にバタバタと重々しい音を立ててはためいている。
前線で剣を握る兵士たちの顔には、決死の覚悟と、死への恐怖が色濃く張り付いていた。
対する東側に布陣するのは、魔界の底から這い出してきた魔王軍十万。
地響きを立てて並ぶ巨大なオーガやトロールの重装歩兵部隊、空を黒く染め上げるワイバーンとガーゴイルの航空部隊。そして、前線を指揮する上位魔族たちが放つ、ドス黒く禍々しい魔力のオーラ。
彼らの放つ瘴気によって、平原上空の空は完全に赤黒く淀み、太陽の光すらも遮断されていた。
両軍の距離は、すでに弓矢の射程圏内にまで迫っている。
人間軍の総司令官である白髪の老将が、震える手で腰の宝剣を抜き放ち、高く天へと掲げた。
魔王軍の先陣を任された四腕の魔将が、巨大な戦斧を振り上げ、全軍に向けて血に飢えた咆哮の構えをとる。
「全軍——!!」
「魔の眷属どもよ——!!」
両軍の指揮官の号令が平原に響き渡り、開戦の突撃ラッパを吹く兵士が、大きく息を吸い込んだ。
まさにその【絶対的な開戦の瞬間】。
次に踏み出す一歩で、十万と十万の命が激突し、数万の血の雨が降るはずだった。
「……ん? な、なんだ、あれは……?」
突撃ラッパを吹こうとしていた人間軍の兵士が、肺に入れた空気を抜いて、ポカンと口を開けた。
同じように、咆哮を上げようとしていた魔王軍のオーガが、目をパチクリと瞬かせた。
両軍の最前線、そのちょうど【ど真ん中】。
人間軍からも魔王軍からも等しく距離の離れた、完全なる無人地帯であるはずの平原の中央に向けて。
どこからともなく、信じられないほど場違いな『八つの影』が、のんびりとした足取りで歩いてきたのである。
「な、なんだあの集団は……? 我が軍の別働隊か?」
人間軍の老将が目を細める。
「いや、お待ちください将軍! あの先頭を歩いているのは、獣人と……教会の聖騎士!? なぜ獣人と聖騎士が並んで歩いているのです!?」
魔王軍側でも、同様の混乱が起きていた。
「なんだあの小賢しい虫ケラどもは! なぜ我らと人間どもの真ん中に堂々と歩いてくる!?」
「ま、魔将様! あれをご覧ください! 後ろを歩いている燕尾服の男とメイド……あれは、行方不明になっていたノクティス様とルル様では!?」
「なにィ!? なぜ魔界の最高幹部が、あのような人間の小娘の入った箱(弁当箱)を恭しく掲げて歩いているのだ!!」
両軍の二十万の兵士たちは、武器を構え、殺意を全開にした体勢のまま、完全に硬直してしまった。
無理もない。
彼らの視界に映っているのは、世界の終焉を告げる戦場には到底あり得ない、極めてシュールで、かつ常軌を逸した光景だったからだ。
二メートル半を超える巨大な竜騎士が、その肩に、漆黒のフリフリなゴスロリドレスを着た絶世の美少女を乗せている。
その周囲を、世界最強クラスの獣人、エルフ、聖騎士、ドワーフ、魔族、吸血鬼が、まるで姫君のパレードのように恭しく取り囲み、両軍の殺気など微塵も気にする様子もなく、のんびりと談笑しながら歩いているのである。
「よし、この辺りでいいだろう。姫様、ここが本日のピクニック会場にございます」
ロアンが、平原のど真ん中——まさに両軍の激突予想地点のど真ん中で立ち止まり、周囲を見渡して深く頷いた。
「うん! 見晴らしもいいし、すごく広いね! 両側にいっぱい人がいるけど、なんかのお祭りなのかな?」
ダリウスの肩の上から、シルヴィが呑気な声を上げる。
「ええ、人間と魔物による、血の収穫祭といったところでしょう。ですがご安心を。姫様のお食事の邪魔になるような羽音は、私たちが一切立てさせませんので」
ルルがメイド服の裾を優雅に摘んで微笑んだ。
「さあ、お前ら! 姫様のピクニックの準備だ! たった一秒の遅れも許さんぞ!!」
ロアンの号令とともに、七人の狂信者たちが、国家の軍事作戦を遥かに凌駕する圧倒的なエネルギーとスピードで動き始めた。
「まずはアタシだ!! 退きな!!」
ドゴォォォォォォォォォォンッ!!!!!
ドワーフのマイラが、背中に担いでいた巨大な包みを地面に叩きつけた。
凄まじい衝撃波が巻き起こり、荒涼とした平原の土が放射状に吹き飛ぶ。二十万の兵士たちが「ひぃっ!?」と悲鳴を上げて盾を構える中、土煙が晴れたそこには、信じられないものが鎮座していた。
「ひ、姫様のためにアタシが徹夜で打ち上げた、純度百パーセントのオリハルコン製・完全防振ピクニックテーブル!! さらに、絶対防虫・完全断熱のミスリル特製ピクニックシートだ!!」
マイラがドヤ顔で言い放つ。
地面に敷かれたのは、淡い銀色の光を放つ、途方もなく巨大で美しいミスリルのシート。その中央には、国が三つ買えるほどのオリハルコンを贅沢に削り出して作られた、豪奢な装飾の施されたテーブルがドンッと置かれていた。
ただのピクニックのために、伝説の神造金属を惜しげもなく消費するという、鍛冶の神が卒倒しそうな暴挙である。
「よし、次は私ですわね。姫様、少々お待ちを。この血生臭い空気を、姫様に相応しい清浄な春の陽気へと書き換えて差し上げますわ」
エルフのエランが、優雅な足取りで前に出た。
彼女が手にした杖の先端に、目が眩むほどの神々しい魔法陣が、何重にも重なって展開されていく。
人間軍の魔法兵団が、その魔法陣の構造を見て泡を吹いて倒れ始めた。
「ば、馬鹿な……! あれは神話の時代に失われた『天候操作』の神代魔法!! たった一人のエルフが、詠唱もなしに展開しているだと!?」
「【古代精霊・春風の楽園】」
エランが杖を天に突き上げると。
平原を覆っていた魔王軍の禍々しい紫色の雲が、まるで巨大な見えない手で払いのけられたかのように、半径一キロメートルの範囲だけ『スパーンッ!』と円形に吹き飛んだ。
ぽっかりと空いた雲の穴から、黄金色の温かい太陽の光が、スポットライトのように平原の中央(ピクニックシートの上)へと降り注ぐ。
それだけではない。エランの魔法の余波を受けた荒涼たる大地から、青々とした若草が一瞬にして芽吹き、色鮮やかな花々が次々と咲き乱れ始めたのだ。
血と泥に塗れた殺伐たる戦場のど真ん中に、半径数十メートルだけの『完璧な春の野原』が強制的に出現したのである。
温度は常に二十二度、湿度は四十五パーセント。心地よい南風が吹き抜け、花の香りが漂う究極のピクニック空間。
「ダリウス。姫様をシートへ」
「応」
ダリウスがゆっくりと膝をつき、ロアンとセリアが恭しく手を差し伸べて、シルヴィをミスリルのシートの上(最高級のベルベットクッションの上)へと優しく下ろした。
「わあ……! すごい! さっきまで暗かったのに、ここだけポカポカのお花畑になってる! エランさん、魔法って本当に便利だね!」
シルヴィが花を摘みながら満面の笑みを浮かべると、エランは「あはぁっ……!」と限界を突破したような吐息を漏らし、自らの杖に頬ずりをして涙を流した。
「姫様にお褒めいただいた……! この杖は家宝にしますわ!!」
「さあ、姫様。お待たせいたしました。本日のメインイベントにございます」
執事服を完璧に着こなしたノクティスと、メイド服のルルが、マイラの設置したオリハルコンのテーブルの上に、手品のような手際で次々と料理を展開していく。
彼らが持っていた重箱のような魔法の弁当箱は、空間拡張機能がついており、中からは出てくるはずのない豪華な皿やティーセットが次々と飛び出してきた。
「幻の海竜の肉を使用した、特製ローストビーフのサンドイッチ。世界樹の朝露で蒸し上げた温野菜のサラダ。そして、デザートには百年熟成させた深紅のトマトと、魔界の極甘果実を使用した宝石のタルトでございます」
純白のテーブルクロスが敷かれ、クリスタルガラスのグラスに清らかな水が注がれる。
さらに、ノクティスが指先で小さな炎を操り、最高の温度で『夜想花』の紅茶を淹れ、その芳醇で甘い香りが、春の風に乗って平原中に広がっていった。
「うわぁ……! すっごく美味しそう! ノクティスさん、ルルさん、朝早くからこんなにたくさん作ってくれたの!? ありがとう!!」
シルヴィが両手を合わせて目を輝かせた。
「「姫様のためならば、この命はおろか、魔王軍の未来すら投げ打つ覚悟にございます!!」」
ノクティスとルルが、感極まって大声で忠誠を誓い、綺麗に揃った土下座を決める。
この間、およそ三分。
二十万の軍勢は、そのシュールすぎる光景を前に、誰一人として声を出すことも、武器を振るうこともできずに、ただただ完全にフリーズしていた。
「……な、なんだ、これは」
人間軍の老将が、震える手で自らの顔を叩いた。幻覚か何かを疑ったのだ。
「魔王軍との最終決戦のど真ん中だぞ……!? なぜ、あのような美しい少女が、化け物どもに傅かれながら、優雅にサンドイッチを頬張っているのだ!?」
「将軍! あ、あれをご覧ください!!」
副官の騎士が、震える指でシルヴィの姿を指差した。
「あの美しい金髪と、透き通るような肌……! そして、あの恐ろしいまでの過保護な護衛たち! ま、間違いありません! あれこそが、聖都アイギスを災厄からお救いになられたという、伝説の『光の聖女様』です!!」
「な、なんだとォォォッ!?」
人間軍の陣営に、すさまじい激震が走った。
「せ、聖女様が、なぜあのような最前線のど真ん中に!? いかん、魔王軍の攻撃に巻き込まれてしまう!!」
「しかし将軍! 聖女様の護衛をしている者たちの中に……魔族と、吸血鬼がおります! あまつさえ、あの魔族が聖女様に紅茶を淹れ、聖女様がそれを笑顔で飲んでおられますぞ!?」
人間軍の脳内は、処理落ち寸前だった。
人類の希望である光の聖女が、人類の怨敵である魔族(しかも魔王軍幹部)に甲斐甲斐しく世話を焼かれながら、魔族の淹れたお茶を飲んでいる。
教義にも軍事戦略にも当てはまらない、完全なるバグである。
一方、魔王軍の陣営もまた、これ以上ないほどの極限のパニックに陥っていた。
「おい……あれは、ノクティス様とルル様じゃないか!?」
魔将の一人が、目をこすりながら絶叫した。
「な、なぜだ!? なぜ我らが誇る最高幹部のお二人が、あのような人間の小娘の足元に土下座をして、あまつさえお茶を淹れてニコニコと笑っているのだ!?」
「それに、あの小娘の背後にいる竜人や獣人から放たれる殺気……あれは異常だ! 我々十万の魔王軍全員が束になっても、一瞬で消し炭にされるほどの圧倒的なプレッシャーだぞ!!」
魔王軍の兵士たちは、武器を持ったままガクガクと膝を震わせ始めていた。
彼らの本能が、平原の中央でサンドイッチを食べている『七人の従者』から放たれる、常軌を逸した「姫様に一歩でも近づく奴は宇宙の果てまで追いかけて殺す」という狂気のオーラを、正確に感知していたのである。
人間軍十万。
魔王軍十万。
両軍の最前線にいる兵士たちは、全員が同じことを考えていた。
(一歩でも動けば……あの化け物たちに、両軍まとめて消し炭にされる……!!)
冷や汗が、二十万人の額から滝のように流れ落ちる。
突撃ラッパを握りしめていた兵士は、そっとラッパを地面に置き、見なかったふりをした。
剣を振り上げていた魔将は、そのままゆっくりと剣を下ろし、腕が吊ったかのような不自然なストレッチを始めた。
世界の命運を懸けた最終決戦の戦場は、一人の最弱吸血姫の『ティータイム』によって、文字通り時間が停止してしまったのである。
「ん〜! このサンドイッチ、ほっぺたが落ちるくらい美味しい! みんなも一緒に食べようよ!」
シルヴィが、美味しそうにローストビーフのサンドイッチを頬張りながら、周囲の護衛たちに声をかけた。
「おおおぉぉ……! 姫様のお誘い! 身に余る光栄!!」
七人の従者たちは、涙を流しながらシルヴィの周囲に腰を下ろし、もはや世界大戦のことなど一ミリも気にする様子もなく、平和すぎるピクニックに興じ始めた。
そして、サンドイッチを半分ほど食べたところで。
シルヴィはふと、両サイドで固まったまま自分たちを見つめている、二十万の兵士たちの存在にようやく(再び)気がついた。
「あれ? あの人たち、さっきからずっとこっち見てるね。お腹空いてるのかな?」
シルヴィが、ぽつりとこぼしたその一言が。
この後、人類と魔族の歴史を根底からひっくり返す『歴史的平和条約』へと直結していくことを、まだ誰も知らない。
世界の終わりは、最高に美味しい紅茶の香りと共に、呆気なくフリーズ状態のまま放置されていた。




