第26話:消えた幹部と、開戦の狼煙
太陽の光が決して差し込むことのない、永遠の薄闇と分厚い紫色の雲に覆われた不毛の大地——魔族の領域『魔界』。
その最深部にそびえ立つ、黒曜石と魔獣の骨で築かれた禍々しい魔王城において、その日、城全体を揺るがすほどの凄まじい怒号が響き渡った。
「馬鹿な……!! 馬鹿な馬鹿な馬鹿なァァァッ!!」
ドンッ!!
玉座の間に響いた轟音は、魔王が自らの拳で巨大な玉座の肘掛けを粉砕した音であった。
魔界の頂点に君臨する巨大な魔王の全身から、ドス黒い怒りのオーラが嵐のように噴出している。その圧力だけで、広大な玉座の間に居並ぶ数多の魔将たちは、息をすることすら困難になり、床に額を擦りつけてガタガタと震え上がっていた。
「情報部長!! 貴様、今なんと言った!! もう一度言ってみろ!!」
魔王の血走った眼光が、最前列でひれ伏す一つ目の魔族に向けられた。
「ひぃぃぃっ!! は、はいぃぃっ!!」
情報部長は悲鳴のような声を上げながら、震える手で持っていた黒い水晶玉を高く掲げた。
「我が情報部が管理する、魔王軍全将兵の『魂の灯火』……魔力リンクの監視システムにおいて、昨夜未明、聖都アイギスへ潜入したはずのノクティス様とルル様の魔力反応が、完全に、そして同時に『消失』いたしました!!」
「消失だと!? 連絡が途絶えただけではないのか!」
「は、はい! 魔界と現世を繋ぐ絶対の魔力リンクが、まるで根元から断ち切られたようにプツリと消え失せました! これは通常、対象者の『完全な死』、あるいは『魂の消滅』を意味しております!」
「…………ッ!!」
魔王は言葉を失い、ギリッと鋭い牙を噛み鳴らした。
魔王軍強硬派の最高幹部にして、魔界最強の暗殺者ノクティス。
そして、高位の吸血鬼であり、魔王軍の要でもあったルル。
この二人は、単なる魔王軍の幹部という枠に収まらない、魔界の最高戦力である。彼ら二人が本気を出せば、小国の一つや二つ、一夜にして地図から消し去ることができる。
その二人が、人間の聖都に潜入してわずか数時間で、音もなく「消滅」したというのか。
(あり得ん……。あの二人が、人間ごときに遅れをとるはずがない。どれほど強固な結界や騎士団の警備があろうと、ノクティスの影移動とルルの霧化を完全に防ぎ切るなど不可能なはずだ)
魔王の脳裏に、数日前の報告がフラッシュバックする。
十万の魔物の大暴走を、一瞬にして鎮めたという『光の聖女』の存在。
「……罠か。人間どもの宗教がでっち上げた『聖女』とやらは、我が魔王軍の最高戦力をおびき寄せるための、高度な罠だったというわけか!!」
魔王は自らの推測を確信し、怒りに全身を震わせた。
実際には、ノクティスとルルは死んだわけでも、魂が消滅したわけでもない。
彼らはシルヴィの『真祖の威光』と『絶対的庇護欲』をモロに食らい、魔王への忠誠心などというものをチリ一つ残さず投げ捨てて、シルヴィの専属執事とメイドに勝手に転職(完全寝返り)してしまったのだ。
彼らの魂がシルヴィへの絶対的忠誠で完全に上書きされたため、魔王軍との魔力リンクがバグを起こして切断されただけなのである。
しかし、そんな極めて個人的かつアホらしい(姫プ堕ち)理由で幹部が消えたなどとは、魔王が想像できるはずもなかった。
魔王の目には、「人類が隠し持っていた恐るべき未知の力(聖女)によって、魔界の誇る最強の二人が惨殺された」という悲劇的かつ絶望的な事態にしか映らなかったのである。
「許さん……! 断じて許さんぞ、人間どもめェェェッ!!」
魔王の咆哮が、魔界の空を覆う紫色の雲を真っ二つに引き裂いた。
「我らが誇る最高戦力のノクティスとルルを、謀略によって消し去った罪!! 決して生かしてはおかん!! 奴らは我ら魔族に対する、全面的な宣戦布告を行ったのだ!!」
魔王はマントを翻し、玉座の間にひれ伏す全魔将に向けて右手を高く突き上げた。
「全軍に告ぐ!! これより、我が魔王軍は人間界に対する『総攻撃』を開始する!! 第一軍から第五軍まで、すべての兵力をかき集めろ! ゴブリンから上位魔族まで、戦える者は一匹残らず武器をとれ!!」
「「「オオォォォォォォォォォォッ!!!」」」
魔将たちが、一斉に立ち上がり、血に飢えた咆哮を上げた。
「目指すは人間どもの防衛線、国境の『裁きの平原』!! そこを突破し、聖都アイギスを瓦礫の山に変え、忌まわしき光の聖女の首を我が玉座に飾るのだ!! 進軍せよ!! 我ら魔王軍の恐ろしさを、人間どもに骨の髄まで刻み込んでやれェェッ!!」
かくして、ノクティスとルルがシルヴィに美味しい紅茶を淹れて感動の涙を流しているその裏で、魔界では十万を超える魔王軍の正規軍が、殺意と復讐心に燃え上がりながら人間界に向けて大進軍を開始したのである。
***
一方、その頃。
人間族の領域、広大な領土を誇る『光輝の王国』の王都、白亜の王城。
その最も厳重に守られた円卓の間に、人間の国の国王と、聖都から緊急で魔法通信を繋いできた教皇が、深刻な顔で向き合っていた。
「教皇猊下。先ほどの国境警備隊からの魔法通信、真実か……?」
王冠を戴いた壮年の国王が、青ざめた顔で教皇の立体映像に問いかけた。
「……はい、国王陛下。誠に遺憾ながら、真実でございます」
教皇は深く息を吐き出し、重々しく頷いた。
「魔王軍が、過去に類を見ない規模で……十万、いやそれ以上の総兵力を挙げて、我が国の国境である『裁きの平原』へ向けて進軍を開始したとのこと。その速度、まさに怒涛の如く。このままでは、三日後には国境の防衛線が突破され、この王都と聖都が同時に火の海となるでしょう」
「なんと……! 先日の、十万の魔物のスタンピードは、魔王軍の陽動に過ぎなかったというのか!」
国王が絶望的な声を上げ、円卓を囲む王国騎士団長や大臣たちが一斉にざわめいた。
人間たちの間でも、壮大な『勘違い』の連鎖が起きていた。
先日のスタンピードは、自然発生的な魔物の暴走であり、魔王軍とは無関係だった。しかし、それをシルヴィ(と五人の猛者たち)が奇跡の力で退けた直後に、魔王軍の正規軍十万が進軍を開始したのである。
人間の首脳陣の目には、「魔王軍が魔物を操ってスタンピードを引き起こし、我々の戦力を削ろうとした。しかし、聖女様のお力でそれが失敗に終わったため、ついに魔王軍が本隊を率いて総攻撃を仕掛けてきた」という、完璧に筋の通った(しかし完全に間違っている)軍事シナリオとして解釈されてしまったのだ。
「魔王め、我々人類を完全に根絶やしにする気か……!」
騎士団長が拳を握りしめ、悔しげに呟く。
「しかし陛下! 我々には希望があります! 聖都アイギスに降臨されたという、奇跡の光の聖女様! 彼女のお力があれば、魔王軍とて……!」
その言葉に、教皇は首を横に振った。
「ならぬ。聖女様は、ご自身の命を削って先日の災厄を浄化してくださったのだ。あのように儚く、尊き御方に、これ以上戦火の前に立っていただくなど、神が許しても私が許さん! 聖女様の平穏をお守りすることこそ、我々人類の使命!!」
「教皇猊下の仰る通りだ。聖女様にばかり頼っては、人類の誇りが廃る」
国王が力強く頷き、円卓の全員を見渡した。
「全軍に号令を下せ!! 王国騎士団、魔法兵団、そして各地の諸侯の兵をすべて『裁きの平原』へと集結させよ! 教皇猊下、聖都の聖騎士団も総動員をお願いしたい!」
「もちろんです。我ら教団の全戦力を以て、魔族の邪悪なる軍勢を浄化いたしましょう」
「目標は十万! 我ら人類も十万の軍勢を以て、魔王軍を真っ向から迎え撃つ!! これは、人類の存亡を懸けた聖戦である!! 勝利か、死か!! いざ、進軍せよォォォッ!!」
「「「オオォォォォォォォォォッ!!!」」」
人間の国でもまた、国家の存亡を懸けた総動員令が下された。
王国中の空を伝令のグリフォンが飛び交い、各地から重武装した兵士たち、魔術師たち、聖騎士たちが、国境の『裁きの平原』を目指して大移動を開始した。
空は戦火の予感に暗く沈み、世界は今、過去最大規模の全面戦争へと突入しようとしていた。
人間軍十万。魔王軍十万。
合わせて二十万の軍勢が激突すれば、大地は血に染まり、数万の命が露と消える。
歴史に名を残すであろう、悲惨極まりないハルマゲドン。
世界中の人々が絶望と恐怖に打ち震え、神に祈りを捧げていた。
***
——しかし。
そんな、世界が滅亡の危機に瀕し、各国の首脳が血相を変えて軍を動かしているその裏で。
世界戦争の引き金(原因)となった張本人である、最弱吸血姫シルヴィと、七人の過保護すぎる狂信者たちは。
そんな切羽詰まった状況など、微塵も、一ミリも、これっぽっちも知る由はなかった。
聖都アイギス、聖王迎賓館の最上階。
世界で最も安全かつ、最もカオスな『姫プ空間』と化したロイヤルスイートルームでは、今日も今日とて、徹底的に平和で、そして異常な日常が繰り広げられていた。
「姫様、本日の紅茶は『太陽の吐息』と呼ばれる、南国の希少な茶葉を使用しております。フルーティーな香りが、姫様の美しい笑顔にぴったりかと」
漆黒の燕尾服をビシッと着こなしたノクティスが、一滴の狂いもない完璧な所作でティーカップを差し出す。
「うん! いつも美味しい紅茶ありがとう、ノクティスさん!」
シルヴィが満面の笑みでカップを受け取ると、ノクティスの顔面が「ボフゥッ!」と赤く爆発し、背筋をピーンと伸ばして天を仰いだ。
「あぁ……姫様の『ありがとう』……! 私の、私の暗殺者としての数百年の罪が、今すべて許された……!!」
「ノクティス、ずっこいわよ! 姫様! 私が手作りしたマドレーヌも召し上がってくださいませ! 姫様の小さな一口サイズに、ミリ単位で調整して焼き上げましたわ!」
メイド服のルルが、銀のトレイに山盛りの焼き菓子を乗せて突進してくる。
「わぁ、美味しそう! いただきまーす。……ん、すごく甘くてサクサクしてる!」
「あはぁぁっ……! 姫様が私のマドレーヌを食べてくださった……! もう私、死んでもいい! いや、姫様のために永遠に生きる!!」
ルルが嬉しさのあまり、部屋の隅でコウモリに変身してパタパタと乱舞している。
「チッ、新参どもが姫様の御前をうろちょろと……。姫様、もしや肩が凝ってはおりませんか? このロアンの毛皮(尻尾)で、肩をマッサージいたしましょうか?」
獣人ロアンが、尻尾をブンブンと振りちぎらんばかりに揺らしながらすり寄ってくる。
「あ、ロアンの尻尾、もふもふで気持ちいいんだよねー。じゃあちょっとだけお願い」
「ハハッ!! 姫様のためならば、この尻尾の毛がすべて抜け落ちようとも!!」
「ロアン、抜け毛が落ちたら姫様の不快になりますわよ。姫様、室温は最適でしょうか? 少しでも暑ければ、私の精霊でマイナス0.1度単位の調整をいたしますが」
エランが杖を構えて過保護な温度管理を申し出る。
「聖女様! このセリア、本日は部屋の床を鏡のようにピカピカに磨き上げました! これで姫様の美しい御御足が、少しでも床の塵に触れることはありません!」
セリアが顔を煤だらけにして誇らしげに胸を張る。
「ヒャハハ! みんな甘いね! 姫様、昨日アタシが徹夜で『絶対防御ドレス』の重量軽減ルーンを百個追加したんだ! これで少しは歩きやすくなったはずだぜ!」
マイラがドヤ顔でハンマーを担ぐ。
「でも姫様が歩かれるのは危険だ! 姫様、今日もこのダリウスの肩を玉座としてお使いください! 外の空気でも吸いに参りましょう!」
ダリウスがバルコニーから巨大な顔を覗かせる。
七人の規格外の猛者たちが、シルヴィの一挙手一投足に全神経を集中させ、いかにして彼女を喜ばせ、甘やかすかという『姫プ競争』に血道を上げている。
そこには、魔王軍の脅威も、人間の国の危機も、一切存在しない。
完全に、外界から隔絶された平和すぎる密室だった。
「みんな、本当にありがとう。ドレスも少し軽くなったし、紅茶もお菓子も美味しいし……」
シルヴィは、ふかふかのソファーに沈み込みながら、ぽつりと呟いた。
その呟きは、何の気なしに口からこぼれた、本当にささやかな、ただの『感想』だった。
「でも……最近、ずっとお部屋の中にいて、ちょっと退屈だなあ……」
シルヴィは、窓の外の青い空を見つめた。
「せっかくお天気もいいし……お外で、みんなでお弁当でも食べたいな」
ピタッ。
その瞬間。
部屋の中で騒いでいた七人の猛者たちの動きが、全員同時に、まるで時間が停止したかのようにピタリと止まった。
「…………え?」
シルヴィが不思議そうに七人を見回す。
ロアンが、ワナワナと震え始めた。
エランが、両手で口元を覆った。
セリアが、聖剣を取り落とした。
マイラが、鼻血を噴いた。
ダリウスが、目を剥いた。
ノクティスとルルが、顔を見合わせた。
彼らの脳内で、シルヴィの言葉が、以下のように超解釈(翻訳)されて響き渡っていた。
(ひ、姫様が……我々と一緒に、外で食事を楽しみたいと……!?)
(あんなに無邪気に、お弁当を食べたいと……!)
(なんという尊き願い! なんという愛らしいご要望!! 姫様が外の空気を吸いたいと仰るのなら、我々が全力で最高のロケーションを用意しなければ!!)
「「「「「「「姫様のピクニックだァァァァァァァァッ!!!!!」」」」」」」
七人の狂信者たちによる、鼓膜が破れんばかりの絶叫が、迎賓館の最上階を揺るがした。
「おい、エラン殿! 今すぐこの大陸で最も気候が安定し、最も景色が美しく、そして最も『広い』場所を魔法で探知しろ!!」
「言われるまでもありませんわロアン! すでに風の精霊を大陸全土に放ちました! 姫様のピクニックに相応しい、絶景のスポットを特定します!」
エランの目が完全に血走り、古代魔法陣がすさまじい勢いで回転し始める。
「私とルルは、魔界と人間界のあらゆる食材をかき集め、姫様の舌を満足させる究極のピクニック弁当を作成します!」
ノクティスが執事服を翻し、包丁(暗殺用のダガーだが)を取り出す。
「マイラ! アタシは姫様が座るための、絶対に冷えない、絶対に汚れない、最高のピクニックシートとテーブルをオリハルコンで打つよ!」
「俺の竜の背を、姫様の移動用の絨毯として使え!!」
「私が先行して、現地の害虫(魔物や人間)をすべて浄化して更地にしておきます!!」
「えっ、ちょ、ちょっとみんな!? そんな大げさなものじゃなくて、普通にその辺の公園で……!」
シルヴィが慌てて止めようとするが、完全に暴走モードに入った七人の耳には、もはや何も届いていなかった。
(う、うーん……まあ、みんな楽しそうだから、いっか!)
シルヴィは早々に説得を諦め、ソファーの上でニコニコと彼らのドタバタ劇を眺めることにした。
かくして。
世界が二十万の軍勢の激突に震え、絶望の淵に立たされているその裏で。
最強の姫プ勢七人は、シルヴィの「お外でお弁当を食べたい」というささやかな願いを叶えるためだけに、国家の軍事作戦を遥かに凌駕する規模とエネルギーで、史上最大かつ最も過剰な『ピクニック計画』を始動させたのである。
そして、エランの精霊探知とダリウスの嗅覚によって選ばれた「現在最も晴天で風通しが良く、広大で平坦な絶景の荒野」。
それが、奇しくも人間軍十万と魔王軍十万が今まさに激突しようとしている決戦の地、『裁きの平原』のど真ん中(両軍の対峙地点の無人地帯)であるという奇跡的なすれ違いを、彼らはまだ知る由もなかった。
世界の命運は、一人の最弱吸血姫の「お弁当」によって、とんでもない方向へと転がり始めていた。




