第25話:朝の迎賓館、勃発する派閥争い
昨夜、聖王迎賓館の最上階・ロイヤルスイートルームで勃発しかけた、古参護衛五人と新参(元・魔王軍幹部)二人の一触即発の殺し合い。
それは、思いもよらない形で一時的な『強制終了』を迎えていた。
「ふぁぁ……。みんな、ごめんね。私、もう眠いから寝るね。おやすみなさい……」
両陣営が今まさに極大魔法と奥義をぶつけ合おうとしたその瞬間、ベッドから落ちたショックと紅茶の温かさで完全に安心しきったシルヴィが、大きな欠伸をしてベッドに潜り込んでしまったのだ。
当然のことながら、「姫様の安眠を妨げる」という行為は、彼ら狂信者たちにとって宇宙が滅亡するよりも重い大罪である。
殺意を100パーセントまで高めていた七人の猛者たちは、シルヴィの「おやすみなさい」の一言で強制的に攻撃をキャンセルされ、一晩中、武器を構え、殺気を放ち合いながらも『微動だにせず、音一つ立てずに睨み合う』という、ある意味で地獄のような持久戦を朝まで続ける羽目になっていた。
そして、翌朝。
聖都アイギスに、爽やかな朝陽が差し込む頃。
「んぅ……よく寝たぁ……」
ふかふかの天蓋付きベッドの中で、シルヴィが目を擦りながらゆっくりと身を起こした。
マイラ特製のオリハルコン繊維入りシルクパジャマが、スルリと柔らかな音を立てる。
「おはようございます、姫様」
シルヴィがベッドのカーテンを開けた瞬間、そこに完璧な角度で一礼をして控えていたのは、漆黒の燕尾服を身に纏った魔族のノクティスだった。
彼の傍らには、銀製のワゴンが用意されており、そこには魔界最高級の茶葉で淹れられた目覚めの紅茶と、美しくカットされたフルーツが並べられている。
「あ、ノクティスさん。おはよう!」
「姫様の健やかなるお目覚め、このノクティス、心より嬉しく存じます。さあ、こちらへ。朝の身支度を整えましょう」
「おはようございます、姫様! 今朝も宇宙一お美しいですわ!」
反対側からは、メイド服姿の吸血鬼ルルが、最高級の獣毛ブラシと手鏡を持って満面の笑顔で駆け寄ってきた。
「さあ姫様、ドレッサーの前にどうぞ! このルルが、姫様の美しい金糸の御髪を、傷一つつけずに完璧に梳かし上げてご覧に入れますわ!!」
「うん、ありがとう。ルルさん、髪梳かすのすごく上手だね。気持ちいい……」
ドレッサーの前に座ったシルヴィの背後で、ルルが恍惚とした表情でブラシを動かす。
その手つきは本当に丁寧で、シルヴィの頭皮をマッサージするように心地よい刺激を与えていた。ルルは「あぁ……姫様の髪に触れている……! 真祖様の香りが……!」と完全にヨダレを垂らしそうな顔をしているが、手元だけはプロのメイドそのものであった。
ノクティスはシルヴィの横に立ち、最適な温度の紅茶を注ぎ、シルヴィがフルーツを口に運ぶたびに、手品のような手際で口元を拭うためのナプキンを差し出している。
この光景。
元・魔王軍の凶悪な幹部二人が、一人の少女の朝の身支度を甲斐甲斐しく(そして狂信的なまでに)世話しているという、あまりにも平和で異常な光景。
それを、部屋の入り口付近で一晩中直立不動で睨み合っていた古参メンバー五人が、黙って見過ごすはずがなかった。
「…………貴様らァァァァァッ!!」
獣人ロアンの咆哮が、朝の迎賓館に響き渡った。
「姫様に! 我らが姫様に、気安く触れるなァァァッ!! なにが『おはようございます』だ! なにが『髪を梳かします』だ! 姫様の身支度は、古参である我々の神聖なる義務だぞ!!」
ロアンは怒りのあまり全身の毛を逆立て、大剣『滅山』を振り回しながらドスドスと踏み込んできた。
「許せませんわ……絶対に許せませんわ……!!」
エルフのエランの周囲の温度が、一気に氷点下まで下がった。
「姫様に朝の紅茶を淹れるのはこの私です! 姫様の御髪の手入れをするのも私です! それを、昨日湧いて出たばかりの泥棒猫とコウモリ男に奪われるなど……!! 姫様、どうか今すぐその薄汚い者たちから離れてください! 私の浄化の炎で、そいつらを跡形もなく消し去りますから!」
「聖女様の朝を穢す魔王軍の残党め! 貴様らには、神の裁きすら生ぬるい! 私の聖剣で千個の肉片に切り刻んでやる!」
聖騎士セリアも、血走った目で聖剣を抜き放つ。
「そうだそうだ! アタシが丹精込めて作ったパジャマに、魔族の薄汚い手を触れてんじゃねえぞ! ハンマーで頭蓋骨をカチ割るぞ!」
マイラがオリハルコンのハンマーを振り上げる。
「俺の主の傍から離れろ、下等生物どもが!!」
ダリウスが窓の外から巨大な竜の腕を差し込み、ノクティスたちを握り潰そうとする。
古参五人の、凄まじいまでの嫉妬と殺意。
朝から全開の殺戮オーラに包まれ、部屋の高級家具がミシミシと軋みを上げてひび割れていく。
しかし、その圧倒的なプレッシャーを受けても、ノクティスとルルは涼しい顔をしていた。
「……やかましい犬どもだ。姫様の優雅な朝のひとときを、その野蛮な鳴き声で台無しにする気か?」
ノクティスが、ティーカップを持ったまま冷ややかに見下す。
「姫様のような高貴なる真祖様の身の回りをお世話するのは、完璧な執事たるこの私と、同じ夜の血族であるルルこそが最も適任。貴様らのようなガサツな連中が、姫様の繊細なお肌に触れるなど、おこがましいにも程がある」
「ええ、その通りですわ」
ルルがシルヴィの髪を梳かす手を止め、古参メンバーたちに向けて極上の(そして最高に挑発的な)嘲笑を浮かべた。
「大体、貴方たちはおかしいと思わないの? 姫様がベッドから落ちてお怪我をされた時、貴方たちはどこで何をしていたのかしら? 外で突っ立って警備していたつもりでしょうけど、一番大事な『姫様の身の回りの安全』をおろそかにしていたじゃない。結局、姫様を一番近くでお守りできるのは、私とノクティスだけなのよ。用済みになった番犬は、大人しく外で尻尾でも振っていなさいな」
「「「「「————ッッ!!!」」」」」
ルルのこの一言は、古参メンバー五人のプライドと『姫プ勢としての存在意義』を根底から粉砕する、まさに【最悪の逆鱗】に触れる言葉であった。
「……言ったな、泥棒猫。我が第一の盾としての誇りを、これほどまでに愚弄するか」
ロアンの瞳孔が縦に細く割れ、完全な『殺戮モード』の獣の目となった。
「姫様の御前を血で汚すのは本意ではないが……。貴様ら新参者に、誰が姫様の『真の側近』であるか、その身体に刻み込んでやる。魂ごと微塵切りにしてくれるわ!!」
「ロアン、手出しは無用です。私が、空間ごとあの二匹を圧縮して消滅させます」
エランの杖の先に、ブラックホールのような漆黒の魔力球が生成される。
「邪魔だエルフ、私が浄化する!」
セリアも聖剣を構え、突進の構えをとる。
対するノクティスも、片手でティーポットを持ったまま、もう片方の手で幾本もの暗殺用投げナイフを指の間に挟み込んだ。
「フン。姫様の執事として、最初に掃除すべきゴミが貴様らというわけか。手間を取らせるなよ」
ルルの周囲にも、無数の紅いコウモリが渦を巻き始める。
「さあ、来なさい! 姫様への愛の深さ、格の違いを教えてあげるわ!」
ロイヤルスイートルームの空気が、極限まで圧縮され、今まさに爆発しようとしていた。
世界最高峰の戦士、魔術師、聖騎士、ドワーフ、竜人、そして魔界の最強暗殺者と吸血鬼。
彼らが本気で衝突すれば、この部屋どころか、聖都アイギスの上半分のブロックがまるごと吹き飛ぶのは明白だった。
「…………えっと」
その、世界が滅亡する寸前の空間の中央で。
ドレッサーの前に座ったままのシルヴィが、ぽかんと口を開けて事態を見つめていた。
彼女の頭の中は、状況に全く追いついていなかった。
昨日出会ったばかりの人たちが、なぜ朝からこんなに殺気立っているのか。なぜ自分を巡って(?)こんなに恐ろしい顔で睨み合っているのか。
「あの……みんな……?」
シルヴィは、少しだけ不安そうな顔で、恐る恐る立ち上がった。
そして、今まさに互いの必殺技を放とうとしていた七人の間に、トコトコと歩み出た。
「ひ、姫様!?」
「危険です姫様、お下がりください!!」
七人の猛者たちが、慌てて攻撃のモーションを寸止めし、武器や魔力をギリギリのところで抑え込んだ。
その彼らの前で、シルヴィはパジャマの裾を少しだけ握りしめ、小首をコテンと傾けた。
金色の髪が朝陽に輝き、少しだけ不安そうに揺れるルビーのような赤い瞳。
そして、その口元からこぼれたのは、純度百パーセントの、無邪気で平和な提案であった。
「……喧嘩はダメだよ? せっかくの朝なんだから、みんなでちゃんと、『おはよう』の挨拶しよう?」
「「「「「「「……………………へ?」」」」」」」
その瞬間。
七人の時間が、完全に、そして永遠に停止した。
パッシブスキル『真祖の威光』と『絶対的庇護欲』。
ステータス【魅力】【カリスマ】のカンスト値から放たれるこの絶対的な強制力は、彼女の『無邪気な願い』や『少し不安そうな表情』と結びついた時、その威力を天文学的な数値へと跳ね上げる。
七人の脳内に、核爆発クラスの精神波が直撃した。
(あ、ああ、あああぁぁぁ……っ!!)
ロアンの頭の中で、理性が完全に真っ白に染まった。
(姫様が……姫様が、こんなパジャマ姿のままで、少し寝ぼけたような愛らしい表情で、私たちに『おはようの挨拶をしよう』と……! な、なんという、なんという尊さだ!!)
(私としたことが……! 姫様のあの天使のような笑顔を、自らの嫉妬で曇らせてしまうところでしたわ……!)
エランが杖を取り落とし、顔を真っ赤にして口元を覆った。
(聖女様の、この無垢なる願い! みんなで仲良く朝の挨拶をする……これ以上の平和が、この宇宙に存在するだろうか!?)
セリアは聖剣を放り出し、ガクガクと膝を震わせた。
(おおおぉぉ……! アタシの作ったパジャマを着て、首を傾げる姫様……! 可愛すぎて、心臓が爆発しそうだ……!)
マイラがハンマーを落とし、鼻血を噴き出した。
(我が主の、あの少し上目遣いの表情……! 守らねば! この平和な朝を、俺の命に代えても守り抜かねば!!)
ダリウスが窓枠にしがみついたまま、白目を剥いて昇天しかけている。
そして、新参のノクティスとルルも例外ではなかった。
(これが……これこそが、私が一生を懸けてお守りすべき、真祖様の『おはよう』……! この一瞬の尊さのためなら、私の数百年の暗殺者の歴史など、すべてドブに捨てても構わない!!)
ノクティスは、持っていた暗器をすべて床に捨て、自らの胸を強く押さえて悶絶した。
(あぁぁっ……! 可愛い! 可愛すぎる!! 姫様を抱きしめて、そのふわふわの頭に頬ずりしたい!! でもそんな不敬なことしたら、私が死んでしまう!!)
ルルは、両手で自分の顔をバシバシと叩きながら、錯乱状態に陥っていた。
「みんな……? どうしたの? どこか痛いの?」
シルヴィが、心配そうに七人の顔を覗き込む。
その追撃の【上目遣い+首傾げ+心配顔】のトリプルコンボが炸裂した。
「「「「「「「ブフォァァァァァァッッ!!!」」」」」」」
七人の猛者たちは、全員同時に鼻から凄まじい勢いで血を噴き出し、あるいは泡を吹いて、その場にバタバタと崩れ落ちた。
「えええっ!? みんな!? どうしたの!? 大丈夫!?」
シルヴィがパニックになって駆け寄ろうとする。
「ひ、姫様……! お触れにならないでください……! 私たちの、汚れた血で……姫様のパジャマを穢してしまいます……!」
ロアンが床に這いつくばったまま、息も絶え絶えに手を伸ばした。
「あぁ……姫様の『おはよう』……。私、今なら神にでも勝てる気がしますわ……」
エランがうわ言のように呟く。
「……ノクティス。ルル」
ロアンが、鼻血を垂らしながら、隣で同じように倒れている魔族と吸血鬼に顔を向けた。
「……フン。なんだ、犬っころ」
ノクティスも、執事の顔を維持しようと必死だが、鼻の下は真っ赤に染まっている。
「……姫様が、『みんなで仲良く』と仰った。我々の下らない意地の張り合いで、姫様の美しい朝をこれ以上台無しにすることは、万死に値する愚行だ」
ロアンはギリッと歯を食いしばり、言葉を絞り出した。
「貴様らの素性や、姫様へのなれなれしい態度は気に食わん。今すぐ八つ裂きにしたいほど憎い。……だが、姫様の平穏を守るという【一点】においてのみ。貴様らの力を認めてやろう」
「……ほう」
ノクティスの目が、微かに見開かれた。
「姫様の笑顔を守ること。姫様の歩む道からあらゆる障害を排除すること。……その目的のためだけなら、我々は貴様らと『休戦』し、共に姫様の盾となることを許そう。……どうだ」
ロアンの提案。それは、古参メンバー五人から、新参の魔王軍幹部二人に対する、事実上の『従者同盟』への参加の打診であった。
ノクティスは、隣で目を回しているルルを一瞥し、そして、心配そうに自分たちを見下ろしているシルヴィの顔を見上げた。
「……悪くない提案だ。私も、姫様のお心を煩わせるようなマネはしたくない。貴様らのような野蛮人たちと手を組むのは虫唾が走るが……すべては、姫様のためだ」
ノクティスが、床の上でロアンに向けて手を差し出した。
ロアンもまた、血にまみれた巨大な手を伸ばし、ノクティスの手をガッチリと握り返した。
「「姫様の、平穏と笑顔を守るために」」
獣人の戦士と、魔族の暗殺者。
本来なら絶対に相容れないはずの二つの存在が、今ここに、「一人の最弱吸血姫を過剰に甘やかすため」という極めて歪んだ理由によって、固い握手を交わしたのである。
「あ、みんな仲直りした? よかったぁ!」
シルヴィが、パッと花が咲いたような笑顔を見せた。
その笑顔を見て、七人は再び「うおおぉぉ……尊い……!」と悶絶し、床の上で謎の連帯感を強めていくのだった。
かくして。
魔王軍の強硬派幹部であるノクティスとルルは、暗殺任務を完全に放棄し、シルヴィを崇拝する『姫プ勢』の正規メンバーとして迎え入れられた。
古参五人と新参二人。合計七人となった規格外の猛者たちによる、常軌を逸した「姫プ同盟」が、ここに完全成立したのである。
しかし、彼らがここで仲良く握手をしている裏で、魔界と人間界の情勢は、最悪の方向へと転がり始めていた。
最強の幹部二人を「人間国に暗殺された」と勘違いした魔王が、全軍を挙げて人間界への総攻撃を決意し。
それに対する人間国も、全軍を国境へ派遣し、世界を巻き込む全面戦争の火蓋が切られようとしていたのである。
だが、そんな国家の危機など、この過保護すぎる七人と、呑気な最弱吸血姫にとっては、次なる『究極のピクニック』への壮大な前振りに過ぎないことを、世界はまだ知らなかった。




