第24話:最強の執事とメイドの爆誕
深夜の聖都アイギス、聖王迎賓館の最上階。
吹き飛ばされた純金製の分厚い扉の残骸が床に散乱し、土煙が舞うロイヤルスイートルームの中。
そこに展開されていたのは、世界を滅ぼしかねないほどの凄まじい殺気と魔力の奔流であった。
黄金の闘気を放ちながら大剣『滅山』を構える獣人ロアン。無数の古代魔法陣を展開し、空間そのものを歪ませているエルフのエラン。聖剣を抜き放ち、純白のオーラを燃えたぎらせる聖騎士セリア。巨大なオリハルコンのハンマーを担ぎ、全身から熱気を発するドワーフのマイラ。そして、バルコニーの外から巨大な顔を覗かせ、いつでもブレスを吐けるよう喉を鳴らす竜騎士ダリウス。
彼ら五人の『古参護衛メンバー』の視線の先には、シルヴィのベッドの傍らでひざまずく二つの影があった。
漆黒の燕尾服に身を包んだ魔族のノクティスと、メイド服を纏った吸血鬼のルル。
彼らは魔王軍の最高幹部であり、ルクスヴェル世界においてもトップクラスの戦闘力を持つ凶悪な存在である。
人間族、獣人、エルフ、ドワーフ、竜人、魔族、吸血鬼。大陸の全種族の頂点に立つ者たちが一堂に会し、今まさに、この狭い室内で激突しようとしていた。
「薄汚い魔族どもめ……。貴様ら、姫様の御寝所に忍び込んで何をしようとしていた!!」
ロアンが剣の切っ先をノクティスに向け、地鳴りのような声で咆哮した。
「姫様と同じ吸血鬼を名乗る泥棒猫。姫様の足元にひざまずくことすら、本来なら万死に値する大罪ですわよ」
エランの氷のように冷酷な声と共に、魔法陣がギリギリと魔力を圧縮し始める。
しかし。
そんな世界崩壊レベルの殺気を向けられているにもかかわらず、ノクティスとルルは、古参の護衛たちを完全に『無視』していた。彼らの視界には、自分たちに刃を向ける猛者たちの姿など一ミリも映っていなかった。
「な、なんという失態! 姫様の玉肌に傷をつけてしまうとは、我ら万死に値する!!」
ルルは、ロアンの怒号など全く耳に入っていない様子で、シルヴィの膝を両手で優しく、まるでこの世で最も尊いガラス細工を扱うかのように包み込んでいた。
「姫様、痛かったでしょう!? 怖かったでしょう!? 私の不注意で、あのような硬い床に姫様を落としてしまうなんて! ああ、この美しいお膝が、ほんのわずかですが赤くなっている……! 許せません、こんな重力を生み出しているこの星そのものを破壊してやりたい!!」
ルルはボロボロと大粒の涙を流しながら、シルヴィの膝(実際にはかすり傷一つなく、ただ少し打って赤くなっているだけ)に向かって、信じられない規模の魔法を詠唱し始めた。
「悠久なる夜の血族よ、深淵より湧き出でる生命の雫よ! 今ここに、我が魔力と命の半分を代償として、姫様の痛みを永遠の彼方へ消し去りなさい!! 【魔界最高位治癒術・紅蓮の再生】!!」
「えっ!? 命の半分!? そんな大げさな魔法かけないで! 全然痛くないから!!」
シルヴィが慌てて止めようとするが、ルルの手から放たれた極大の治癒魔法は、眩いばかりの紅紅色の光となってシルヴィの膝を包み込んだ。
それは本来、致命傷を負った上位魔族を蘇生させるための、文字通り術者の命を削る禁呪クラスの回復魔法である。
それが、ただの「ちょっとした打ち身」に対して全力で注ぎ込まれたのだ。過剰治癒もいいところである。
光が収まると、シルヴィの膝は元通り……どころか、以前よりもさらに透き通るような白さと滑らかさを増し、真珠のような輝きを放っていた。
「ああ……よかった。姫様のお膝が元の美しさを取り戻された……!」
ルルは安堵のあまりヘナヘナと座り込み、うっとりとシルヴィの膝を見つめている。
一方、その隣では。
魔界最強の暗殺者であるノクティスが、常軌を逸したスピードで動いていた。
「姫様。突然の出来事で、さぞかし御心が波立たれたことでしょう。どうか、このノクティスが淹れた紅茶で、一息お入れくださいませ」
ノクティスは、影移動のスキルを応用して魔界の自室から最高級のティーセットと茶葉、さらには魔界の清らかな湧き水までを瞬時に取り寄せ、部屋の片隅にある小さなテーブル(ロアンたちが壊さなかったもの)に展開していた。
彼の動きは、もはや目で追うことすら不可能だった。
暗殺術の極意である『音を立てない身体操作』と『神速の身のこなし』。それを、彼は「紅茶を淹れる」という行為に100パーセント全振りしていた。
シュパパパパッ!!
指先から発生させた微細な魔力の炎で、ポットの湯をコンマ一秒で最適な温度(紅茶の種類に合わせて95度)に沸かし上げる。
同時に、もう片方の手で茶葉の量をミリグラム単位で正確に計量し、ポットに投入。
お湯を注ぐ際の水流の角度、高さ、速度。すべてが、茶葉が最も美しくジャンピングするための完璧な黄金比で計算されていた。
(暗殺稼業において、標的に毒を盛るために紅茶の淹れ方を極めたことが、まさかここで役に立つとは……!)
ノクティスの赤い瞳には、狂気じみた執念が宿っていた。
(いや、違う。私がこれまで暗殺の技術を磨いてきたのは、すべて今日、この瞬間に、姫様に最高の紅茶を提供するためだったのだ! 私の数百年の人生のすべては、この一杯のためにあった!!)
チャコッ。
わずか数秒。
本当に、瞬きをする間に、ノクティスはシルヴィの目の前に、極上の香りを漂わせる一杯の紅茶を差し出していた。
純白のアンティークカップに注がれたそれは、美しい琥珀色に輝き、芳醇で甘い香りが部屋の殺伐とした空気を一瞬で塗り替えてしまうほどだった。
「さあ、姫様。魔界の深部でしか採れない『夜想花』の茶葉を使用しております。精神を落ち着かせ、安らかな眠りへと誘う効果がございます。毒見はすでに私が百回行いました。どうぞ、お召し上がりください」
ノクティスは、絵に描いたような完璧な執事の所作で、恭しく頭を下げた。
「あ……ありがとう……」
シルヴィは、状況についていけずポカンとしていたが、目の前に差し出された紅茶のあまりにも良い香りに、思わず手が伸びた。
先ほどまで刃物を突きつけてきた不審者が淹れた紅茶である。普通なら警戒して絶対に飲まないだろう。だが、彼女の『超絶お人好し(ただの善人)』という性格と、ノクティスから放たれる狂気的なまでの「忠誠心」を感じ取り、「なんだか悪い人じゃなさそう」と持ち前のマイペースさで判断してしまったのだ。
コクッ。
シルヴィはカップに口をつけ、紅茶を一口飲んだ。
「…………!!」
シルヴィの大きな赤い瞳が、さらに丸く見開かれた。
「これ……すっごく美味しい……!!」
渋みは一切なく、それでいて紅茶本来の深いコクがあり、花の甘い香りが鼻に抜けていく。温度も完璧で、猫舌のシルヴィでもごくごくと飲める絶妙な加減だった。
エランが淹れてくれる紅茶も魔法を使っていて美味しいが、ノクティスの淹れたこの紅茶は、まさに職人技の極致。数百年を生きた魔族の執念と技術が詰まった一杯だった。
「美味しい! 私、こんなに美味しい紅茶、初めて飲んだかも!」
シルヴィは、不審者が侵入してきたという恐怖も混乱もすべて忘れ、満面の笑みを浮かべてノクティスとルルを見つめた。
まさに、天使の微笑み。あるいは、女神の慈愛。
「「————ッ!!」」
その笑顔を見た瞬間。
ノクティスとルルの脳内で、ファンファーレが鳴り響いた。いや、宇宙が爆発し、新たな銀河が誕生したと言ってもいい衝撃だった。
『通知:対象の精神に「絶対的忠誠」が完全に定着しました。対象はもはや、姫様なしでは呼吸すら困難な状態です』
「あぁ……っ! 姫様が……姫様が私の淹れた紅茶を飲んで、『美味しい』と微笑んでくださった……!!」
ノクティスは、両手で顔を覆い、男泣きに泣き崩れた。
暗殺者として血と泥にまみれ、誰からも感謝されることのなかった彼の冷酷な人生。それが今、この小さな少女の「美味しい」という一言と無邪気な笑顔によって、完全に救済されたのだ。
「こんな……こんな幸福が、この世界に存在したなんて……! 魔王軍での地位? 権力? 世界の支配? そんなものは、この姫様の笑顔の前に比べれば、道端の石ころ以下の価値しかない!!」
「ノクティスばかりズルいわ! 姫様、お膝の痛みは本当に引きましたか!? まだ痛むようなら、私の血を飲んでください! いや、いっそ私の膝と交換してください!!」
ルルもまた、シルヴィのパジャマの裾を握りしめて号泣している。
「ああ、姫様のその笑顔を永遠に守るためなら、私は世界中の人間も魔族もすべて敵に回しても構わない! 魔王軍なんか、もうどうでもいいわ! あんなブラックでむさ苦しい職場、今すぐ辞表(物理的な破壊)を叩きつけてやる!!」
ノクティスは涙を拭い、キリッとした表情(しかし目は血走っている)で立ち上がり、ルルと共にシルヴィの前に再びひざまずいた。
「姫様! 今日、この瞬間から、我々二人は魔王軍を正式に脱退いたします!」
「そして、姫様の専属執事と専属メイドとして、この命が尽きるまで、いや尽きた後も幽霊となって姫様にお仕えすることを、ここに誓います!!」
勝手な就職宣言であった。
面接も履歴書も雇用契約もない。ただ「紅茶が美味しかったから笑顔になった」というだけの理由で、魔界の最高戦力二人が、あっさりとシルヴィの軍門に下ったのである。
「えっ……? うん、まあ、紅茶すごく美味しかったし、膝も治してくれたから……ありがとう。でも、お給料とか払えないよ?」
シルヴィが困惑しながら言うと、二人は「お給料など!! 姫様の傍にいること自体が究極の報酬です!!」と激しく首を振った。
この、あまりにもカオスで、そしてシルヴィのペースに完全に飲み込まれた空間。
それを部屋の入り口から見ていた古参の護衛たち——ロアン、エラン、セリア、マイラ、ダリウスの五人は、完全に蚊帳の外に置かれていた。
「…………おい」
ロアンの声が、限界まで低く、ドス黒く濁った。
「なんだ、今のやり取りは。あのポッと出の魔族と吸血鬼が、姫様の御前で勝手に泣いて、勝手に忠誠を誓い、あまつさえ姫様に『美味しい』と笑いかけていただいた……だと?」
ミシミシ、ミシミシと、ロアンの握る大剣の柄が軋みを上げる。
彼の獣人としての本能——いや、姫様の「第一の盾」としての猛烈な嫉妬心が、火山の噴火のように爆発しようとしていた。
「許せませんわ……」
エランの周囲の空気が、絶対零度に凍りついた。
「姫様に紅茶を淹れるのは私の役目。姫様のお怪我を癒やすのも私の役目。それを、どこから湧いて出たかもわからない泥棒猫と薄汚いコウモリ男に奪われるなど。……姫様のあの笑顔は、私に向けられるべきものでしたのに!!」
バチバチと、エランの杖から漏れ出す魔力が、部屋の絨毯を黒く焦がしていく。
「貴様らァァァッ!!」
セリアが、聖剣を振りかざして絶叫した。
「聖女様をたぶらかし、あのような甘言で取り入ろうとするなど、万死に値する邪悪な行い! 聖女様の専属護衛は我々『姫様の笑顔を守る同盟』の五人だけで十分だ! 貴様らのような魔界のゴミクズが入り込む隙間など、一ミリも存在しない!!」
「そうだそうだ! 姫様のパジャマを汚す前に、とっととこの部屋から出ていきやがれ!」
マイラが巨大なハンマーを振り回し、窓の外からはダリウスが「俺の主の傍に寄るなァァッ!」と咆哮を上げる。
古参メンバー五人の、凄まじいまでの嫉妬と殺気。
彼らは「姫様の安全を守る」という大義名分を完全に忘れ、ただ単に「自分たちのポジションが奪われるかもしれない」「姫様が他の奴に笑顔を向けたのが許せない」という、極めて幼稚で、しかし世界を滅ぼしかねないほどの強大なエゴによって暴走状態に入っていた。
しかし、その古参メンバーの殺気を受けても、ノクティスとルルは微動だにしなかった。
彼らもまた、魔界の頂点を極めた強者であり、何より「姫様の専属」という新たな生きる目的を手に入れたばかりの狂信者である。
ノクティスが、ゆっくりと立ち上がり、冷酷な執事の顔でロアンたちを振り返った。
「……騒々しい犬どもだ。姫様がせっかく美味しい紅茶を楽しんでおられるというのに、その野蛮な鳴き声で雰囲気を台無しにする気か?」
「なんだと……?」
ロアンの額に青筋が浮かぶ。
「犬は犬らしく、外で泥にまみれて番でもしていろと言っているのです」
ルルが、メイド服のスカートをつまんで優雅に(そして最高に挑発的に)微笑んだ。
「姫様のような気高く繊細な真祖様の身の回りをお世話するのは、同じ夜の血族である私と、完璧な執事であるノクティスが最も適任。貴方たちのようなガサツな連中では、姫様の御髪を梳かすことすら許されませんわ」
「言ったな、泥棒猫……! その減らず口、二度と叩けないように灰にして差し上げますわ!!」
エランが激怒し、魔法陣をノクティスたちに向けた。
「上等だ。姫様の御前を血で汚すのは本意ではないが……我々が姫様の『真の側近』であることを、貴様らの身体に刻み込んでやる」
ノクティスの手の中に、再び複数の暗殺暗器がシャキッと音を立てて展開される。
ルルの周囲にも、無数の紅いコウモリが飛び交い始めた。
ロアンたち古参五人 VS ノクティス・ルルの新参二人。
戦力としては五対二だが、ノクティスとルルの実力は魔王軍の最高幹部クラス。どちらも引く気は一切ない。
ロイヤルスイートルームという狭い空間で、大陸の勢力図を単独で塗り替えられるレベルの化け物たちが、本気の殺し合い(という名の派閥争い)を始めようとしていた。
「えっと……あの……」
シルヴィは、紅茶のカップを両手で持ったまま、目の前で繰り広げられる地獄のような光景に、完全に置いてけぼりを食らっていた。
「みんな、仲良く……って言っても、全然聞いてくれないよね、これ……」
夜更けの聖都アイギス。
魔物の大暴走という厄災が去ったばかりのこの街で、今度は「姫プの主導権」を巡る、人類と魔族の枠を超えた最もくだらなく、そして最も危険なハルマゲドンが幕を開けようとしていた。
シルヴィの「平和なスローライフ」の夢は、狂信者たちが増えるたびに、音を立てて遠ざかっていくのであった。




