第23話:暗殺者の殺意と、姫の涙目
時間を、ほんの数分だけ巻き戻そう。
聖都アイギス、聖王迎賓館の最上階。鉄壁の過剰防衛網を『影移動』と『霧化』によってすり抜け、ロイヤルスイートルームへの侵入を果たした魔王軍の二人の幹部——ノクティスとルル。
彼らは、月明かりが差し込む豪奢な天蓋付きベッドの傍らに立ち、そこで無防備な寝息を立てる少女を見下ろしていた。
(これが、人間の聖都を熱狂させている光の聖女……いや、我ら夜の血族の頂点に立つ『真祖』)
漆黒の燕尾服に身を包んだノクティスは、冷徹な赤い瞳でシルヴィを観察していた。
魔界最強の暗殺者として数え切れないほどの命を刈り取ってきた彼にとって、目の前の少女はあまりにも隙だらけだった。首元、心臓、眉間。致命傷を与えるポイントは無数にある。
だが、同時に底知れぬ気配も感じていた。一切の闘気も魔力も発していないにもかかわらず、その存在自体が周囲の空間を圧倒しているような、奇妙な静けさ。
「ねえ、ノクティス。拉致する前に、少しだけ……本当に少しだけ、味見をしてもいいかしら?」
ルルが、恍惚とした表情で自らの唇を舐めた。
「真祖の血……。もし一口でも舐めることができれば、私の吸血鬼としての力は飛躍的に跳ね上がり、永遠の美しさを手に入れられるかもしれないわ……ああ、我慢できない……」
ルルの瞳には、野心と欲望が渦巻いていた。彼女は吸血鬼至上主義者であり、同時に魔王軍での自らの地位をさらに高めようとする野心家でもあった。この真祖を傀儡とし、その血の力を利用すれば、魔王すらも超える存在になれるかもしれない。
「やめろ、馬鹿者が。我々の任務は、この少女を『生け捕り』にし、魔王様の御前に引きずり出すことだ。余計な真似をして死にたくなければな」
ノクティスはルルの手首を掴んで制止すると、懐から『静寂の短剣』を抜き放った。
光を反射しない漆黒の刃。これで首筋に触れ、麻痺毒を流し込む。それが最も確実で静かな誘拐の手順だ。
ノクティスは、感情を完全に『無』にした。
暗殺者としての完璧な精神統一。一切の殺気も音も漏らさず、ただ任務を遂行するだけの機械となる。
彼はベッドに身を乗り出し、シルヴィの透き通るような白い首筋へと、冷たい刃をゆっくりと近づけていった。
「……悪いが、我々と一緒に魔界へ来てもらおうか。抵抗すれば……」
ノクティスが、極めて低く、冷酷な声で呟こうとした。
まさに刃がシルヴィの肌に触れるか触れないかという、その【絶対的な瞬間】。
「んぅ……?」
シルヴィの赤い瞳が、ぱちりと開いた。
彼女は眠りの浅いタイミングだったのか、ノクティスの微かな声(あるいは気配)に反応して目を覚ましたのだ。
そして、寝ぼけ眼のまま、自分の顔のすぐ近くに、刃物を構えた見知らぬ青白い顔の男と、黒い翼を生やした女がいるのを視界に捉えた。
「えっ……?」
シルヴィの思考が数秒停止する。
ここは大聖堂の隣の迎賓館で、外にはロアンたちがいるはず。それなのに、なぜ知らない人が部屋にいるのか。しかも、刃物を持っている。
「ひっ!?」
完全にパニックになったシルヴィは、悲鳴を上げながらベッドの反対側へと後ずさろうとした。
しかし、彼女が寝ていたのはベッドの端ギリギリだった。
慌てて身体を捻ったことでバランスを崩し、マイラ特製のシルクのパジャマ(オリハルコン繊維入りで滑りやすい)がシーツの上を滑る。
「あ、危な……!」
シルヴィの小さな身体は、そのままベッドの縁からポロッとこぼれ落ちた。
ドスッ。
「あいたっ……」
ふかふかの高級絨毯が敷かれているとはいえ、突然の落下である。
シルヴィは床に転がり、顔をしかめて自分の膝をさすった。
「うぅ……びっくりした……。ベッドから落ちちゃった……膝、ぶつけちゃったよぉ……」
それは、本当に、ただの不注意による自損事故だった。
暗殺者の襲撃に対して、自らベッドから落ちて自爆したようなものである。
ノクティスとルルは、短剣を構えた不自然な体勢のまま、床で膝をさすっているシルヴィを呆然と見下ろしていた。
「い、痛い……」
シルヴィが、潤んだ赤い瞳で見上げてきた。
突然現れた不審者に対する恐怖と、膝を打ったじんわりとした痛み。
その二つの感情が混ざり合い、彼女の瞳には大粒の涙がプクッと浮かんでいた。小首を傾げ、上目遣いで、ふるふると震えるその姿。
——その瞬間であった。
彼女の感情の揺れ(驚きと痛み)に呼応するように、パッシブスキル『真祖の威光』と『絶対的庇護欲』が、通常の【2倍の威力】に跳ね上がって大暴走を起こした。
『警告:対象【魔族・ノクティス】【吸血鬼・ルル】に対し、限界突破出力での精神干渉(絶対庇護・服従)を実行します』
ドグゥゥゥゥンッ!!!!
ノクティスとルルの脳内に、物理的な衝撃すら伴うほどの、凄まじい精神波の直撃弾が着弾した。
それは、言葉や論理による説得などではない。魂の根源、DNAの奥底に直接刻み込まれる『宇宙の真理』の強制上書きであった。
「————ぁ、」
「————え?」
ノクティスの視界が、ぐにゃりと歪んだ。
彼の脳内を支配していた冷徹な暗殺者としての思考回路が、音を立てて崩壊していく。
(私は……私は今、何をしようとしていた?)
ノクティスの手に握られた静寂の短剣。それが、この世で最も忌まわしく、恐ろしい凶器に見えた。
(私は、この短剣で……あの尊き姫君の、雪のように白い首筋を傷つけようとしていたというのか……!?)
ガシャンッ、と。ノクティスの心の中で、何かが完全に壊れる音がした。
そして、破壊された精神の跡地に、爆発的な勢いで流れ込んできた感情。
それは、魔界の闇の中で孤独に生きてきた彼が、決して知るはずのなかった感情——『狂おしいほどの父性』、あるいは『すべてを投げ打ってでも仕えたいという絶対の忠誠心』であった。
(見ろ……。あのように小さく、華奢で、無防備な少女が、硬い床に膝を打ち付けて涙を浮かべておられる。それなのに、私は暗殺だの、魔王軍の野望だのと、なんと下劣なことを考えていたのだ!)
ノクティスの赤い瞳から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。
(違う! 私の刃は、姫様を傷つけるためのものではない! 姫様に近づく害虫をすべて切り裂き、姫様の歩む道に敷かれた絨毯のわずかなシワすらも断ち切るためのものだ!!)
彼の中で「真祖を利用して人間界を支配する」という野心は、チリ一つ残さず消し飛んでいた。
一方、ルルの精神世界でも、同様の大崩壊が起きていた。
(ああ……あああああぁぁぁっ!!)
ルルは、自らの脳を掻きむしりたいほどの衝動に駆られていた。
彼女の吸血鬼としての本能が、完全にバグを起こしていた。
先ほどまで「真祖の血を啜って自分の力を高めたい」と願っていた野心的な渇望が、180度反転し、「私の全身の血を最後の一滴まで絞り出してでも、姫様の乾きを癒して差し上げたい!!」という、自己犠牲を伴う究極の『母性』へと変異してしまったのだ。
(姫様が……私と同族の至高の存在が、お怪我をされた! 私の目の前で! 膝を打って、涙を流しておられる!!)
ルルの視界に映るシルヴィの涙は、世界を滅ぼす魔法よりも破壊的だった。
(私はなんて愚かなの! 真祖様を利用する? 血を味見する? 冗談じゃないわ! そんな邪悪なことを考えていた自分の脳髄を、今すぐ引きずり出して握り潰してやりたい!! 私はただ、この愛らしい姫様の髪を永遠に梳かし続け、お膝の痛みを私の魔法で優しく癒やして差し上げるだけの、ただのメイドになりたいのよ!!)
「あ、あのー……?」
シルヴィが、涙目で床に座り込んだまま、目の前でワナワナと震え、涙を流し始めた燕尾服の男とメイド服の美女を見上げて、不思議そうに首を傾げた。
「誰……ですか? 何か、悲しいことでもあったんですか?」
自分を襲撃しようとしていた相手に向かって、「悲しいことでもあったの?」と気遣う。
その、底抜けの善人っぷりと、無垢な小動物のような瞳の破壊力は、もはや致死量を超えていた。
「おおおぉぉ……!!」
ドンッ!!
ノクティスが、魔王軍幹部の威厳も暗殺者のプライドもすべて投げ捨て、床に両膝を激しく打ち付けてひれ伏した。
手からこぼれ落ちた短剣が、カランと虚しい音を立てて転がる。
「申し訳ございません、姫様!!」
ノクティスが、シルヴィの足元に恭しく、そして狂おしいほどの忠誠を込めて頭を床に擦り付けた。
「私はノクティスと申す者! これまで愚かな暗闇の中で、血塗られた無意味な人生を生きてまいりましたが……今、姫様のその尊きお姿と涙を拝見し、魂の底から真の光を見出しました! 今日よりこの命、姫様の影となり、あらゆる障害と『ベッドからの落下』を未然に防ぐ専属の『執事』として、どうかお使いくださいませ!!」
「私はルル! 姫様と同じ吸血鬼の端くれですわ!!」
ルルもまた、メイド服のスカートを翻してシルヴィの真横にスライディング土下座を決め、大粒の涙をボロボロと流している。
「ああっ、姫様のお膝が微かに赤くなっている! 今すぐ、今すぐ私の最高の治癒魔法で……いえ、それでは足りません! 私の命の半分を削ってでも、姫様の痛みを消し去ってご覧に入れますわ!! だから、どうか私を専属の『メイド』としてお傍に置いてくださいませ!!」
「えっ? ええっ!?」
シルヴィは完全にパニックになった。
真夜中に突然現れて刃物を突きつけてきた見知らぬ美男美女が、いきなり自分を「姫」と呼び、執事とメイドにしてくれと号泣しながら土下座しているのだ。寝起きの頭では、状況が全く処理しきれない。
「ど、どういうこと!? 執事? メイド? 私、そんなの雇うお金ないよ!?」
「お金など不要です!! むしろ冒涜です!!」
ノクティスが顔を上げ、血走った目で即答する。
「姫様の御傍で呼吸をさせていただき、姫様にお茶を淹れさせていただくこと。それ自体が、私にとって何物にも代えがたい究極の報酬! むしろ、私がこれまで魔界の暗殺稼業で稼いできた全財産を、今すぐ姫様に捧げますゆえ!!」
「魔界!? え、魔族の人なの!?」
シルヴィがビクッと肩を震わせる。魔族といえば、人間族の敵である恐ろしい存在だ。
「ご安心を! 魔王軍など、今日この瞬間、いや一秒前に脱退いたしましたわ!」
ルルが鼻息荒く宣言する。
「姫様のような純真で美しい方を、あんなむさ苦しい魔王の元へ連れて行こうだなんて! あのようなブラック組織、今すぐ私が火を放って壊滅させてやりたい気分ですわ! さあ姫様、まずはそのお怪我の治療を!」
ルルがシルヴィの膝に触れようと、震える手を伸ばした。
ノクティスはすでに、どこから取り出したのか最高級のティーセットを床に並べ、秒速で心を落ち着かせるための紅茶を淹れる準備を始めている。
魔王軍最強の暗殺者と、吸血鬼の狂信者。
彼らの『利用してやる』という野心は、シルヴィの涙目とスキルの直撃によって完全にバグを起こし、限界突破の母性と父性へと反転を遂げた。
ここに、新たな規格外の狂信者——『最強の執事』と『最強のメイド』が爆誕したのである。
しかし、彼らがシルヴィを甘やかそうとした、まさにその瞬間だった。
バァァァァァァァァァンッ!!!!
ロイヤルスイートルームの、分厚い純金製の扉が、木端微塵に吹き飛んだ。
「何奴だァァァァァッ!! 姫様の御寝所に無断で立ち入る薄汚い害虫どもはァァァッ!!」
黄金の闘気を噴出させながら、獣人ロアンが大剣『滅山』を構えて部屋に飛び込んできた。
「空間の歪みを感知しましたわ! どこから入り込んだか知りませんが、姫様を驚かせた罪、灰すら残さず消去しますわよ!!」
エランが杖を構え、背後には無数の古代魔法陣が展開されている。
外で警備していた過保護すぎる猛者たちが、室内の異常(シルヴィがベッドから落ちた音と、「痛い」と声を出したこと)に気づき、光の速さで扉を破壊して突入してきたのである。
続いてセリア、マイラ、そして窓の外からダリウスまでもが顔を覗かせる。
彼らの視線の先には、シルヴィの足元でひざまずき、シルヴィの膝をさすろうとしている見知らぬメイド服の女と、お茶を淹れようとしている燕尾服の男の姿があった。
「……チッ。聖都の番犬どもか」
ノクティスがゆっくりと立ち上がり、執事の顔から、再び暗殺者の冷酷な顔へと切り替わった。
「姫様の御前で騒々しい。貴様らの放つ野蛮な殺気で、姫様が怯えておられるではないか。下賎な獣人とエルフは、とっとと外へ出て姫様のお休みの邪魔をしないことだ」
「なんだと……? ぽっと出の魔族風情が、我らが姫様への忠義を語るか」
ロアンの額に青筋が浮かび、大剣がギラリと光る。
「言っておくが、姫様の第一の盾はこの俺だ。貴様のような日陰者が、姫様の御傍に侍るなど百年早い!」
「あら、第一の盾? 笑わせないでちょうだい」
ルルがメイド服の裾を翻し、妖しい微笑みを浮かべた。
「姫様と同じ高貴なる夜の血族である私こそが、姫様の身の回りをお世話するのに最もふさわしいに決まっているでしょう? 貴方たちのような異種族では、姫様の繊細なお肌を傷つけてしまうわ」
「黙りなさい、泥棒猫」
エランが氷のような声で宣告する。
「姫様の専属魔術師であり、最高の理解者はこの私です。貴方たちのような野蛮な魔王軍の残党など、姫様の視界に入れる価値もありませんわ」
かくして。
深夜のロイヤルスイートルームに、世界最高峰の戦力たちが一堂に会し。
「誰が一番シルヴィを甘やかすか(姫プするか)」という、宇宙の存亡を懸けた最悪の内輪揉め(派閥争い)が、今まさに火蓋を切ろうとしていた。




