第22話:鉄壁の防衛網と凄腕の侵入者
深夜の聖都アイギス。
昼間のスタンピード終結の熱狂と、教皇による『光の聖女』誕生の宣言に沸き返った街も、今は深い静寂と闇に包まれていた。
空には雲一つなく、澄み切った月明かりが大聖堂の尖塔を白く照らし出している。
だが、聖都の中心に位置する『聖王迎賓館』の周囲だけは、静寂というよりも、呼吸すらためらわれるような【異常な緊迫感】に支配されていた。
「……南西の風に、微かな魔素の乱れ。距離二千メートル。ネズミか? いや……念のため消し飛ばしておくか」
迎賓館の最も高い屋根の上。
月の光を背に受けて立つ獣人戦士ロアンが、夜風に鼻をヒクつかせながら低く唸った。彼の手には、いつでも大剣『滅山』を振り下ろせるよう、尋常ではない闘気が練り上げられている。
彼の獣人としての超嗅覚と超聴覚は、半径数キロ圏内の草木の揺れ、小石の転がる音、さらには地中の虫の這う音さえも完全に補足していた。
「お待ちください、ロアン。貴方の剣圧で迎賓館が揺れれば、姫様が目を覚ましてしまうかもしれませんわ」
ロイヤルスイートルームの隣の部屋、そのバルコニーに優雅に腰掛けるエルフの魔術師エランが、冷たい声でロアンを制止した。
「半径一キロ以内の空間は、すでに私の『古代精霊の絶対遮断領域』でドーム状に覆われています。物理的な侵入はもちろん、空間転移や透過魔法であろうと、この結界に触れた瞬間に原子レベルで分解される仕組みですわ。ネズミ一匹、姫様の御寝所には通しません」
「ふん。魔法などという脆弱なものに頼るから隙ができるのだ」
廊下の扉の前に直立不動で立つ特級聖騎士セリアが、聖なるオーラを全開にしながら鼻で笑った。
「この私の『聖絶結界』と、二十四時間体制の不眠不休の警備こそが最高の盾。万が一、エランの結界をすり抜けるような害虫がいようとも、この扉を開ける前に私が浄化の光で消し炭にしてやろう」
「おいおい、アタシの最高傑作を忘れてもらっちゃ困るぜ」
別室から、カンカンと小さなハンマーの音を響かせながらマイラが口を挟む。
「姫様が着ているあのパジャマ。あれには、オリハルコンの繊維を混ぜ込んで、アタシが何十重にも防護ルーンを編み込んであるんだ。たとえ天変地異が起きようが、姫様の玉肌にはかすり傷一つ、寝冷えのくしゃみ一つさせやしねえよ」
そして、迎賓館の建物の周囲、暗闇に紛れるようにして、二メートル半を超える巨体を持つ竜騎士ダリウスが腕を組んで立っている。
「俺の竜の眼は、空からのあらゆる接近を遮断する。上空五千メートルを飛ぶ鳥の羽ばたきすら見逃さん。……姫様の安眠は、俺たち五人で完璧に守り抜く」
まさに鉄壁。
一個師団、いや、魔王軍の総力をもってしても、正面から突破しようとすれば全滅必至の、狂気に満ちた『超・過剰防衛網』であった。
彼らの目的はただ一つ。「姫様が、朝までぐっすりと、一度も目を覚ますことなく平和な夢を見る環境を守ること」である。
しかし。
彼らがどれほど外側を完璧に固めようとも、この世界には「物理的な壁」や「魔力的な結界」という概念そのものを無視する、特異な能力を持つ者が存在した。
迎賓館の最上階、ロイヤルスイートルーム。
豪華な天蓋付きベッドで、シルヴィがマイラ特製のシルクのパジャマ(※オリハルコン入りだが驚くほど柔らかい)に包まれ、「すぅ……すぅ……」と平和な寝息を立てている、まさにその部屋の中。
ベッドの足元に落ちていた、ほんの小さな『家具の影』。
その真っ黒な影の水面から、音もなく、一滴の波紋すら立てずに、一人の男が「湧き上がる」ようにして姿を現した。
「……フン。過剰な護衛ですが、穴だらけですね」
漆黒の燕尾服に身を包んだ、魔族の暗殺者ノクティスである。
彼が持つ『影移動』というスキルは、魔力や物理を伴う空間転移ではない。この世界に存在する「影と影の隙間」という概念的な通路を通るため、エランの張った古代魔法の結界にすら感知されることなく、目標の懐へ直接入り込むことができる究極の暗殺術だった。
さらに、ノクティスが部屋に出現した直後。
わずかに開いていた窓の隙間、エランの結界のほんの僅かな『魔力の継ぎ目』を縫うようにして、一匹の小さなコウモリが滑り込んできた。
コウモリは空中で紫色の霧に変化し、音もなく妖艶な美女の姿——吸血鬼のルルへと変わった。
「さすがはノクティス。貴方の影移動の後に続くなら、エルフの結界も形無しですわね。私も吸血鬼の『霧化能力』で、なんとか気配を消したまま入り込めましたわ」
ルルが艶やかな唇を歪めて、声を出さずにノクティスに語りかける。彼らは互いの思考を微細な魔力波で伝達し合う術を持っていた。
「油断するな、ルル。外にいる五匹の番犬どもは、間違いなく化け物クラスだ。少しでも物理的な音を立てるか、明確な殺気を放てば、瞬時に感知されて部屋ごと吹き飛ばされるぞ」
ノクティスは冷徹な眼差しで室内を見渡した。
「分かっているわ。……それにしても」
ルルの視線が、部屋の中央にある天蓋付きベッドへと吸い寄せられる。
「ああ……なんという、濃密で、甘美で、圧倒的な気配……。間違いありません。あのベッドで眠っている少女が、我ら夜の血族の頂点たる『真祖』ですわ」
二人は息を殺し、ベッドの脇へと音もなく近づいた。
レースの天蓋の隙間から、月明かりに照らされたシルヴィの寝顔がはっきりと見えた。
金色の髪が枕に広がり、透き通るような白い肌が淡く光っているようにすら見える。
「……すぅ……んぅ……」
小さく寝返りを打ち、微かに開いた桜色の唇から、無防備な寝息が漏れる。
それを見たノクティスは、冷酷な暗殺者でありながら、ほんの少しだけ眉をひそめた。
(これが、真祖……? 昼間の報告にあった、三十メートルの災厄の魔獣をひれ伏させ、聖都に光の奇跡を起こしたという、恐るべき存在だというのか?)
ノクティスの目には、シルヴィがただの「どこにでもいる、少しばかり器量の良い人間の少女」にしか見えなかった。
魔王軍の幹部であるノクティスでさえ、彼女から一切の『覇気』や『闘気』を感じ取ることができない。
(いや、それこそが真祖の恐ろしさか。底が全く見えない。完全に気配を『無』にしている……。この無防備な寝顔すら、我々を油断させるための罠かもしれん)
ノクティスは勝手に深読みし、警戒レベルを最大に引き上げた。
「ねえ、ノクティス。拉致する前に、少しだけ……本当に少しだけ、味見をしてもいいかしら?」
ルルが、自らの鋭い犬歯をチラリと覗かせながら、恍惚とした表情でシルヴィの細い首筋を見つめた。
「真祖の血……。もし一口でも舐めることができれば、私の吸血鬼としての力は飛躍的に跳ね上がり、永遠の美しさを手に入れられるかもしれないわ……ああ、我慢できない……」
ルルが衝動を抑えきれず、そっとシルヴィの首元へと手を伸ばそうとした。
「やめろ、馬鹿者が」
ノクティスが冷たくルルの手首を掴み、制止した。
「真祖の血を啜ろうなどと、分をわきまえろ。貴様程度の吸血鬼が真祖に牙を立てれば、逆流する圧倒的な魔力に耐えきれず、身体が内側から破裂するぞ。我々の任務は、この少女を『生け捕り』にし、魔王様の御前に引きずり出すことだ」
ノクティスはルルを突き放し、懐から一振りの短剣を取り出した。
漆黒の刃を持つその武器は『静寂の短剣』。対象の動きを封じ、悲鳴や声はおろか、筋肉の痙攣音すらも完全に吸収する魔導具である。
これでシルヴィの首筋を軽く突き、麻痺毒を流し込んで意識を刈り取り、影の中に引きずり込んで魔界へと連れ去る。それがノクティスの完璧な暗殺・誘拐プランであった。
「……目覚めの時間だ、真祖の姫君。我々と一緒に魔界へ来てもらおうか」
ノクティスは短剣を逆手に構え、シルヴィのベッドへと身を乗り出した。
音も、殺気すらも完全にゼロに抑え込んだ、まさに芸術的な暗殺のフォーム。外にいる五人の化け物たちですら、このノクティスの究極の一撃を止めることは不可能だっただろう。
しかし。
彼らは知らなかった。
シルヴィの真の恐ろしさは、魔法や武力ではなく、「存在そのものが放つ理不尽な強制力」にあるということを。
「んぅ……」
ノクティスの刃が、シルヴィの首元まであと数センチに迫った、その時。
シルヴィが、再び小さく寝返りを打った。
そして、無防備に放り出された彼女の小さな足が、ベッドの縁からポロッとこぼれ落ちた。
「……え?」
ノクティスが短剣を構えたまま、ポカンと目を丸くする。
シルヴィの身体は、足が落ちた勢いに引っ張られ、そのままスルスルとベッドの端へと滑っていった。
そして。
「きゃっ」
ゴスッ。
という、とても小さな、くぐもった音。
ふかふかの絨毯が敷かれているとはいえ、シルヴィはベッドから無防備な状態で床へと転がり落ちてしまったのだ。
「あいたっ……」
シルヴィは目をこすりながら身を起こし、涙目になりながら自分の膝をさすった。
「うぅ……ベッドから落ちちゃった……。膝、ぶつけちゃったよぉ……」
静寂の夜の部屋に、ただの少女の、本当に些細な泣き言が響いた。
暗殺の標的が、自分で勝手にベッドから落ちて膝をぶつけて泣いている。
凄腕の暗殺者であるノクティスと、魔王軍幹部のルルにとって、それはあまりにも予想外で、間の抜けた光景であった。
「…………は?」
ノクティスは短剣を空中でピタリと止めたまま、床で涙目になっているシルヴィを見下ろした。
ルルもまた、ぽかんと口を開けてその状況を理解できずにいる。
だが。
この『シルヴィがベッドから落ちて泣きそうになる』という光景こそが。
彼ら二人の運命を、そして魔王軍の未来を決定的に破壊する、最凶の引き金であった。
『通知:対象【魔族・ノクティス】【吸血鬼・ルル】に対し、パッシブスキル【真祖の威光】および【絶対的庇護欲】が、至近距離にて最大出力で激突発動しました』
『通知:対象の精神世界に、対象の理性を粉砕するレベルの「庇護欲」「母性」「父性」を強制インストールします』
「————ぁ、」
「————え?」
ノクティスとルルの時間が、完全に停止した。
二人の脳内で、これまで数百年かけて培ってきた『魔王への絶対的な忠誠心』『暗殺者としての冷徹な任務遂行能力』『人間族への底知れぬ憎悪』といったものが。
まるで、巨大なすり鉢で粉々に砕かれ、燃やされ、宇宙の果てに放り投げられるように、音を立てて完全崩壊していくのを感じた。
そして。
その破壊された精神の跡地に、爆発的な勢いで芽生え、増殖し、全身の細胞を支配し始めたもの。
それは、限界を突破した『愛おしさ』と『この宇宙で最も尊く、愛らしい存在を、自分の命を懸けて守り抜かなければならない』という、狂気じみた庇護欲であった。
カランッ。
ノクティスの手から、魔界最強の武器である『静寂の短剣』が、まるでゴミ屑のように床に滑り落ちた。
(な……な、なんてことだ……!)
ノクティスの青白い顔が、一瞬にして林檎のように真っ赤に染まり、その端正な顔立ちが驚愕と絶望に歪んでいく。
(私が……この私が、あのように無防備で、儚く、愛らしい姫君の御前に立ちながら!! ベッドから落ちるのを未然に防ぐことすらできなかっただと……!? あまつさえ、姫様のあの白魚のような美しい膝に、痛みを……っ!!)
「あぁぁぁっ!! なにをしているのよ私!! この役立たず!!」
隣にいたルルが、突如として自らの美しい黒髪を両手で掻きむしり、絶叫に近い悲鳴(※声は出していないが表情が限界突破している)を上げた。
(姫様がお怪我をされた! 私の、私と同族の至高の真祖様が、あんな硬い床に膝を打ち付けて涙を流しておられる!! 私はなんて愚かなの! 拉致だの血を吸うだの、そんな邪悪で不敬なことを考えていた自分の脳髄を、今すぐ引きずり出して握り潰してやりたい!!)
二人の脳内フィルターは、わずか一秒の間に。
「シルヴィ=拉致すべき魔王軍の標的」
から。
「シルヴィ=私が生涯をかけてお仕えし、すべての痛みを代わって受けるべき、宇宙でただ一つの絶対的な姫君」
へと、完全に書き換えられてしまったのである。
もはや、彼らの頭の中に魔王軍のことなど一ミリも残っていない。
「……あ、あのー?」
シルヴィが涙目で床に座り込んだまま、目の前に立ち尽くしてワナワナと震えている、見知らぬ燕尾服の男とメイド服の美女を見上げて、不思議そうに首を傾げた。
「誰……ですか? このお部屋の人?」
その、少し上目遣いで、小動物のように純真な瞳に見つめられた瞬間。
ノクティスとルルの狂信回路に、致命的なトドメが刺された。
「おおおぉぉ……!!」
ドンッ!!
ノクティスが、暗殺者のプライドも魔王軍幹部の威厳もすべて投げ捨て、床に両膝を激しく打ち付けてひれ伏した。
「申し訳ございません、姫様!!」
ノクティスが、シルヴィの足元に恭しく、そして狂おしいほどの忠誠を込めて頭を下げる。
「私はノクティスと申す者! これまで愚かな暗闇の中で、血塗られた無意味な人生を生きてまいりましたが……今、姫様のその尊きお姿と涙を拝見し、真の光を見出しました! 今日よりこの命、姫様の影となり、あらゆる障害と『ベッドからの落下』を未然に防ぐ専属の『執事』として、どうかお使いくださいませ!!」
「私はルル! 姫様と同じ吸血鬼の端くれですわ!!」
ルルもまた、メイド服のスカートを翻してシルヴィの真横にスライディング土下座を決め、ボロボロと大粒の涙を流している。
「ああっ、姫様のお膝が微かに赤くなっている! 今すぐ、今すぐ私の最高の治癒魔法で……いえ、それでは足りません! 私の命の半分を削ってでも、姫様の痛みを消し去ってご覧に入れますわ!! だから、どうか私を専属の『メイド』としてお傍に置いてくださいませ!!」
「えっ? ええっ!?」
シルヴィは完全にパニックになっていた。
真夜中に突然現れた見知らぬ美男美女が、いきなり自分を「姫」と呼び、執事とメイドにしてくれと号泣しながら土下座しているのだ。
寝起きの頭では、状況が全く処理しきれない。
「ど、どういうこと!? 執事? メイド? 私、そんなの雇うお金ないよ!?」
「お金など不要です!! むしろ冒涜です!!」
ノクティスが血走った目で、顔を上げて即答する。
「姫様の御傍で呼吸をさせていただき、姫様にお茶を淹れさせていただくこと。それ自体が、私にとって何物にも代えがたい究極の報酬! むしろ、私がこれまで魔界の暗殺稼業で稼いできた全財産を、今すぐ姫様に捧げますゆえ!!」
「魔界!? え、魔族の人なの!?」
シルヴィがビクッと肩を震わせる。魔族といえば、人間族の敵である恐ろしい存在だという知識は、冒険者ギルドで聞いて知っていた。
「ご安心を! 魔王軍など、今日この瞬間、一秒前に脱退いたしましたわ!」
ルルが鼻息荒く宣言する。
「姫様のような純真で美しい方を、あんなむさ苦しい魔王の元へ連れて行こうだなんて、あのようなブラック組織、今すぐ私が火を放って壊滅させてやりたい気分ですわ! さあ姫様、まずはそのお怪我(※ただの打ち身)の治療を!」
ルルがシルヴィの膝に触れようとした、まさにその瞬間だった。
バァァァァァァァァァンッ!!!!
ロイヤルスイートルームの、分厚い純金製の扉が、木端微塵に吹き飛んだ。
「何奴だァァァァァッ!! 姫様の御寝所に無断で立ち入る薄汚い害虫どもはァァァッ!!」
黄金の闘気を噴出させながら、獣人ロアンが大剣『滅山』を構えて部屋に飛び込んできた。
「空間の歪みを感知しましたわ! どこから入り込んだか知りませんが、姫様を驚かせた罪、灰すら残さず消去しますわよ!!」
エランが杖を構え、背後には無数の古代魔法陣が展開されている。
外で警備していた過保護すぎる猛者たちが、室内の異常(シルヴィがベッドから落ちた音と、「誰ですか?」と声を出したこと)に気づき、光の速さで扉を破壊して突入してきたのである。
彼らの視線の先には、シルヴィの足元でひざまずき、シルヴィの膝をさすろうとしている、見知らぬ魔族と吸血鬼の姿があった。
かくして。
深夜のロイヤルスイートルームに、世界最高峰の戦力たちが一堂に会し。
「誰が一番シルヴィを甘やかすか(姫プするか)」という、宇宙の存亡を懸けた最悪の内輪揉めが、今まさに勃発しようとしていた。




