第21話:魔王軍の暗躍と真祖の噂
聖都アイギスを襲った十万の魔物の大暴走が、一夜にして完全消滅するという歴史的事件から数日が経過した。
城塞都市グランヴェールから始まり、今や人間族の最大宗教の総本山たる聖都までもを呑み込んだ『光の聖女・シルヴィ』の救世主伝説は、瞬く間に大陸全土へと伝播していった。
「絶体絶命の危機に、天から金髪の聖女様が舞い降りた!」
「彼女が祈りを捧げると、神々しい光の柱が天を貫き、魔物の大群は一瞬で塵と化したそうだ!」
「あの三十メートルを超える災厄のベヒーモスすら、聖女様の威光に恐れをなして服従を誓い、今は教団の地下で大人しくお座りをしているらしいぞ!」
吟遊詩人たちは競って新しい英雄譚を歌い上げ、街の広場ではシルヴィの(想像上の)美しくも神々しい姿を描いた絵画が飛ぶように売れている。
人間族の領域は、未曾有の災厄を乗り越えた歓喜と、新たなる希望の象徴の誕生に沸き返っていた。
だが、光が強ければ強いほど、そこに落ちる影もまた濃くなるのがこの世界の理である。
大陸の遥か北。
太陽の光が届かず、常に淀んだ紫色の雲が空を覆い尽くす不毛の大地——魔族の領域『魔界』。
その最深部にそびえ立つ、禍々しい漆黒の巨大な城、魔王城。
城の中心にある、骨と黒曜石で組み上げられた壮大な玉座の間には、現在、凍りつくような重苦しい沈黙と、底知れぬ怒りのオーラが充満していた。
「……どういうことだ、これは」
玉座に深く腰掛けた、巨躯の魔王が低く唸るように口を開いた。
その声だけで、玉座の間に並ぶ高位の魔族や魔将たちは「ヒッ」と喉の奥で悲鳴を上げ、床に這いつくばって震え上がった。
「五万……いや、最終的に十万近くに膨れ上がったはずのスタンピードが、人間の聖都の城壁に触れることすらなく全滅しただと? しかも、たった五人の人間と、たった一人の『聖女』とやらの手によってだと!?」
ダンッ!!
魔王が苛立ちに任せて肘掛けを殴りつけると、魔王城全体が地震のように大きく揺れた。
今回のスタンピードは、魔王軍が直接手を下したものではない。だが、魔物たちが暴走し、人間族の最大拠点を壊滅させることは、魔王軍にとって人間界侵攻の最大の足がかりとなるはずだった。それが、いともたやすく、しかも「たった六人」の存在によって物理的にもみ消されたという報告は、魔王のプライドを酷く傷つけるものであった。
「は、ははっ! 申し訳ございません、魔王様!」
情報部を統括する魔将が、冷や汗を滝のように流しながら報告を続ける。
「生き残りの魔獣の記憶を探ったところ、人間どもの陣営には、山を両断する大剣使い、広域殲滅魔法を操るエルフ、純白のオーラを放つ狂戦士のような聖騎士などがいたとのこと……! そして何より、聖都のバルコニーから放たれた『光』が、魔物たちの戦意を完全に喪失させたと……!」
「ええい、忌々しい! 人間の宗教どもめ、また都合よく『希望の象徴』をでっち上げよって!」
魔王がギリッと鋭い牙を鳴らす。
「その光の聖女とやらを、早急に排除せねばならん。放置すれば、人間どもの士気はうなぎ登りとなり、我が魔王軍の侵攻の最大の障害となるだろう」
魔王が討伐の命を下そうとした、まさにその時だった。
「——お待ちください、魔王様。その『聖女』に関する情報、我らの耳に入ったものとは少々、いえ、決定的に食い違っているようです」
玉座の間の暗がり。
松明の火すら届かない濃密な影の中から、音もなく『一つの声』が滑り出た。
空間そのものが歪んだかと思うと、そこに一人の男が立っていた。
漆黒の燕尾服に身を包み、長身で痩躯。青白い肌に、血のように赤い瞳。整った顔立ちには、感情の読めない冷酷な笑みが貼り付いている。
魔王軍の強硬派幹部にして、魔界最強の暗殺者——魔族のノクティスである。
「ノクティスか。食い違っているとは、どういう意味だ?」
「お言葉ですが、情報部の報告は表層的な噂を拾ったに過ぎません」
ノクティスは恭しく、だが全く敬意を感じさせない優雅な一礼をして言葉を続けた。
「私が独自に聖都へ放っている『影の密偵』たちからの報告によれば……あのバルコニーに立っていた少女から放たれていたのは、神聖な光などではありません。極限まで濃密で、圧倒的な『闇』。我ら夜の眷属が頂点に戴くべき存在の気配であったと」
「……闇だと? 人間どもは『光の聖女』と呼んで崇めているのだぞ?」
「フフッ、だから人間どもは愚かなのですわ」
ノクティスの言葉に被せるように、今度は天井の梁から一匹の小さなコウモリが舞い降りてきた。
コウモリは空中で紫色の霧に包まれたかと思うと、次の瞬間には妖艶な美女の姿へと変貌して床に降り立った。
黒と白のフリルがあしらわれた、メイド服を模した扇情的なドレス。背中には小さなコウモリの翼を折りたたみ、豊満な胸元を揺らしながら、彼女は魅惑的な声で囁いた。
「我が同胞の気配、それも最上位の『真祖』の匂い。遠く離れたこの魔界にまで、微かに甘美な香りが届いておりますもの」
吸血鬼至上主義の狂信者にして、同じく魔王軍幹部のルルである。
「吸血鬼の、真祖だと……!?」
魔王の目が驚愕に見開かれ、周囲の魔将たちも「馬鹿な」「神話の時代の存在だぞ」とざわめき始めた。
「間違いありませんわ、魔王様」
ルルが恍惚とした表情で、自らの赤い唇を長い舌でペロリと舐め上げた。
「夜魔の真祖。私たち吸血鬼の頂点にして、魔に属するすべての者がひれ伏すべき絶対的な血族。それが何らかの理由で現代に復活し、あろうことか人間の聖都のど真ん中に陣取っているのです。……ああ、想像しただけで私の牙が疼きますわ。真祖の血……いったい、どれほど芳醇で狂おしい味がするのかしら」
「おいルル、少し落ち着け。お前の個人的な食欲(狂信)を満たすための話ではない」
ノクティスが冷ややかな視線でルルをたしなめ、再び魔王へと向き直る。
「魔王様。人間どもは、真祖から放たれる圧倒的な『威光』と強大な気配を、自らの都合の良いように『神の奇跡』だと勘違いしてひれ伏しているのでしょう。滑稽の極みですが、これは我々魔王軍にとって千載一遇の好機です」
ノクティスの赤い瞳が、野心にギラリと光った。
「もし、その真祖の少女を我らが手中に収め、魔王軍の旗印として利用することができれば。……真祖の強大な力と、人間どもが『聖女』と崇めるその影響力を逆手に取り、聖都アイギスを内部から容易く崩壊させることが可能です。いや、人間族そのものを絶望の底に突き落とすことも夢ではありません」
真祖を傀儡とし、人間界を完全支配する。
ノクティスの提案に、魔王は喉の奥で低く笑い声を漏らした。
「ククク……なるほど。光の聖女だと思って崇拝していた存在が、実は最強の魔物であったと知った時、人間どもがどのような絶望の顔を浮かべるか……見物だな。よかろう」
魔王は玉座から立ち上がり、マントを翻して二人の幹部を見下ろした。
「ノクティス、ルルよ。貴様ら二人に特命を与える。ただちに聖都アイギスに潜入し、その『真祖の少女』を拉致せよ。あの五人の化け物じみた護衛がいるというなら、影からこっそりと奪い去ればよい」
「「御意」」
ノクティスとルルが、同時に深く頭を下げる。
「もし抵抗するようならば、手足をもいででも連れ帰れ。殺さなければ、多少傷がついても構わん。我ら魔族の悲願、人間界の完全支配のために!」
「お任せを。私の『影の刃』の前に、いかなる城壁も防衛結界も存在しないのと同じ。夜が明ける前には、その少女を魔王様の御前に引きずり出してみせましょう」
ノクティスが自信に満ちた冷酷な笑みを浮かべる。
「ああ……真祖様。どんな恐ろしくて残酷な御方なのかしら。少しだけ、本当に少しだけ味見をしてからお連れしても構いませんわよね?」
ルルもまた、吸血鬼としての本能を滾らせ、うっとりと頬を染めている。
「無駄口を叩くな、ルル。行くぞ。ターゲットは聖王迎賓館の最上階だ」
「ええ、分かっているわ。人間どもに、本当の夜の恐怖を教えてあげましょう」
ノクティスの足元の影が大きく広がり、ルルの身体が再び紫色の霧へと変化する。
二人の魔王軍最高戦力は、魔界の玉座の間から音もなく消失し、人間族の聖都アイギスへと向けて暗殺と誘拐の任務を開始した。
彼らは自らの隠密技術と、魔族・吸血鬼としての戦闘能力に絶対の自信を持っていた。
どれほど過剰な防衛網が敷かれていようとも、自分たちならば容易くすり抜け、標的の首元に冷たい刃を突き立てることができると、微塵も疑っていなかった。
だが。
彼らは知る由もなかった。
彼らが拉致しようとしている「恐るべき真祖」が、ステータスオール1の、スライムにも勝てないただの気弱な少女であるということを。
そして何より。
その少女の持つパッシブスキル『真祖の威光』と『絶対的庇護欲』が、魔界で鍛え上げられた彼らの冷酷な暗殺者の精神や、魔王への絶対的な忠誠心などというものを、いともたやすく粉砕し、跡形もなく消し去ってしまうチート能力であるということを。
聖都アイギス、聖王迎賓館。
ロアン、エラン、セリア、マイラ、ダリウスという、世界を滅ぼせるレベルの五人の猛者が「半径一キロ以内の羽虫すら消し炭にする」という異常な警戒態勢を敷く絶対聖域。
その中心で、満腹になって幸せそうにスヤスヤと眠るシルヴィのベッドの下へ向けて。
冷酷無比な暗殺者と狂信的な吸血鬼が、自ら進んで『史上最大のギャグ展開(限界突破の姫プ堕ち)』の罠へと足を踏み入れようとしていた。
魔王軍の野望が、シルヴィの「ベッドからの寝落ち」という些細な物理法則によって粉砕されるまで、あとわずか数時間の命であった。




