第19話:祈りの姫君と威光の輝き
聖都アイギスの北側に広がる『嘆きの荒野』は、文字通りこの世の地獄と化していた。
ただし、それは人間側にとっての地獄ではない。聖都を滅ぼすために進軍してきたはずの、十万を超える魔物の大群にとっての『絶対的な絶望と蹂躙の地獄』であった。
「オラァッ!! 遅い遅い遅ォォォイッ!! 貴様らのような鈍亀どもが、我らが姫様の安眠を妨げようなどと一万年早いわァァァッ!!」
ズバァァァァァァァァァァンッ!!!!
獣人戦士ロアンが、愛用の大剣『滅山』を横薙ぎに一閃する。それだけで、最前列にいた数百匹のオークとオーガの群れが、悲鳴を上げる間もなく上半身と下半身に分かたれ、血の霧となって空中に吹き飛んだ。
だが、ロアンはただ剣を振り回しているわけではなかった。彼は剣圧によって生じる真空の刃を緻密にコントロールし、魔物が死ぬ瞬間の『悲鳴』と『血の臭い』が風に乗って聖都へ届かないよう、徹底的な防音・防臭の結界を物理的に構築していたのである。
「姫様のお耳に、貴様らの汚らしい断末魔を届かせるわけにはいかんのだ! 死ぬ時は無音で死ね、害虫ども!!」
「ロアン、少し雑ですわよ。血の一滴すら残すなと申し上げたはずです」
上空から、エルフの魔術師エランが冷酷な声で言い放つ。
彼女の杖の先からは、何千、何万という極小の光弾が雨あられのように降り注いでいた。
「【古代精霊・星屑の殲滅雨】」
パパパパパパパンッ!!
光弾に触れた魔物たちは、爆発するのではなく、一瞬にしてチリチリと音を立てて原子レベルで消滅し、灰となっていく。エランは、聖都の景観が汚れることを極端に嫌い、魔物の死骸をすべて綺麗に燃やし尽くすという、気が狂うほど緻密な広域魔法を展開していた。
さらに、地上では別の狂気が爆発している。
「聖女様を泣かせた罪ィィ!! 貴様らの薄汚い魂ごと浄化してくれるわァァァッ!!」
純白のオーラを纏った特級聖騎士セリアが、まさに光の矢となって魔物の密集地帯を駆け抜けていく。「【聖絶十文字斬り(ホーリー・クロス・ディバイド)】!!」彼女が通り過ぎた後には、巨大な十字架の形に空間が切り裂かれ、数千のアンデッドが浄化の光に飲み込まれて消滅した。普段の冷静沈着な異端審問官の姿はどこにもない。「聖女様の笑顔を取り戻す」という至上命題に取り憑かれた、完全なバーサーカー状態であった。
「ヒャッハァァァァァッ!! アタシの徹夜の最高傑作を、重いって言わせた鬱憤を晴らさせてもらうぜェェッ!!」
ドゴォォォォォォォンッ!!
天才鍛冶師マイラが、巨大なオリハルコン製のハンマーを地面に叩きつける。その衝撃で大地がめくれ上がり、巨大な土砂の津波となって魔物を飲み込んでいく。ハンマーに刻まれた爆発のルーンが、一撃ごとに小型隕石が落下したような破壊力を生み出していた。
そして、空を覆うワイバーンの群れに対しては、最強の竜騎士ダリウスが単騎で蹂躙していた。
「我が主の頭上を、貴様らのような下等竜が飛ぶなァァァッ!!」
ダリウスは自身の竜鱗を硬化させ、空を飛ぶワイバーンに文字通り体当たりをぶちかましていた。ドゴォッ! バキィッ! と、空中で巨大なワイバーンたちが次々とダリウスの素手によって羽を引きちぎられ、首をねじ切られ、雨のように地上へと墜落していく。
たった五人。
たった五人の規格外の猛者たちが、十万の魔物の大群を、聖都の城壁に指一本触れさせることなく、完全な『虐殺』を繰り広げていたのである。
しかし、その圧倒的な蹂躙劇の最中。
激減していく魔物の群れの最後尾から、大地を揺るがすような、これまでとは次元の違う圧倒的な咆哮が轟いた。
「グガァァァァァァァァァァァァッ!!!!」
ズシンッ、ズシンッ!! と荒野を震わせながら、巨大な影が姿を現す。
それこそが、今回のスタンピードの元凶であり、この魔物の大群を後ろから統率していた超巨大ボス『災厄のベヒーモス』であった。
体長は三十メートルを超え、全身が黒曜石のような硬質な鱗に覆われ、四本の巨大な角と、山を砕くほどの太い尾を持っている。その口から吐き出される瘴気だけで、周囲の草木が瞬時に枯れ果てるほどの、まさに生きた災害。
「チッ、大将のお出ましか。だが、デカいだけの的だ。俺が真っ向から首を切り落としてやる」
ロアンが鼻で笑い、滅山を構え直した。
だが、災厄のベヒーモスは、知能は低いながらも生物としての生存本能だけはズバ抜けていた。
ベヒーモスは、荒野で暴れ回っている五人の『小さな人間たち』から放たれる、規格外の殺気と魔力を感じ取り、本能で理解したのだ。
(あいつらと戦えば、絶対に殺される)と。
「グォォォォォォォォォォォォッッ!!!!」
ベヒーモスは、ロアンたち五人を完全に無視するルートを選んだ。
彼らの包囲網のわずかな隙間を縫うようにして、凄まじい突進力で荒野を駆け抜け、真っ直ぐに聖都の城壁——それも、ひときわ高くそびえ立つ『聖王迎賓館』の方向へと向かって突撃を開始したのである。
「なっ……!? 貴様、どこへ行く気だ!! 姫様の御前だぞ!!」
ロアンが慌ててベヒーモスの足を斬りつけようと跳躍するが、三十メートルの巨体が放つ突進のスピードと質量は尋常ではなく、数秒の遅れが生じてしまった。
ズドォォォォォォォォォォンッ!!!!!
ベヒーモスの巨大な角が、聖都の純白の城壁に激突した。
幾重にも神聖魔法で強化されていたはずの分厚い城壁が、まるで薄いガラスか飴細工のようにあっさりと崩れ落ち、瓦礫の雨となって降り注ぐ。
「ひぃぃぃぃっ!! 城壁が破られた!!」
「逃げろォォォ!! ベヒーモスだ!! 災厄の化け物が街に入ってきたぞ!!」
城壁の上で防衛にあたっていた教皇や騎士たちは、パニックに陥り、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑った。
どれだけ五人の英雄が荒野で無双していようとも、一匹でもこの超巨大魔獣が街に入り込めば、聖都は一晩で瓦礫の山と化してしまう。それほどの絶望的な質量兵器が、今、聖都の防衛線を突破したのである。
そして。
城壁を突き破ったベヒーモスの巨大な頭部は、その勢いのまま、真っ直ぐに『聖王迎賓館』の最上階の高さへと迫り上がってきた。
同じ頃。
迎賓館の最上階、ロイヤルスイートルームのバルコニーでは、一人の少女が恐怖で身をすくませていた。
マイラが徹夜で作り上げた『オリハルコンとミスリルの絶対防御ドレス』を身に纏ったシルヴィである。
彼女は、ロアンたちが窓から飛び出していった後、外から聞こえてくる轟音と地響きが気になり、重いドレスを引きずりながら、なんとかバルコニーまでは這い出てきていたのだ。
「みんなどうなっちゃったんだろう……魔物が十万匹なんて、絶対に無理だよ……」
シルヴィが涙目でバルコニーの手すりに掴まり、外の様子を覗き込もうとした、まさにその瞬間だった。
ズズズズズズズ……ッ!!
目の前の城壁が吹き飛び、空を覆い隠すほどの巨大な黒い影が、地鳴りと共にせり上がってきた。
「えっ……?」
シルヴィの視界が、真っ黒な『何か』で埋め尽くされた。
いや、それは『何か』ではない。三十メートル級の魔獣、災厄のベヒーモスの巨大な顔面であった。
ベヒーモスの血走った巨大な眼球。家を一棟丸呑みにできそうなほど巨大な顎。そこから覗く、剣のように鋭く巨大な牙。そして、鼻孔から吐き出される、硫黄と血の混じったような強烈な瘴気と悪臭。
迎賓館のバルコニーと、ベヒーモスの顔面の距離は、わずか数メートル。
ステータス【体力:1】のシルヴィにとって、それは文字通り『死の直面』であった。ベヒーモスが軽く息を吹きかけるだけで、シルヴィは吹き飛ばされ、ミンチになる(ドレスの防御力があるため実際には無傷だが、本人はそう思い込んでいる)距離である。
「…………ぁ、」
シルヴィの時間が、完全に停止した。
ベヒーモスの巨大な瞳と、シルヴィの赤い瞳が、至近距離でバッチリと交差する。
「ヒッ……!! いや……いやぁぁぁぁぁぁっ!!」
シルヴィは完全に腰を抜かし、その場にへたり込んでしまった。
声も出ない。逃げることもできない。そもそも総重量二十キロのドレスを着ているため、自力で立ち上がって走ることすら不可能である。
彼女の脳細胞は恐怖で完全にフリーズし、ただただパニックに陥っていた。
(こわい! こわいこわいこわい!! 食べられちゃう!! 誰か助けて!! ロアン! エランさん!!)
悲鳴すら喉に張り付いて音にならない。
シルヴィは、恐怖のあまり両手を胸の前でギュッと強く握りしめ、ガクガクと小刻みに震えながら、ギュッと固く目を瞑った。
そして、そのままの姿勢で、ひたすらに『この恐ろしい時間が過ぎ去ってくれること』だけを祈り、固まってしまったのである。
ただの、気弱な一般人の少女が、巨大な化け物を前にして恐怖で身をすくませているだけの光景。
しかし。
この『シルヴィの震える姿』こそが、ベヒーモスにとって、そして下から見上げている聖都の群衆にとっての、決定的な【究極の勘違い】を引き起こす引き金となるのである。
『通知:対象【災厄のベヒーモス】及び【聖都の群衆】に対し、パッシブスキル【真祖の威光】と【絶対的庇護欲】が、極大出力で一斉発動しました』
『通知:装備【ミスリルのフリル】の魔力増幅効果により、対象スキルの効果範囲と視覚的エフェクトが光学的に具現化されます』
「……え?」
ギュッと目を瞑っていたシルヴィの閉じた瞼の裏に、不意に強烈な光が差し込んできた。
カァァァァァァァァァァァァァッ……!!!!
バルコニーにへたり込み、両手を握りしめているシルヴィの身体から、突如として、まるで第二の太陽が出現したかのような、圧倒的で神々しい純白の光の柱が天に向かって立ち昇ったのである。
純度100パーセントのミスリルで編まれたドレスのフリルが、シルヴィの純粋な恐怖の心(精神波)と、パッシブスキルの強制力を限界まで増幅させ、それを目に見える『神聖な光のオーラ』として大気中に放出したのだ。
その光は、迎賓館のバルコニーを包み込み、聖都全体を昼間のように明るく照らし出した。
それは、下から見上げる聖都の住民たちや教皇、騎士たちの目には、どのように映ったか。
巨大な災厄の魔獣が城壁を破り、まさに街を蹂躙しようとしている絶体絶命の危機。
その魔獣の目の前、迎賓館のバルコニーに、逃げも隠れもせず、ただ一人毅然と(実際は腰を抜かしているだけだが)立ち塞がる美しい少女の姿。
彼女は、自らの命を顧みることなく、恐ろしい魔獣の眼前に身をさらし、両手を胸の前で固く組み、目を閉じて、この街と人々のために『命を懸けた祈り』を捧げている……!!
「おおお……! 見よ! 見よ、皆の者!!」
教皇が、崩れた城壁の破片の山の中で、涙を流しながら両膝をついた。
「聖女様が……我らが聖女様が、ご自身の命を盾にして、あの恐ろしい災厄の前に立ちはだかってくださっている!! 我ら逃げ惑う愚かな民草のために、その身から奇跡の光を放ち、神に祈りを捧げておられるのだ!!」
「ああっ……! なんという気高さ! なんという慈悲深さ!」
「聖女様が、街を守るために命を削っておられるぞ!!」
「我々は何を恐れていたのだ! 聖女様があのように祈ってくださっているのに!!」
城壁の下にいた数千の騎士たち、そして街中からその光を見上げた数万の住民たちが、次々と武器を置き、あるいはその場にひれ伏して、バルコニーのシルヴィに向かって祈りを捧げ始めた。
彼らの目には、恐怖で震えているシルヴィの姿が、『自らの命を犠牲にして神の奇跡を呼び起こし、魔獣を鎮めようとする究極の自己犠牲と聖なる儀式』にしか見えていなかったのである。
完全な、そして取り返しのつかない壮大な勘違いが、聖都アイギス全体を熱狂と感動の渦で包み込んでいく。
一方。
ゼロ距離でシルヴィの『神々しい光』と『パッシブスキルの強制力』をモロに浴びた、当の災厄のベヒーモスは、どうなったか。
「グォ……?」
ベヒーモスは、大きく振り上げていた巨大な前足を、ピタリと空中で停止させた。
その血走っていた巨大な眼球から、凶暴な殺意と破壊の衝動が、まるで潮が引くようにスゥーッと消え去っていく。
(な、なんだ……? この、小さくて、温かくて、眩しい光は……?)
知能の低いベヒーモスの脳内で、未知の感情が爆発していた。
(この小さな生き物は、俺のような恐ろしい化け物を前にしても、逃げずに祈っている……。なんて儚く、尊い存在なんだ。もし俺がこの前足を振り下ろせば、この美しい光は消えてしまう……。そんなこと、絶対に、絶対にやってはいけない……!!)
『絶対的庇護欲』が、災厄の魔獣の闘争本能すらも完全に書き換えてしまったのである。
ベヒーモスは、バルコニーのシルヴィを傷つけまいと、必死に空中の前足を引っ込めようとした。
しかし、三十メートルの巨体が持つ慣性の法則は、そう簡単に止まれるものではない。
「グ、グググォォォォッ……!!」
ベヒーモスは、自らの突進の勢いを殺すため、無理やり後脚を踏ん張り、全身の筋肉を軋ませながら急ブレーキをかけた。
ズザザザザザァァァッ!! と、凄まじい摩擦音を立てながら、ベヒーモスの巨体が城壁の瓦礫の上を滑っていく。
そして。
シルヴィのいるバルコニーの、本当にわずか数センチ手前。
ベヒーモスは、自らの首の骨が折れんばかりの力で首を横に逸らし、突進の威力を空へと逃がした。
そのままバランスを崩した三十メートルの巨体は、ドスゥゥゥゥンッ!! という大地震のような地響きを立てて、迎賓館の前の広場に仰向けにひっくり返ったのである。
「えっ……?」
恐る恐る目を開けたシルヴィの視界には、先ほどまで目の前に迫っていた巨大な顔はなく、代わりに、広場のど真ん中で「ポイッ」とお腹を空に向けて仰向けに倒れている、ベヒーモスの無様な姿があった。
「クゥ〜ン……」
ベヒーモスは、まるで飼い主に叱られて降参のポーズをとる子犬のように、三十メートルの巨体を小さく丸め、手足をだらんとさせて、シルヴィに向かって哀れっぽい鳴き声を上げた。
それは、魔獣にとっての完全なる『戦意喪失』と『服従(降伏)』の合図であった。
「あ、あれ……? なんか、急に倒れちゃった……?」
シルヴィはポカンと口を開け、バルコニーから広場を見下ろした。
その光景を、城壁の上から、そして荒野の最前線から駆け戻ってきたロアンたち五人の猛者が、目撃していたのである。
「おおおぉぉぉぉぉぉぉっ!!!」
最初に絶叫を上げたのは、教皇だった。
「見よ! 奇跡だ!! 聖女様の祈りの光が、あの災厄のベヒーモスの邪悪な魂を浄化し、完全に戦意を喪失させたのだ!! 指一本触れることなく、あの化け物を降伏させるとは!!」
「「「うおおおおぉぉぉぉっ!! 聖女様万歳!! 聖女様万歳!!」」」
聖都の数万の群衆から、地響きのような大歓声と万歳三唱が巻き起こる。
「さすがは我らが姫様!! あの馬鹿デカい図体の化け物すらも、姫様の威光の前にひれ伏すしかないというわけか!!」
駆けつけたロアンが、大剣を天に掲げて号泣している。
「ああ……姫様。貴女様はやはり、この世界の神そのもの。私たちのような者がお傍に仕えることすらおこがましい、究極の存在ですわ……!」
エランも杖を抱きしめ、うっとりとシルヴィの光を見上げている。
「えっと……なに? どういう状況!?」
シルヴィはバルコニーから身を乗り出し、下で仰向けに転がっているベヒーモスと、万歳三唱を繰り返している何万という群衆を交互に見比べた。
自分がただ恐怖で目を閉じて固まっていただけだというのに、なぜか街を救った大救世主として崇め奉られている。
「わ、私、何もしてないんだけど……」
シルヴィの虚しい呟きは、数万人の熱狂の渦にかき消されて、誰の耳にも届くことはなかった。
こうして、吸血鬼の姫であるシルヴィは、人間の最大宗教のトップである教皇から公式に「世界を救う真の救世主」として認定され、その伝説はルクスヴェル大陸の全土へと轟き渡ることになるのである。
「(……まあ、街の人たちが無事だったし、誰も怪我してないみたいだから……いっか!)」
ステータスオール1のまま、究極の勘違いと圧倒的な『姫プ』の力だけでスタンピードを解決してしまったシルヴィは、バルコニーから群衆に向かって、とりあえず愛想笑いで手を振るのだった。




