第17話:災厄の足音・スタンピード発生
聖都アイギスの中心にそびえ立つ、教皇専用の『聖王迎賓館』。
その最上階に位置するロイヤルスイートルームは、現在、世界で最も安全かつ、最も過剰な防衛網が敷かれた絶対聖域と化していた。
「よいしょ、っと。ダリウスさん、下ろしてくれてありがとう」
「ははっ! 姫様の玉座となれたこと、このダリウスの生涯で最高の栄誉にございます!」
巨大な竜騎士ダリウスの肩から、獣人戦士ロアンのサポートを受けてそっと床に降り立ったシルヴィは、ふぅと小さく息をついた。
天才魔工鍛冶師マイラが徹夜で仕上げた『フリフリ絶対防御ドレス』は、相変わらず二十キログラムという絶望的な重量を誇っている。しかし、ダリウスという二メートル半を超える強靭な「動く玉座」を手に入れたことで、シルヴィの移動問題は完璧に解決していた。
ダリウスの肩の上は驚くほど安定しており、さらに彼の体温コントロールによって、常に心地よい温もりが保たれている。まさに最高級の乗り心地であった。
「姫様、長旅(※ダリウスの肩に乗っていただけ)でお疲れでしょう。特製のハーブティーと、聖都で一番と名高いパティシエに焼かせたシフォンケーキをご用意いたしましたわ」
エランが優雅な足取りで近づき、大理石のテーブルにティーセットを並べる。
「わぁ、ありがとうエランさん! すっごく美味しそう!」
シルヴィがソファーに腰を下ろそうとすると、その前にスッと純白の布が敷かれた。
「お待ちください聖女様! このソファー、一見すると清潔に見えますが、微細な魔力塵が付着している可能性があります! 私が神聖魔法で完全浄化と除菌を行いましたので、どうぞご安心してお座りください!」
聖騎士のセリアが、目を血走らせながらソファーをピカピカに磨き上げていた。
「あ、うん。ありがとうセリアさん。でも、そんなに神経質にならなくても大丈夫だよ?」
「いけません! 聖女様の玉肌に、バイ菌一つ触れさせるわけにはいかないのです! ああ、なんという尊きお姿! ドレスのフリルがソファーに広がる様は、まさに天界に咲く黒百合のよう……!」
「フン、当然だ。アタシが姫様のプロポーションをミリ単位で計算して仕立てた最高傑作だからな!」
マイラが腕を組み、得意げに鼻を鳴らす。
「姫様、ドレスの着心地はどうだい? もしどこか締め付けがキツかったり、重さで肩が凝ったりしたら、すぐにアタシがマッサージしつつルーンを刻み直すから言ってくれよな!」
「ううん、すごく快適だよ。座ってる分には重さも全然感じないし。マイラさん、本当にありがとう」
シルヴィが微笑みながらシフォンケーキを一口頬張る。
「ん〜っ! ふわふわで甘くて美味しい!」
「おおお……! 姫様がケーキを頬張るお姿、まるで小動物のように愛らしい……!!」
扉の前で直立不動の警備に就いていたロアンが、感動のあまりボロボロと涙を流している。
(なんだか、人数が増えてからさらに騒がしくなった気がするけど……でも、みんなすごく優しくて頼りになるし、いっか!)
ステータスオール1(防御力だけはドレスのおかげで実質カンスト)の最弱吸血姫であるシルヴィにとって、この過保護すぎる空間は、ある意味で究極の安息の地であった。
自分が何もしなくても、極上の食事が運ばれてきて、移動は屈強な竜騎士が担い、世界最強クラスの戦士たちが護衛についてくれる。
「スライムに殺されかけたあの日から考えると、信じられないくらい平和だなぁ……。このまま、毎日美味しいお茶を飲んで、時々安全なお散歩をするだけの、スローライフを送りたいな」
シルヴィは紅茶を飲みながら、窓の外に広がる聖都の美しい街並みを見下ろした。
白い石造りの家々、青い空、行き交う平和そうな人々。
まさに理想的なファンタジー世界の光景だ。
シルヴィの心は、すっかり油断しきっていた。この平和な日常が、永遠に続くと信じて疑わなかったのである。
しかし、運命というものは、常に最も残酷なタイミングで牙を剥く。
ガァァァァァァァァァァンッ!!!
ガァァァァァァァァァァンッ!!!
突如として。
聖都アイギスの中心にそびえる大聖堂から、鼓膜を劈くような、けたたましく、そしてひどく不吉な鐘の音が鳴り響いた。
「えっ!?」
シルヴィは驚いて肩を跳ねさせ、手に持っていたティーカップを落としそうになった。
スッ、と。カップが床に落ちるよりも早く、ロアンが音速で滑り込み、一滴の紅茶もこぼすことなくカップを空中でキャッチした。
「姫様、ご無事ですか!?」
「う、うん。ありがとうロアン。……今の鐘の音、すごく大きかったけど、何かの合図?」
シルヴィが首を傾げると、部屋の空気が完全に凍りついていることに気がついた。
窓の外を睨みつけるセリアの顔から、先ほどまでのデレデレとした表情が完全に消え失せ、冷酷な異端審問官のそれへと切り替わっていた。
「……『災厄の鐘』です」
セリアが、絞り出すような低い声で呟く。
「あれは、聖都が国家存亡の危機に立たされた時にのみ鳴らされる、最上級の警報。数十年間、一度も鳴らされたことのない鐘ですわ」
「国家存亡の危機……!?」
シルヴィの顔からサッと血の気が引いた。
先ほどまで平和だった窓の外の街並みは、一瞬にして阿鼻叫喚のパニック状態に陥っていた。人々は悲鳴を上げて逃げ惑い、武装した騎士たちが血相を変えて大通りを駆け抜けていく。
ドタドタドタッ!!
「セリア様ぁぁっ!! セリア特級聖騎士様ぁぁっ!!」
部屋の扉が乱暴に叩かれ、セリアの副官である聖騎士が、顔面を蒼白にして転がり込んできた。
「やかましいぞ貴様。姫様の御前である。声のトーンを三段階落とさねば、その喉笛を食いちぎるぞ」
ロアンが地を這うような殺気を放つが、副官の騎士はそれに怯える余裕すらないほどパニックに陥っていた。
「も、申し訳ありません!! しかし、一大事なのです!! 緊急事態です!!」
副官は床に這いつくばり、息も絶え絶えに報告を叫んだ。
「北の『嘆きの荒野』より、超大規模な魔物の大暴走が発生いたしました!! その数、およそ五万!! いや、十万かもしれません!! 現在、聖都アイギスに向けて猛烈な速度で進軍中!! あと一時間もせずに、この街の城壁に到達します!!」
「なっ……! スタンピードだと!?」
セリアが驚愕に目を見開いた。
「数十年に一度起きるかどうかの、あの魔物の大暴走が……なぜよりにもよって、聖女様がこの街にご滞在されている今、このタイミングで起きるというのですか!」
スタンピード。
それは、何らかの強大な要因によって、本来は群れないはずの多種多様な魔物たちが理性を失い、一つの巨大な波となって暴走する現象である。
ゴブリン、オーク、オーガ、さらにはワイバーンやキメラといった高ランクの魔物までもが、一切の恐怖を忘れて狂乱状態となり、目につくすべてのものを破壊し尽くす。
過去の歴史において、スタンピードが発生するたびに、地図からいくつもの都市や国が消滅してきた。
五万から十万という数は、人類の防衛線など容易く蹂躙できる、まさに『災厄』そのものであった。
「しかも、群れの先頭や中心には、災害級の超大型魔獣が複数確認されています! 第一防衛線の砦は、すでに紙屑のように吹き飛ばされました!! 聖都の騎士団も総出で防衛に当たりますが、このままでは街の城壁が破られるのは時間の問題です!!」
副官の悲痛な報告を聞き、部屋の中は重苦しい沈黙に包まれた。
外からは、迫り来る数万の魔物の地鳴りが、かすかな地響きとなってすでに伝わってきている。ズズン、ズズンと、テーブルの上のティーカップが微かに揺れた。
「…………っ」
シルヴィは、顔を真っ青にして小刻みに震え始めていた。
五万の魔物。スタンピード。街が破壊される。
彼女のステータスは【レベル:1】【体力:1】である。スライム一匹に怯えて泣きそうになった彼女が、十万の魔物の大軍勢というスケールを前にして、正気を保っていられるはずがなかった。
(どうしよう、どうしよう!! そんなの絶対死んじゃう!! 街が壊されたら、私も潰されちゃう!! 重いドレス着てるから逃げることもできないし!!)
シルヴィの頭の中は、完全にパニック状態だった。
現代日本で平和に生きてきた(はずの)彼女にとって、戦争や災害といったものはスクリーンの中の出来事でしかなかったのだ。それが今、現実の物理的な死の恐怖として迫ってきている。
「ひぃっ……!」
シルヴィは悲鳴を上げ、たまらずソファーから滑り落ちた。
そして、部屋の奥にある巨大な天蓋付きベッドへと、重いドレスを引きずりながら必死に這い進んだ。
「姫様!?」
「あ、あの……わ、私、怖い……っ! 怖いよぉ!!」
シルヴィはベッドの上に這い上がると、最も分厚い高級な羽毛布団を引っ張り込み、すっぽりと頭から被ってしまった。
ガタガタ、ガタガタと、布団の山が激しく震えている。
「む、無理だよ、そんなの……っ。魔物が十万匹なんて……。私、戦えないよ……。死にたくない、死にたくないよぉ……っ!!」
布団の中から、シルヴィの涙声がくぐもって聞こえてきた。
完全に恐怖に支配され、幼児のように震える少女。
それは、人類の危機を前にしてあまりにも無力で、等身大の一般人の反応であった。
彼女はただ純粋に、自分の命が失われること、痛い思いをすることに怯え、布団の中に逃げ込んだだけなのだ。
しかし。
この場にいる四人の狂信者たちにとって、布団の中でガタガタと震えるシルヴィの姿は、全く別の、あまりにも神聖かつ悲痛な光景として脳裏に焼き付けられてしまったのである。
『通知:対象【ロアン】【エラン】【セリア】【マイラ】【ダリウス】に対し、パッシブスキル【真祖の威光】および【絶対的庇護欲】が、かつてない異常数値で発動しました』
「…………」
部屋の中に、先ほどまでの焦燥感とは全く質の異なる、恐ろしく冷たい静寂が降り降りた。
ロアンが、ゆっくりと立ち上がった。
彼の大剣を持つ手が、ミシミシと骨が軋むほどの力で握り締められている。
「……おい、聞いたか、エラン殿」
ロアンの声は、地獄の底から響くように低く、そしてドス黒い殺意の塊となっていた。
「ああ。聞きましたわ、ロアン」
エランもまた、杖の先を虚空に向けたまま、その美しい顔を夜叉のように歪ませていた。
彼らの脳内では、シルヴィの怯える姿が、次のような『究極の超解釈』へと変換されていた。
(おおお……なんということだ! 姫様はご自身の命を惜しんでいるのではない! この街に住む何万という無辜の民草が、魔物の牙にかかって命を落とすかもしれないという悲劇を想像し、あまりの哀れみに涙を流し、その細き御身を震わせておられるのだ!!)
(なんて慈悲深い! なんて気高い! 自らは戦う力を持たずとも、人々の痛みを我が事のように受け止め、絶望に震えてくださるとは! これぞまさに、すべてを愛する女神の涙!!)
さらに、彼らの怒りのベクトルは、迫り来る魔物たちへと一直線に向かった。
「……万死に値する」
セリアが、ギリッと歯を食いしばり、聖剣を抜いた。
「聖女様の優しきお心を傷つけ、あまつさえその美しい瞳から悲しみの涙を流させ、恐怖という名のストレスをお与えするなど……! 魔物どもめ、いかなる理由があろうとも、絶対に、絶対に許さぬ!!」
「全くだ! 姫様がせっかく美味しいケーキを召し上がって、優雅なティータイムを楽しんでおられたというのに!!」
マイラが巨大なハンマーを担ぎ上げ、全身から凄まじい熱気を放つ。
「アタシたちの愛する姫様の『安眠』と『お茶の時間』を邪魔した罪、テメェらの命十万個でも足りねえぞ!!」
「グルルルルルッ……!!」
ダリウスが竜の咆哮を上げ、その巨体をさらに膨張させて戦闘形態へと移行する。
「我が小さき主の玉肌を震わせた罪、一匹残らずこの俺の爪で引き裂き、肉片一つ残さず喰らい尽くしてくれる!!」
五人の猛者たちから放たれる殺気と魔力、闘気が、部屋の中で混ざり合い、もはや致死量の毒ガスのように充満していた。
報告に来た副官の聖騎士は、窓の外から迫る十万の魔物よりも、今目の前にいるこの五人の怒りのオーラの方が遥かに恐ろしく、白目を剥いて完全に気絶してしまった。
「姫様」
ロアンが、布団の山に向かって、この世で最も優しい声で語りかけた。
「どうか、ご安心ください。そして、そのまま温かいお布団の中で、目を閉じてお休みになっていてくださいませ」
「えっ……? ロアン……?」
布団の隙間から、涙で濡れたシルヴィの赤い瞳が覗く。
「外で騒いでいる薄汚い害虫どもは、我々がすべて『駆除』してまいります」
エランが慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。
「姫様のお耳に、あのような汚らわしい魔物の悲鳴や、血の弾ける音が届くことすら、我々にとっては恥辱の極み。ですから、姫様はどうか耳を塞ぎ、私たちが戻るまで、安らかな夢の世界を旅していてくださいませ」
「……みんな……?」
シルヴィは状況がよく飲み込めていなかった。
十万の魔物が来ているのだ。普通なら、今すぐ逃げる準備をするべきではないのか。
しかし、五人の顔には、恐怖の色など微塵もなかった。あるのはただ、「姫様の安眠を邪魔した虫ケラどもを、いかにして最も残酷に、かつ迅速に消し去るか」という純粋な殺戮の意志だけである。
「我らが女神様」
セリアが胸に手を当て、深く一礼した。
「貴女様の流されたその尊き涙に誓いましょう。この聖都アイギスの城壁に、魔物の爪痕一つ、血の一滴すら残させはしません。……行ってまいります」
バサァッ!!
五人の猛者たちは、シルヴィが止める間もなく、ロイヤルスイートルームのバルコニーの窓を蹴り破り、遥か数十メートル下の地上へと、一直線に飛び降りていった。
「ああっ!? みんな、待って!! 十万匹もいるんだよ!? 死んじゃうよ!!」
シルヴィが慌てて布団から這い出し、バルコニーから下を覗き込む。
しかし、そこにはすでに彼らの姿はなかった。
代わりに、聖都の北門のはるか前方、土煙を上げて迫り来る魔物の大群の真っ只中に向かって、一筋の黄金の流星と、漆黒の極大魔法陣、純白の閃光、爆発する業火、そして空を裂く竜の咆哮が、凄まじい速度で突撃していくのが見えた。
「う、嘘でしょ……?」
シルヴィは呆然と立ち尽くした。
五人VS十万。
常識的に考えれば、蟻が象に挑むような、圧倒的すぎる戦力差である。
シルヴィは恐怖で再び涙を浮かべ、両手を胸の前でギュッと握りしめた。
「みんな、死なないで……! お願いだから、無事に帰ってきて……っ!!」
それは、自分を優しく守ってくれた(過剰すぎるが)大切な従者たちの無事を祈る、シルヴィの純粋で心からの『祈り』であった。
ステータス1の無力な少女が、ただただ仲間を想って両手を組み、目を閉じて祈る姿。
しかし。
彼女は忘れていた。
彼女のステータス【魅力】【カリスマ】はカンストしており、さらに今、彼女はマイラが作り上げた『オリハルコンとミスリルの絶対防御ドレス』を身に纏っているということを。
純度100パーセントのミスリルのフリルが、シルヴィの純粋な祈りの心(精神波)とパッシブスキル『真祖の威光』を限界まで増幅させ、光学的な『光』となって周囲に放ち始めたのである。
カァァァァァァァァァァァッ……!!!!
バルコニーに立つシルヴィの身体から、まるで第二の太陽が出現したかのような、圧倒的で神々しい純白の光の柱が天に向かって立ち昇った。
その光は聖都全体を照らし出し、さらには迫り来る十万の魔物たちの視界にまで、強烈な神聖波となって突き刺さっていく。
「えっ? な、なにこれ? 私、光ってる!?」
シルヴィは自分から発せられる眩い光に驚き、パニックになってさらに目をギュッと瞑って震え上がった。
かくして。
最弱の吸血姫による「ただ怯えて布団から出てきて祈っただけ」の行動が、魔物の大群と聖都の住民たちに、決定的な『究極の勘違い』を植え付けることになる。
過保護な五人の狂信者たちによる十万の魔物の大虐殺と、光輝くシルヴィの救世主伝説が、今まさに、最悪の形で交差しようとしていた。




