第三章 3
「はぁ、そうですか」
「由布子、おいら、眠いニャ~」
ちなみに、ジュリは由布子の腕に頬を寄せていた。
スリスリしながら幸せそうに微睡んでいる。
ハンドルを握る柴田は、いつものように淡々と運転をしていると言いたいが、しっかりと聞き耳を立てているようである。
ご機嫌な顔で由布子に肩に顔を寄せている朱里。
スリスリ。スリスリ。
うざいけれど好きなようにさせるしかない。そんな朱里を横目で見つめながらエリカが言った。
「錯乱状態の朱里って強烈ね。この子、目覚めた瞬間、由布子って泣きながら絶叫してたのよ。宥めるのが大変だったわよ」
たまたま、そこにエリカがいたという。
『由布子に会いたいニャーーーーー。どこにいるニャー』
朱里は大騒ぎして三井さんを困らせていたらしい。
「自分はあなたの飼い猫だと言い続けていたわよ。大親友のあたしの事が少しも分からないなんて変よ。だけど、由布子ちゃんの事は詳しく知っているの」
「何て言ってました?」
「由布子が修学旅行に行った時、あなたの兄さんが間違えて買ってきた犬の餌を無理に食べさせたと言ってたの。そういう事があった?」
「ありますよ。どうして夏目さんが知ってたのかな」
他に食べるものがないので、ジュリは仕方なく我慢して食べたが……。
あの時、由布子は兄に対して怒っている。
『お兄ちゃん、猫の栄養と犬の栄養は違うんだよ。それと、塩分の強いウインナーを与えないでよ。ジュリが腎臓病になったらどうすんのよ!』
思い返しているとエリカが質問してきた。
「あなたが、道端で猫のジュリと出会った時、隣にもう一匹、白い子猫がいたのよね。その子は、ひどい目脂を出して衰弱していたそうね」
「はい、そうなんです。病院に連れて行ったけれど残念ながら死にました」
「あなたは、死んだ猫を祖母の家の庭に埋めた。その時、子猫のジュリを連れて行ったのよね。だけど、そこで、ジュりが逃げ出して行方不明になって探し回ったんでしょう。あの時、ジュリはイタチを追いかけて迷子になったらしいわよ」
「はい、そういう事もありましたね」
祖母の家の周囲には農地が広がっている。田植えを控えた水田で泥だらけになったジュリを井戸水で洗ってあげた。
「全身に水をかけられて寒かったって文句を言ってたわよ。その帰り道、あなたのお兄さんの車のタイヤがパンクをしたらしいわね。すごい音がして怖かったそうよ」
「ぜんぶ、合ってます」
夏目家でも、さすがに、そこまでは調査できない。という事は……。猫ジュリの記憶ということか。
由布子の心を見透かすようにエリカが言った。
「やっぱり、これは、あなたの猫と魂が入れ替わっていると考えるべきなんじゃないかしら?」
「えっ?」
いやいや、そんなまさかと首を振るが、絶対にないとも言い切れない気もする。
「もしも、あなたの猫の霊魂が憑いているのだとしたら、お祓いをしてもらった方がいいと思うのよね」
「えっ」
この時、由布子としては、まだまだ半信半疑だった。
「バイト先に、陰陽師の芦屋道満の子孫ってのがいるから、必要なら、いつでも言ってね。それじゃ、あたし、バイトに行くわね」
エリカは途中で降りたのだ。
☆
一難去って、また一難である。ジュリと共に夏目邸の別館へと戻った由布子は目を疑った。
「な、何これ」
キッチンがグチャグャだ。小麦粉やバン粉などの袋がひきちぎられており、四方八方が白い粉まみれになっている。
トイレはトイレットペーパーが散乱しているし風呂場の脱衣所も水浸しになっているではないか。
これは酷い。
割烹着姿の三井が言った。
「いつもの発作ですわ。エリカ様がいらしたので、坊ちゃまをなだめすかして下さったのです。わたし一人ではどうにもなりませんでした」
三井は濡れたキッチンで転倒して足首を捻挫したという。そんな状態で部屋を片付けようとしているなんて気の毒だ。
「それなら、あたしを電話で呼び戻してくれたら良かったのに」
「いえ、電源が入ってないようでしたので、エリカ様にお願いして迎えに行っていただいたのでございます」
行き先は告げていたので迎えに来てくれたようである。
「あっ、わざわざすみません」
申し訳ない事をした。
「あたしはリビングを片付けますね。三井さんは台所をお願いします」
今、目の前にいる夏目朱里の中味が猫のジュリだとするならば、人様の家で自分の猫が迷惑をかけた事になる。
惨状を目の当たりにして胸が痛むというのに、ジュリは無邪気に由布子にまとわりついている。
「なーなー、由布子、遊んでおくれよ。鼠の玩具はどこにあるのかニャ?」
期待に満ちた顔でこっちを見ている。
「おいら、おまえがいなくて寂しかったんだぞ」
由布子が無視してゴミを拾っていると、ジュリが爪で引っ掻くようにして由布子の服の裾を引っ張った。
「由布子、遊んでおくれよ。おいら、おまえの可愛いジュリだぞ。世界で一番賢い猫だぞ。おいら、おまえの家族だよニャ? あーそーぼー」
媚びたような声にイラッとなった。ヒョイヒョイと由布子を引っぱり続ける様子はジュリそのもの。
(中身は夏目さんじゃなくて、うちのジュリなのね)
由布子は間違いないと確信していた。そうと分かったからには容赦しない。
「おだまり!」
由布子はパーンと頬をひっぱたく。
キッチンから様子を見ていた三井は、ひぇーーーっと顔を引き攣らせている。三井の血圧が上がって眩暈かしているのだが、由布子はお構いなしで説教する。
「ジュリ、いいから、そこに座りなさい」
由布子の鼻息が荒い。前々からジュリに対して言いたかった。
「我侭は許さないよ」
猫のジュリは由布子に構ってもらえないと拗ねる。
学校から帰っとてくると、ティッシュペーパーとトイレットペーパーが全滅していた事がある。
お腹が空いている訳でもないのに生ごみの入った箱を引っくり返されて、うんざりした事もある。
こんな子に育ててしまったのは由布子の責任。
由布子は飼い主としてジュリを強く見据える。
「ジュリ、なんで、こういう事をするの?」
「だって、おまえがいないのか悪いんだぞ。おいら、一人ぼっちは嫌だニャ。母ちゃんみたいに、おいらを捨てるんじゃないかって不安になるニャ」
第三章 4
「そんなことする訳ないでしょう。なんで、あたしのこと信じられないの? あんたのことを信じて外に出してあげてるでしょう? 小さな子供じゃないんだよ。いつまでも、駄々っ子みたいなことしないでよ。今度、こんなことしたら、一生、愛してあげないからね!」
ジュリは口元をへの字にして涙ぐむ。
「うえーーーん。おいらのこと嫌いにならないでよ。おいら、いい子だよ。そこらへんの野良猫みたいに魚泥棒とか野糞はしないよ。おいら、お手も出来る賢い猫だぞ」
そうなのだ。ジュリはお手をするし、ちゃんとお座りも理解している。
由布子は我が子同然のジュリに言った。
「それなら、お部屋の掃除するのよ。いいわね」
「おいら、掃除なんてしたことないぞ」
「身体をペロペロするみたいに床を雑巾でペロペロするのよ。さっさとやらないと、マジで家から追い出すよ! 二度とチャオちゅーるあげないよ」
「分かったニャ。ペロペロするニャ☆」
部屋を片付けるジュリは生き生きとしている。由布子は猫にも分かるように丁寧に教える。
「こうやって布でペロペロするんだよ。ここを拭き終えたらゴミを集めてね。いい子にしてたら、頭と耳を撫で撫でしてあげるからね」
「分かったニャ。早く、おいらを撫でて欲しいニャ」
この時の由布子は三井の存在を忘れていた。
三井は感心していたのである。
(由布子様は惚けてている坊ちゃまを躾けるのがお上手でございます。アッパレでございますわ)
ジュリの知能は三歳児と同じ。
「おいら、いい子だニャ? 世界で一番いい子だよニャ?」
褒めてくれと顔に書いてある。由布子は、いつものように背中や頭を丁寧に撫でてあげた。
「そうだよ。ジュリは世界で一番いい子だよ。よしよし。その調子で頑張ろうね」
☆
午後九時。ようやく、ジュリが散らかしたキッチンや浴室やトイレが片付いた。
「さてと、夏目さんの寝室も綺麗にしないとね」
朱里のベッドの辺りの物が散乱している。それを片付けながら由布子が言う。
「ねぇ、ジュリ。あんた、どうやって人間の身体に入り込んだの?」
「そんな難しいこと、おいらに聞くニャよ。おいらにも分かんないニャ」
それでも、猫は猫なりに一生懸命に答えようとしている。
「おいら、左の後ろ脚が折れちまったニャ。頑張って家に帰ろうとしたけど無理だったニャ。気付いたら、猫じぃの家にいたニャ。猫じぃが手当てをしてくれたニャ。おいら、熱を出して死にそうだったニャ」
「ん? 猫じいって誰よ? その人に名前はないの?」
「猫じぃは猫じぃだニャ。みんながそう呼んでるニャ。猫じぃは、倒れて救急車っていう白い車で運ばれて帰って来ないニャ」
もっと詳しく調べようとして由布子は尋ねる。
「あんたの他にも猫はいるんだね」
「三毛猫のホームズと白猫のタマがいるニャ。たまに、黒猫の親子も遊びに来てるニャ。餌のおこぼれを食べてるニャ。おいらは、ゲージの中にいるニャ。おいら、足に木の札みたいなものを付けられているニャ」
「きっと、それは添え木だね。ちゃんと治療してくれているんだね。それなら、安心、いや、違う」
由布子はギクッとなる。
「その猫じぃさんはどうなったの?」
「ずっと帰って来ないニャ」
「それじゃ、猫のごはんはどうするのよ!」
出歩ける猫は餌場に行けばいいが、ゲージの中にいるジュリの場合はそうもいかない。
「困ったニャ。おいらのゲージの中には水しかないニャ」
由布子は焦燥感を募らせていた。ゆゆしき事態である。
ペット探偵とやらに猫じぃの事を話せば場所を特定できるかもしれない。
公園の近くに住む一人暮らしの老人。最近、救急車に運ばれた人を探せばいい。
(ふっ、夏目家の力を活用すればこんなのチョロイわよ)
朱里のベッドの布団カバーをかけ直していると、エリザベスが由布子にスリスリしてきた。それを見たジュリが言った。
「なんで、ここにおいらの娘のエリザベスがいるニャ? エリカっていう人間の女に聞いたら、由布子がエリザベスを連れてきたって言ったニャ」
「うっそーーー。ジュリの娘なの?」
「エリザベスは二年前の春先に生まれたおいらの娘だニャ。毛並みがソックリだニャ。おいらの子供は他にもいるニャ。可愛い女の子は、みんな、おいらに夢中になって、いい子を生んでくれるニャ」
不思議なものだ。外見は夏目朱里なのに父親の表情になっている。
(なるほど。エリザベスとジュリが親子だから顔がそっくりなんだね)
ジュリは人間がするようにエリザベスの背中を撫でながら目を細めている。
「おいらの娘はおいらに似て美人だニャ。だけど、人間になったおいらとは話せなくて残念だニャ」
「その代わり、あたしと話せているよ」
ちょうどいいから聞いてみよう。
「あのさ、前から聞きたかったんだけど、ジュリって、なんで、うちのお兄ちゃんにシャッーって怒るの? もう七年も一緒に暮らしているんだから、いい加減、懐いてよ」
「あいつは、おいらが子供の頃に、おいらの頭に臭いゲロを吐いたニャ。それなのに、ヘラヘラしてたニャ。許せないニャ」
「懐かしいな。そんなこともあったね」
「それに、あいつ、おいらの顔の前で、わざとおならをするニャ」
「いや、あんたが、お兄ちゃんのお尻の側にいるのが悪いのよ」
「他にも嫌なところは一杯あるニャ。あいつ、おまえか留守の時、ごはんを出すのを忘れた事があるニャ」
「お兄ちゃん、営業職で接待して酔っぱらってるの。それで忘れるのよ」
そんな事を言っても、ジュリには理解できないらしい。
「一番、許せないのは、あいつ、おいらの金玉を取ろうとしたことだニャ。病院に連れて行かれた時、おいらは絶望したニャ」
由布子に内緒で兄が連れて行った事がある。ジュリは危険を察知したのか動物病院から逃げ出して家に戻ったのだが、あれ以後、ジュリは警戒している。
「そうか、やっぱり、あのことを根に持ってるんだね」
それにしても不思議だ。
「ジュリの魂はこの体の中にいるんだね」
「おいら、人間に生まれ変わったニャ」
「違うよ。今、一時的に身体を乗っ取ってるだけだよ。いいわね。御片づけが、どんなに大変か分かったよね」
「うん。分かったニャ」
「分かったのなら、さぁ、もう寝なさい。ねんねの時間だよ」
「寝る前に、いつものお尻ペンペンして欲しいニャ☆」
その瞳がキラキラしている。もう待ちきれないという顔で由布子を見つめている。
「はいはい。やったげるってば」
もはや、由布子にとってはお尻ペンペンは一日の終わりのルーティーンだ。
パンパンッ。バンバンバンッ。
女豹のポーズをとっているイケメンを叩く。
打楽器でも叩くかのように軽快に連打するが、深く考えると叩けなくなるので心を無にしている。
猫への奉仕は飼い主の義務。
「おうおう。気持ちいいニャ。嬉しいな。由布子の手は最高だニャ。由布子はおいらの女神だニャ」
なるほど。猫が喉を鳴らすゴロゴロを言語化するとこうなるらしい。
正直、いくらジュリの為といっても面倒臭い。猫は、なぜ、お尻ペンペンされると嬉しいのだろう。
(夏目さんに憑依した時、服を脱がないように言い聞かせないとね)
ジュリは何かあるとすぐにお尻を見せてくる。御主人を信用している証ですよと獣医は言う。
いくら愛していても猫の肛門は見たくない。
人間に憑依しているジュリは喉をゴロゴロと鳴らす代わりに声を張っている。
「あああ、いいニャーーーー。効くニャーーーーーーーー☆」
嬉しさの余り絶叫していたのだが、その瞬間、居眠りしていた三井が跳ね起きた。




