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第三章 1

『いいな。二度と心配かけるなよ。おまえの猫のことはオレも探すから一人で突っ走るな』

 

 御曹司はいい奴なのかもしれない。


 さすがに五日目となると同居生活にも慣れてきた。


 このところ、朱里は猫言葉を使っていない。つまり、まともな状態が続いている。このまま治癒してくれるといいのに。


 顔を洗い終えた由布子は朝の挨拶をした。


「おはようございます。夏目さん、まだ寝ているんですか?」


 キッチンに入ると味噌汁の匂いがした。三井はキビキビとした動作で朝餉の仕度をしている。三井はおっとりと微笑んだ。


「昨夜、坊ちゃまに来客があったのですわ。あまり眠れなかったのかもしれませんね」

「来客?」


 一体、いつ来たのだろう。


(そんな夜遅くに来るものなの?)


 三井は柔和な顔つきをしている。


「いつもは、由布子様のお部屋のベッドを利用してもらうのですが、生憎、由布子様がいらしたので一緒に眠られたようでございます。お客様に寝覚めの水を持って行ってもらえますか? 起こすように申し付かっているのですよ」


 三井は、丁寧生野菜を洗っている。サラダでも作るつもりだろうか。アボカドやレモンがまな板に置かれている。


「お客様は裸に近い状態で寝ておられると思いますけど、驚かないで下さいませ」


「分かりました」


 兄と暮らしていたので男の裸には慣れている。


 ノックしてから入ったのだが、寝ていたのは全裸の若い女性だった。


 ガッシャン。激しく動揺したせいで、うっかり、お盆を落としてしまった。


「やだっ、地震?」


 目覚めた彼女は地震でないと分かるとホッしたように欠伸をした。


「やたー。脅かさないでよ。あなた、新入りのメイドさん?」 


「いえ、あの、その」


 ハーフっぽい顔立ちをしているが瞳の色や肌の色から察するに日本人のようだ。


(三井さん、なんで、女の人だってことを言わないのよ)


 どう考えても、単なるお友達には見えない。


「あの、あたしはメイドではないのですが、起こすように言われまして……」


 美女は毛布で胸元を隠したままクスッと笑っている。


「誤解しないでね。肉体関係なんてないからね。ていうか、あたしの好みは歳上の包容力のあるイケおじよ。例えば、執事の坂元とかぁ~ 芸能人だと大沢たかおとかぁ~」


 気だるそうに長い前髪を掻きあげている。


「よろしくね。あたし、この子の継母の方子の姪のエリカよ。大学二年生なのよ」


「あたしは瀬戸由布子です。なんで、ここにいるのかと言いますと……」


「聞いてるわ。猫憑きになった朱里はあなたのこと気に入ってるのよね。だけど、残念ね。朱里と結婚する女性は決まっているわ」


「もしかして、あなたですか?」


「いいえ。婚約者は方子おば様の親友の御令嬢よ。近いうちに、この家にも来ると思うわよ」


 エリカは背を向けると物憂げな動作で花模様のガウンを羽織った。


「昨日、終電に乗り遅れたから泊めてもらったのよ」


 長い腕を伸ばして朱里の肩を推している。


「起きなさいよ。あらら、どうしたのかしら。全然、目を覚まさないのね」


 由布子は声を落としたまま言う。


「その人、多分、疲れているんですよ」


「ふうん。そうなんだ。それじゃ、このままにしておきましょうか」


 エリカは台所まで来ると三井に笑いかけた。


「おはよう。シャワーを浴びるわ。三井さん、いつものパンケーキをお願いね」


 キッチンの三井はミキサーを手にしたまま頷いている。


「分かっておりますよ」


「あーら、さすがね。国産のはちみつも用意してね」


 綺麗な人だ。エレガントという言葉は、ああいう人の為にあるのかもしれない。


         ☆


 エリカは野菜ジュースを飲むとゼミに行くと言い残して立ち去った。


 キッチンにはドイツ製の立派な食器乾燥機があるのに使おうとしない三井に尋ねる。


「エリカさん、夏目さんと一緒に寝てましたよ。方子さんは許しているんですか?」


「構いません。エリカ様は男の子でございますからね」


「えっ?」


 なんてことだ。


「まだ性転換はなさっていません。本当の名前は伏見倉之助でございますよ。御家族からは女装をやめるように言われましたが、エリカ様は、頑として聞き入れず自分の道を貫いた結果、勘当されましてね。バーで働きながら大学に通っておられます」


「同じ布団で寝るなんて仲がいいんですね」


「ここに引き取られた当初の坊ちゃまは気持ちも沈んでおりました」


 しかし、エリカと、おままごとをするうちに笑顔を取り戻したのだという。


「お二人とも、小学生の頃は、この庭を駆けまわっておられましたわ」


 お互い、なくてはならない存在になったというのである。


「エリカ様の孤独や葛藤を理解してあげられるのは坊ちゃまぐらいなものですよ。LGビューティーでしたっけ? 女装家のエリカ様は孤独なのでございます」


 三井が言いたいのは、おそらく、LGBTQのことだろう。性自認というのはセンシティブな問題である。


「エリカ様の生き方を坊ちゃまは尊重しておられますが、方子様は、あまり快く思っていません。実家を継いだ方子様のお兄様の子供は、エリカ様とその弟だけなのです。エリカ様は家を継ぎたくないといつも言っておられますよ」


「ならば、エリカさんの弟さんが継げばいいのでは?」


「成績優秀な長男のエリカ様と違って、弟の鈴之助様は勉強嫌いの放蕩息子なのです。どうも企業のリーダーに相応しくないようでして。しかし、エリカ様は女の人と結婚したくないとごねておられます。エリカ様が結婚したいのは大沢たかお似のイケおじだそうです」


「なるほど」


 エリカの事情はよく分かった。


            ☆


 正午になると、別館の玄関に執事の坂元が来た。


「やっと頼んでいたものか届きましたわ」


 三井が中味を取り出していく。


「エリザベスのゲージとベッドと爪とぎの板とおトイレと砂と猫缶でございます。猫じゃらしと、またたびと猫用ブラシは午後に届くそうでございます」


「通販ですか」


「外商さんか届けに来たのですよ。電話をすれば、それこそ、大根一本からダイヤモンドまで持ってきますからね。欲しいものがあれば言って下さいまし」


「いえ、欲しいものは自分で買います」


 由布子は、エリサベスに餌を与えながら溜め息を漏らす。


(それにしても、エリザベスってジュリに生き写しだな。とりあえず、出産するまでは厳重に守ってあげないと駄目だよね)


 由布子はエリザベスの頭を撫でると、スマホで元気な姿を撮り竜馬に画像を送ると、すぐに返事が来た。


『エリザベスに子供が生まれるんだね! 楽しみだね』


          ☆


 

 実は、街の片隅で事件が起きていた。


 ジュリを保護した岸辺老人は死にかけている。


 この家が建てたのは今から六十年前のこと。五年前までは妻がいたが、妻が死んでから、ここはゴミ屋敷になっている。


 庭木の枝が隣家まだ伸びている。まったく手入れされない庭は荒れ果てている。


 午前十時。ピーポーピーポーというサイレンの音と共に救急車が来た。


「いやぁね。岸辺さん、また、肺炎で倒れたみたいよ」


 近所の老婆達が囁き合う。


「人情に厚い町会長さんが様子を見に行かなかったら、今頃、死んでるところだわよ」


「町会長さんによると、相変わらず、家の中は物で溢れていたらしいわよ。汚い野良猫が住み着いていて臭いわ。今のうちに保健所を呼んで殺処分して欲しいわ」


「飼い猫って事になるから処分したら罪になるそうよ」


 岸辺老人は近所の人からは嫌われている。


 その時、ゴミ屋敷の隣人の工藤という中年男がガッツポーズをとっていた。男やもめの工藤と岸辺老人とは犬猿の仲である。


(ざまーみろだぜ)


 野良猫を放し飼いにするなと抗議しても岸辺は知らぬ顔。


 柴犬の桃太郎が、行儀良く家で寛いでいるというのに、岸辺の家の太ったのミケ猫が勝手に桃太郎の餌を食べに来るおかげて、工藤の愛する桃太郎はノミを移されてしまい悶絶した。


 工藤が経営している駅前の眼鏡店は風前の灯。常連だった年寄りも大手の眼鏡店へと流れている。


(それなのに養育費を払えと催促しやがる)


 二人いる高校生の息子の学費と日々の生活費の捻出にも苦労している。パチンコも競艇も負け続けている。


(親戚のばぁさんの遺産が入れば何とかなる)


 だから、便利屋にエリザベスを抹殺するように頼んだというのに、そいつは、エリザベスを見失っている。


 前金を返せと迫ると、そいつは電話に出ないようになった。三万円も払ったのに。


 何もかも猫のせいである。


 工藤の生活は猫に脅かされている。こないだ、貧相な黒猫が勝手に工藤の家に入り、サンマを咥えた。こらーという言葉に反応して立ち去ったかと思うと岸辺の家に潜り込んでいた。


「じじぃが留守の間に小汚い猫どもを殺してやりたいもんだぜ」


 例えば、あのボロ屋敷に火をつけたらどうだろう。


 横目で隣家の塀を眺めながら邪な気持ちで決意していたのだが。


 ピンポーン。工藤の家に訪問者が来た。


 夏目朱里に雇われたペット探偵の仁科という男である。細身の中年男だ。ペットを探し回るので、いつもスニーカーを履いている。


「あの、すみません。迷子の猫ちゃんを探しているんですけど、御宅の庭にカメラを接してもいいでしょうか?」


「駄目だ。そんなもの置くな。プライバシー侵害だ」


「いえ、縁の下に猫が入るかどうかを確認するだけなんです。安心して下さい。人間の顔は映りませんよ」


「どうしても置きたいのなら、設置料を払えよ。一日一万円だ」


 てっきり断ると思っていたというのに仁科がすんなりと頷いた。


「お支払いします。とりあえず、今日と明日の分を前払いしますね」


 今回の依頼人は夏目家。ペット探偵は、その場でペイペイで入金したもんだから強欲な工藤の目か輝いた。


「ああ、それならカメラを何台でも置かせてやるぜ。何日でもいいぜ」 


 この金でキャバクラにでも行こう。工藤はニヤッと笑うと現金を受け取ったのだった。


     ☆



 依然としてジュリは見つからない。由布子は桜が満開の向日葵公園へと足を伸ばした。


「ジュリのお気に入りの公園だけど、やっぱり、お花見シーズンだから人が多いな」


 最悪の場合、どこかで行き倒れになっているかもしれない。この公園はもちろん、由布子のアパートの範囲を徹底的に捜索するつもりで歩き回る。


 散々、ジュリを探したのだが見つからない。


「由布子、何やってんの?」


 クラスメイトの舞子が公園のトイレから出てきて、ばったりと出くわした。


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