第十二章 5
坂元はジュリの身体を由布子に引き渡した。由布子の腕の中。息も絶え絶えのジュリの顔からは表情というものが削ぎ落とされている。
何だか剥製のように見えてきた。どうしよう。呼吸が浅くなっている。ジュリ、お願い、死なないで。
坂元は駆け足でベンツへと向かい、後部座席のドアを開けた。気絶している人間の朱里を引き摺り下ろし、揺さぶりながら訴えている。
「坊ちゃん。寝ている場合ではありませんよ、早く目覚めて下さい! あの猫は、そう長く持ちません! 坊ちゃん、猫がくたばる前に、自分の身体に戻って自分の身体を守ってください」
低い生け垣の向こうの空き地にいる坂元に向かって、由布子は叫ぶ。
「坂元さんっ、何て事を言うんですか! ジュリは助かります」
「いいえ。その猫は死にかけています。こんな状態で死んだら、きっと、あなたの猫は坊ちゃまにとり憑いてしまう。永遠に、我々から坊ちゃんを奪ってしまう! 方子様から大切なものを失うことになります! 何としても、この猫が死ぬ前に目覚めていだだくのです」
「何を言っているんですか。そんなことして、無理に起こした時、ジュリが夏目さんの体の中に入ったらどうするんですか」
「その時は、また坊ちゃんを気絶させます。そして、猫を強引に目覚めさせます」
「強引にって……。うちの子、火傷してフラフラなんですよ」
「あなたの猫は、あなたに何か言おうとしています。最後の言葉になるかもしれません。聞いてあげたらどうですか」
嫌だ。最後になんてさせない。
由布子は痛ましい姿のジュリを腕に抱いたまま見つめ続ける。ジュリは声を出さない状態でニャーと呟いた。
「何なの。ジュリ」
意識も朦朧としている。それなのに、由布子の頬に肉球を押し当てている。
ブニュ。由布子は肉球をそっと握った。
「勇敢だったね。あんた、子猫を火から守ったんだよ。子猫は火傷してないよ」
それを聞いて安心したのだろう。
『えっへん。おいら、賢い猫だぞ☆』
そんなふうにして、健気に可愛い情を見せるものだから、由布子の息が詰まる。
その間、背後では、坂元が夏目朱里の頬を叩きまくっていた。ペシペシッ。
坂元も必死だ。
「起きて下さい。坊ちゃん、あなたが死んだら、方子様はどうなると思っているのですか。一生、廃人のようになりますよ!」
胸に込み上げる思いをぶちまけている。
由布子も愛する猫に向けて叫ぶ。
「ジュリ、駄目だよ。死なないでーーー。あたしを残して死なないでーー」
愛している。そんな言葉では言い尽くせないほどに大切なんだよ。
ニャニャッ。いつも、ジュリは由布子を出迎えてくれた。寒い冬は、いつも、お互いを暖め合ってきた。
「あんたのいない毎日なんて考えられないよ。ジュリは、あたしの宝物なの。あたしを残して逝かないでーー。愛してる。ジュリ、誰よりも愛してるからね。忘れないで。あんたは、あたしの最高の猫なんだよ!」
ニャー。
焼け爛れてよく開かなくなった瞼の隙間から、ジュリは由布子を見上げている。
『おいら、由布子の御自慢の猫だぞ。えっへん。おいら、いい子だニャ。そうだよニャ?』
最後にジュリは、小さな子供のようにあどけない声でミャーと鳴いた。その時、由布子の腕の中で小さな命が途絶えた事を知ったのだ。
「ジュリーーーー」
大粒の涙をこぼして叫ぶと、後ろから気遣うような声が聞こえた。
「……由布子、何があった?」
それは、坂元に叩かれて目覚めた夏目朱里である。何が起きたのか?
由布子は辛くて、振り返ることもできなかった。全身を薙ぎ倒すような悲しみに覆われている。
「ジュリが……。こんなの嫌。あたしのジュリが」
信じたくない。でも、ジュリは息をしていない。もう、ジュリの声を聞くことが出来ないなんて、ひどすぎる。
朱里は、目の前で燃えている家と火傷を負ったシュリを見て、ここで何が起きたのかを悟ったらしい。
「由布子」
涙をこぼしている由布子を背後から包み込むようにして抱き締めている。
「由布子、ごめん」
朱里は心から謝っていた。
「おまえの猫を守ってあげられなくてごめん」
坂元は、少し離れたところから二人を見ていた。そして、坂元はそっと涙を拭ったのだった。
☆
少し時間は遡るが、火事の現場ではこんなことがあった。
猫のジュリは勇敢だった。ゴーゴーと燃える炎の熱さに耐えながら、必死になって子猫を守ろうとしていたのだ。
火の勢いに阻まれて、一度は、坂元も救助をためらってしまう。生憎、近所のばぁさんから受け取った消火器は古くて使い物にならなかった。
黒々と渦巻く煙に咽てしまい、坂元も己の死を覚悟する。このままだとマジでやばい。
(クソッ、猫の為に死ぬのはまっぴらだぜ)
もう、見捨てて立ち去ろうかという気持ちになり背を向けた時、ジュリが叫んだ。ビリッと空気が揺れた。
ニャーーーーッ。
『ここにいる。どうか、この子だけでも救ってくれニャいか』
その目は必死だった。全身に怪我を負いながら、背中から迫る火から子猫を庇うようにして耐える様子に坂元は奮い立つ。
熱い熱風がジュリに迫る。ジュリは熱さに耐えるようにして踏ん張っている。坂元は勇気を振り絞って近付くと先に子猫を自分のシャツの胸元に入れた。ずっしりと重たいジュリを腕に抱く。そこから、無我夢中で外に出ていったのだが、その時、背後でドスンと柱が折れる音がした。
危機一髪。
坂元は下敷きにならずに済んだ。それにしても煙がひどい。やっとの思いで外に出たけれど、小さな生き物の温もりと毛皮や肉球の焦げたニオイが坂元の胸を突いた。
あんなにも酷い火傷を負っていては無理だろう。そう思いながら、由布子に届けたのだが、やはり、駄目だったか。
逝ってしまったようだ。
背後で瀬戸由布子がうずくまり号泣している。
「さよなら、ジュリ……」
多分、坂元は、この先一生、ジュリの勇姿を忘れる事はないだろう。
☆
結局、岸辺老人の家は取り壊されることになった。専門機関が調べた結果、工藤による放火だという事が分かった。
由布子の大切なジュリが死んだ。大やけどを負い、肺などを焼かれて亡くなったというのだ。
この事に腹を立てた西川は工藤に罰を与えた。どのような罰なのかは知らないが、とにかく、工藤は、二度と日本に帰れないという。
ちなみに、西川が招いた陰陽師達は、念の為に公園前の横断歩道も点検している。彼等は口を揃えて言った。
『いえいえ、横断歩道に悪い霊などいませんよ』
それでは、なぜ、猫のジュリと夏目朱里の魂が入れ替わっていたのか。それに関しては、誰にも分からないのだ。
『死んだ猫のジュリちゃんも成仏しています』
そう言われても由布子は嬉しくなかった。ああいう形で最愛のジュリを失ってからというもの憔悴しており、ずっと泣いている。
ジュリの葬儀は粛々と行なわれた。海の見える霊園の片隅でジュリは安らかに眠っている。花束と猫缶を置いて両手を合わせながら由布子は嗚咽した。
胸が張り裂けそうだった。大好きなジュリに会えないなんて辛すぎる。どれだけ泣こうとも悲しみは癒えない。
事件の数日後、由布子はアパートに戻った。すると、毎日のように朱里が由布子に会いに来るようになった。最初の頃は、由布子は朱里と会おうとはしなかった。しかし、百日連続で朱里が会いに来たのである。
由布子は朱里を見ているとジュリを思い出す。それが辛くて無視した。
それでも朱里はしつこかった。
そして、ついに百一日目。台風の中、ずぶ濡れになっている朱里を見かけた由布子は、仕方なくアパートに入れたのである。
すると、朱里は由布子に伝えた。




