第十二章 4
「見てのとおり、坊ちゃんの身体を守っているのです。この身体は避難させます。あなたも、そんなところにいないで、猫のジュリを探したらどうですか、焼き猫になってしまってもいいのですか!」
そうだ。うっかりしていた。
この家のどこかにジュリの本体がいる。昨日、ここから出る際には、ジュリは猫じぃの床の間のところにいたのだが……。
由布子の中でザワザワとした悪い予感が蠢いた。
(うそっ。ジュリがいない。やだ、どうしよう)
そうこうしているうちに、グオーッと火の勢いか増してきた。平屋には四つの部屋がある。それとは別に風呂場と台所もチェックしておかねばならない。
「ジュリーーーーー。どこにいるの?」
先刻、スタンガンで人間の朱里が失神した。という事は、ジュリは猫の身体に戻っているはず。
ゴミだらけのダンジョンを彷徨うようにして、由布子は愛猫を探し回るけれども、どうしても見付からない。煙が強くなってきた。這うようにして風呂場の脱衣所の辺りを進んでいると、ニャッという心細げな声が聞こえた。
「ジュリ!」
カビの生えた洗濯物の下から出てきたのは小さな黒猫だった。
由布子はしゃがみこみ、そっと手を伸ばす。
「いい子だね。君が、チビ猫なんだね。ほら、おいで」
子猫を保護しようとして手を差し伸べるとシャーッと唸った。鋭い爪で由布子の手を引っ掻いてから由布子の脇をヒューッと通り過ぎて行く。
そして、まるで階段のように積み立てられたダンボールを登ると、そのまま、目の前にある桐の箪笥の上に登ったのだ。背が低い由布子は手が届かない。
「待って、駄目だよ。そっちは駄目なんだってばーーー」
悪い煙は上に溜まるようになっている。早く、下に下りなさいと言っても、子猫には通じない。深追いしようとすると、後ろから引き止められた。
火事の現場に戻って来た坂元が焦れたように由布子の腕を引いている。
「出なさい。煙が充満していますよ」
「だけど、子猫とジュリを助けないと」
「あなたが死んだら坊ちゃんが哀しみます」
「夏目さんの身体はどこなのよ」
「ベンツの中に押し込められていますよ。さぁ、あなたも出なさい! 黒い煙が充満したら窒息死しますよ」
「嫌よ。あたしはジュリを探すの」
ジュリの名を連呼していると、天井裏の辺りからジュリの声が聞こえてきた。
「きっと、ジュリは天井のところにいるのよ!」
「それなら、あなたがここにいても仕方ないですね。我々が消えたなら猫達も降りて来るかもしれませんよ。さぁ、あとは猫に任せましょう」
この間、由布子は坂元に促されて外に出ていくが、中の事が気になって落ち着かない。
「消防車を呼びました。あなたが中にいると消火活動の妨げになります」
家全体が黒い煙に侵食されていく。駄目だ。そのうち、すべてに火が回ってしまう。由布子は恐怖に駆られた。
「ジュリを助けなきゃ、あなたも後悔するわよ!」
これは脅しなんかじゃない。
「夏目さんが、どっちの身体の中にいるのか分かってるの? もしかしたら、夏目さん、猫の身体の中にいるかもしれないんだよ! あの人には幸せになる権利があるの。あの人の人生はまだまだ続くの。そうでないと駄目なの!」
「もちろん、坊ちゃまには幸せになっていただきます」
坂元は静かに告げると、後ろに集まっている野次馬のばぁさん連中に向けて言った。
「皆さん、ここは危険なので下がってください。あと、自宅に消火器がある方は持ってきてください。それと、どなたか、わたしに水をかけて下さい」
すると、向かいの家の老女が消火器を持ってきた。町内会長の嫁の米子である。それに続いて、米子の女友達のばぁさんがバケツの水を差し出した。
火事の勢いは増している。
「由布子さん。あなたはここにいなさい。トラ猫のジュリは何としても連れ帰ります。そうでないと、執事として失格ですからね」
坂元は頭から水をかぶると、消火器を抱えて家の中へと入っていく。
「ひゃーーー。なんてこったい」
近所のばぁさん連中が黄色い声を出している。
「いい男は水に濡れると、ますます色っぽいねぇ。あの人、若い頃の舘ひろしに似てるね~」
「ほんとだね~」
ばばぁは呑気に呟いている。
「でも、玉木宏にも似てるよ。ウォーターボーイズ、懐かしいね」
家が燃えているというのに、ばばぁ達は焚き火でも見るように落ち着いている。
「いい機会だわ。あのゴミ屋敷が無くなれば清々するよ」
「岸辺さんは金はあるんだから、老人ホームにでも入るといいのさ。それにしても、先刻の男前は勇敢だ。岸部さんを救いに入ったんだろう」
違う。岸辺は入院している。
(あの中には猫がいるんだよ)
ジュリと子猫。小さな身体が炎に巻き込まれないか心配だ。古い家屋が燃える音を聞きながら、惚けたように立ち尽くす。もう、どうすればいいのか分からない。
自分も中に入るべきだったのだろうか。けれども、足手まといになるのは嫌だ。
ギリギリまで近寄ると、由布子は窓際から大きな声で叫ぶ。すると、中から返事が聞こえてきた。あれはジュリの声だ。
「あたしの声が聞こえるのね。そこは危険よ。早く出てきなさい」
「ニャニャッーーー」
分かってると言いたげな声だが、いつもよりも緊迫している。
ジュリは賢い。火事が危険な事は承知している。それなのに、まだ出て来ないという事は、子猫を探すのに手間取っているのかもしれない。
なぜたろう。不意に、色々な事を思い出したのだ。
初めてジュリにミルクを与えた時、一生、この子を守ると誓った。
風邪をひいて下痢をして由布子がトイレに入って出てこない時、あの子は不安そうに鳴いていた。
由布子が勉強しているとノートの上に居座ったりする。ジュリはいつも健康だったが、一度だけ猫風邪をひいて食欲不振になった事がある。あの時、奮発して獣医さんに連れて行ったせいで治療費が五万円と言われて泣きそうになった。
だけど、いくらお金がかかろうとも、ジュリには生きて欲しい。そう思って、由布子はなけなしのお小遣いを払った。
(あたしはジュリを必要としてる。ジュリはあたしの宝物なんだよ。あんたがいないと、この世界はくすんで見える)
早く、ジュリを助けて。
生きた心地がしなかった。数分の間、ハラハラしたまま待っていると、やがて、坂元がジュリと子猫を抱えて出てきたのだが、由布子は衝撃を受けた。
「ジュリ!」
ひどい有様だった。ジュリの背中の毛と肉は焼け爛れている。
思わず目を逸らしそうになる。
なんてことだ。胸が張り裂けそうだ。
坂元は自分のシャツと素肌の間に入れていた子猫を引っ張り出すと、それを由布子に手渡した。
「あなたのジュリは黒猫のチビが燃えないように覆いかぶさっていました。子猫は無傷ですが、ジュリは背中と足にひどい火傷を負っています。足も折れているように見えます」
坂本の右腕も大胆に焼け爛れている。
「坂元さんも手当てしないと」
由布子は震えている子猫をキャリーバックに入れた。チビの黒猫の毛皮は焦げていない。けれども、大量に黒っぽい煙を吸って酸欠になっているのかもしれない。目を閉じたまま息苦しそうにしている。
坂元は低い声で告げた。
「あなたの猫は、まだ意識はあります。苦しそうにしていますね」
ジュリは酷い状態になっており、今にも死にそうに見える。由布子は抱きかかえることすら出来なかった。プニプニしていた肉球も焼け焦げている。
ごめんね。
抱き締めたいけれど、そんなことをしたらジュリに痛みを与えてしまいそうで怖い。
「ジュリ、火傷したのね。痛いよね。あたし、すぐに獣医さんのところに連れて行ってあげるからね。坂元さんも、その手で運転は無理ですか? お願いします。うちの子を病院に」
「いいえ、わたしには確認すべきことかあります」




