第十二章 3
ちなみに、ジュリの肉体はトイレの便座の上で眠っていた。高い窓から出ようとしていたらしい。しかし、たまたま小窓が閉じていたので出られなくてジタバタしていたら、急に、意識が飛んで朱里の中に入ったようなのだ。
「す、すまないね。どうも骨折したらしい」
岸辺老人は転んだ弾みで鎖骨を追って悶絶していたので、由布子は救急車を呼んであげた。
転んだ先にある木彫りの熊の置物で額を切っている。
血しぶきのせいで殺人現場のような有様になっている。
救急車が去った後、由布子は、眠っている猫のジュリの身体を抱っこした。
「さてと、これで帰れるね」
すると、脇から朱里の身体を使って話しかけてきた。
「駄目だニャ。おいらの本体はここに残しておくニャ。おいらの身体は移動させたらいけないニャ」
「えーー、なんで? 猫じぃは病院に任せたらいいよ。もう、帰ろうよ」
「黒猫のチビがいるニャ。おいらを連れ帰るなら、チビも一緒でないと駄目だニャ」
「えっ、子猫は見当たらないよ」
しかし、ゴミの山の奥にいると言い張っている。
「おいら、今は人間の恰好だから警戒して隠れてるニャ、チビはかくれんぼの天才だニャ。人間に捕まらないようにしてるニャ、親切な猫じぃにも身体を触らせないニャ。おいら、子猫の世話をする為にあそこに残ったニャ」
ジュリは責任を持って子猫を説得するつもりでいる。
「ちゃんとチビを見張ってないと、母猫を探しに勝手に外に出るかもしれないニャ。夜中にウロウロして車に轢かれるかもしれないニャ。あいつ、里親を見つけてやると言っても、母親を待つと言ってるニャ。母猫が死んだことを理解するまで側にいたいニャ」
由布子は朱里の身体の中にいるジュリに向けて微笑む。
「そうなんだ。そういう理由があったんだね。それなら、あたしも応援するよ。今夜は、ここに泊まろうか。チビは人間を警戒してるから、あたし達がここにいる間はどこにも行かないと思うわ」
いっそのこと、ここで野宿をしようとかと話していたのだが、絨毯に大きなマダニがいるのを見つけた由布子は慄いた。
「駄目だわ。この家には変な虫がいる。これに噛まれると死ぬほど痒いんだよ。ここにいるのは良くないわ」
しかし、由布子も哀れな子猫のことが気にかかる。
「そうだ。こうしょう。すべての出入り口を塞いでたら、子猫も外には出られないよね。ごはんと水は、まだあるんでしょう?」
「うん。あるニャ」
「あんたの猫の体はここに置いておくね」
猫のジュリはスヤスヤ寝ている。その中には人間の朱里がいるらしい。
「おいらが目覚めたら、チビにもう一度、話してみるニャ。由布子も、あいつの里親を探してくれるよニャ?」
「何なら、あたしが飼ってもいいよ」
「フニャー。それは駄目だニャ」
「どうして?」
「由布子の布団で寝るのは、おいらだけニャ。それに、おいら以外の猫の抱っこは禁止だニャ。おいらも、由布子以外の人間に抱っこさせないニャ。一生、おまえと添い遂げるニャ」
「添い遂げるって、夫婦みたいなこと言ってるよ」
前々から、ジュリが嫉妬深い猫だという事に由布子も気付いていた。
「はいはい、分かったよ」
由布子にとっても、ジュリは特別だ。いつまでも一緒に暮らしたい。けれども、それは運命が許さないようなのだ。
☆
その夜、再び、三井とジュリ(外見は朱里)と由布子は川の字で眠った。
「あらあら、坊ちゃま、やっぱり、由布子様と一緒にいたいんですね。んふふ。ほんと、前にも増して仲良しですね」
三井が言うように、ジュリはいつになく甘えん坊だった。スリスリ。スリスリ。
「おいら、由布子のこと大好きだニャ。由布子のニオイを嗅いだら安心するニャ」
そう言いながら、由布子の枕や由布子のスリッパに頬を押し当てている。スリスリ。スリスリ。ネバーエンディングのスリスリを繰り返している。
「いい子だね。いい子はねんねしなさい。早く、ゴミ屋敷の猫のジュリの身体に戻りなさい。でないと、チビ猫が寂しがるよ」
ガラクタで溢れたゴミ屋敷のどこかに、小さな猫が母猫を想って待ち続けている。そう想うと胸が痛くなる。一人ぼっちの夜の孤独を由布子もよく知っている。
今頃、子猫が寂しさに震えて鳴いているかもしれない。
☆
NNN。ネコネコネットワーク。猫による猫の為の互助会である。
ジュリには大いなる使命がある。自分の住む街の孤児を守ってやりたい。その為なら身体を張ってみせる。
寒くても辛くても、ジュリは町内の子猫を守ることを優先して生きてきた。
(早く、チビのところに戻りたいニャ)
そう願いながら眠ったというのに、次の朝、目覚めた時も、なぜかジュリは人間だった。ジュリとしては、この目でチビ猫の無事を確認したいらしい。
「由布子、おいら、猫じぃの家に行くニャ」
「待って、あたしも一緒に行くよ」
キャリーバックにジュリの身体とチビ猫を詰めるつもりで準備をしていると、なぜか、坂元が来た。
「おやおや、二人でどちらに行かれるのですか」
「坂元さん。この子、今は猫のジュリなんです」
「そんなの、見れは分かります」
ジュリは靴ベラの使い方が分からない。スニーカーを踏みつけたまま馬鹿面で立っている。しかも、朝、食べたパンの粉が胸についている。
「いくら中身が猫でも、一歩、外に出たなら夏目家の御曹司なのですよ。身だしなみは、きちんとしていただかないと困りますね」
ササッ。粉をはたき、ジュリの髪を整えた後、坂元は言った。
「本日の午後三時には、千里様と共に某国の大使館のパーティーに出席する事になっています。余裕を持って午後一時には帰宅しておいていただきたい。出かける前にタキシードに着替えていただきます」
由布子は首を振る。
「駄目ですよ。今朝、まだ中味は猫のジュリなんです。パーティーなんて無理です」
「前に百合様のパーティーに出たではありませんか。今回は、前のようにスピーチをする必要もありませんから、中身が猫でも特に問題ありません。もちろん、あなたもパーティーに付き添っていただいて構いません。猫が暴走しそうになったなら引き止めて下さい。あっ、そのパーティーには乙姫様の母上も参加するようですよ」
「また、パーティーですか」
やれやれという感じだ。
「明日、西川さんが連れてくる陰陽師とやらが、本当に優秀なら、こんな気苦労も今日限りで終わりますよ」
坂元は超常現象に関しては、今でも懐疑的なのだが、それでもやるしかない。
坂元が念を押すように言う。
「時間厳守ですよ。いいですね。帰って来ない場合は迎えに行きますからね」
どこに行くのかと問われたので由布子は正直に答えた。
「岸辺老人のゴミ屋敷に残してきた子猫を救いに行きます」
「そんなもの、ペット探偵の仁科に頼めばいいものを……。彼はプロですよ」
「おいらの方がチビのこと、よく分かってるニャ。あいつ、いつも、天井裏で寝ているニャ。人間のこと信用してないニャ」
ジュリがそう言うと、坂元は鼻先で笑った。
「その姿で行っても無駄だと思いますけれどね。仕方ありませんね。運転手の柴田が有休をとっておりますので、わたしが、そこまでお送りしますよ」
☆
由布子達が、そんなふうに話していた頃、工藤の仕掛けた発火装置が稼働していたのである。
坂元の運転する車で岸辺老人の自宅の近くまで来た時、ジュリは顔色を変えた。
「クンクン。おかしいニャ。何か焦げたようなニオイがするニャーー」
由布子と坂元は何のことなのか分からない。だが、ジュリの様子はピリピリしている。
「おいらをここで降ろすニャ」
ジュリが焦れたように車から飛び出すとゴミ屋敷へと突っ走った。
「何なのですか?」
坂元は、そう言いながら岸辺家の前の道路でベンツを停める。そして、訝しげに岸辺老人のボロ屋敷を見つめた。ジュリは裏口にまわると踏ん張るようにしてドアノブを回している。
どうしても開かないものだから、ジュリは焦っている。
「戸が開かないニャ。中に入って確認したいニャーーー」
「待って。昨日、あたし、裏口の鍵をかけて立ち去ったんだよ。ドアを壊さないでよね」
ドアごと外してしまいそうでハラハラする。岸辺老人から託された合鍵を手に由布子は裏口を開けると、ジュリは勢いよく家に飛び込んだ。
何しろ、この家はゴミだらけ。猫が隠れる場所はたくさんある。
「チビ助ーーーーー。隠れてないで出てくるニャーーーーー」
ジュリの後ろを歩いていた坂元が目を眇めた。
「何か焦げたようなニオイがしますよ。火事でしょうか。まだ火の手は見えませんが、奥の方がキナ臭いですね」
由布子は消火器を探したのだが、そんなものはどこにもない。
煙のニオイがどんどん強くなっている火元は玄関の脇の部屋のようだ。由布子はハンカチで鼻と口を押さえる。
(コンセントに埃が積って発火とか、そんな感じかもね)
だが、まだ、この状態ならばボヤ程度で済みそうだ。
ダンボールに詰め込まれた書類のようなものが燃えている。
そうだ。ヤカンに水を汲んでかけたらどうだろう。駄目だ。肝心のヤカンが見付からない。
確か、前に来た時、工具やら懐中電灯の横にペットボトルが置かれていたっけ。
そう思い、由布子がペットボトルに入っていた水をかけたところ、なぜか、火が大きくなっている。坂元が言った。
「油ですよ。火に油を注ぐとはこのことですね。まったく、困ったお嬢さんですね。ちゃんと確認したらどうですか」
「だけど、なんでペットボトルに油が入ってるの? 意味、わかんない」
その間、ジュリは狂ったように家の中を歩き回りながら叫んでいる。しかし、そんなジュリの背後から坂元は忍び寄る。なぜか、彼は、手にしていたスタンガンでジュリを気絶させたのだ。それを見た由布子は顔色を変えた。
「何をやっているんですか!」




