第十二章 2
スタスタと進みながらも朱里は暗い顔つきになっている。
向日葵公園。そこは地域猫の溜まり場である。朝と夕刻、ボランティアスタッフがここを訪れて餌やりとウンコの後始末をしてくれている。
バス停のすぐ近くにあるコンビニ。そのすぐ目の前には横断歩道がある。そこを渡り切ったなら、公園の北側の入り口へと辿り着く。
目の前にあるのは何の変哲も無い横断歩道だ。
朱里がコンビニの建物を背にしたまま言った。
「あの夜、ここで、オレはおまえの猫と出会った。おまえの猫は足から血を流して蹲っていた。咄嗟に助けなきゃと思って抱きかかえた。移動しようとしたのに、何かが足に絡み付いて動けなかった。闇の底から、ヌラリヌラリとと不気味な触手が伸びたかのようだった」
思い返す朱里の声には怯えのようなものが含まれている。
「怖かった。見えない何かがオレを足止めしていた。きっと、ここで亡くなった霊がオレを殺そうとしたんだ」
「ちょっと、やめてよーーー。この交差点でそんな事故の話なんて聞いたことがないよ」
しかし、よく見てみると交差点近くの木の根元に花束が置かれている。まるで、誰かの死を悼むかのようである。
「えっ、ほんとに、ここで誰か亡くなったの?」
「花束を置いたのは方子さんだ。毎年、あの人はここに来ている」
その瞬間、由布子は心臓を握り潰されたかれたようなショックを受けた。
「ここで霊障があったと仮定しよう。つまり、どういうことなのか分かるよな?」
方子さんの子供の霊が朱里を殺そうとした事になるのだろうか?
「そんなのおかしいよ。これまで、何度も、夏目さん、この横断歩道を渡ってるんでしょう? それでも、事故に遭ってないよね?」
「あの夜、おまえの猫が流した血を見て、オレは咄嗟に方子さんの姿を思い浮かべた。多分、心の傷の隙間を見つけて霊が入り込んだんだ。そうとしか思えない」
朱里は、方子のお腹の子が死んだのは自分のせいだと思っている。だから、そういうふうに考えるのだろう。けれども、由布子は首を振る。
「そんなふうに考えるのは亡くなった子に対して失礼だよ! しっかりしてよ。夏目さん」
バーンッ。
威勢よく、由布子は朱里は頬をはたく。
「方子さんの子供は悪霊なんかじゃないわ! だって、方子さんが、こうやって、毎年、ちゃんと我が子を思ってお花を置いているんだよ! 母親から、こんなにも愛されているんだから悪霊になんてならないよ!」
パーンッ。
なぜか、由布子は、もう一発、盛大に頬を叩いていた。往復ビンタ状態だ。
「悪霊退散!」
「おまえ、今、方子さんの子は悪霊にならないって言わなかったかぁ~」
「だーかーらー、ここで死んだ野良猫の霊がいるかもしれないじゃん。公園で、毎年、たくさんの猫が死んでるからね。うちのジュリのことを嫉んで、ジュリを殺そうとしたのかもよ」
「いや、そんなことない。猫は他の猫を妬まない」
「そんなの分からないよ。だって、うちのジュリには金玉があるんだもん。獣医に金玉をとられて無念を残した去勢猫の霊魂が、ジュリのことを呪ったのかもしれないよ。ウジウジと悩んでばかりの金玉のちっせぇ人間になっちまえってね」
「はぁーーーー。言っていいことと悪い事があるぞ。オレの金玉は小さくない!」
「いいえ。うちのジュリよりも小さいですぅーーー」
「おまえ、見たのかよ」
「見なくても分かりますぅ。あんたは肝っ玉がちっせぇわ」
「おい、てめぇ、生意気だぞ。オレを誰だと思ってる」
「しけた顔をする御曹司ですぅ。ほんと、ウジウジしちゃって嫌になる。夏目さんは、もういい加減、過去を乗り越えるべきだよ。しっかりしてよ」
そう言うと、由布子は花の様に微笑む。フルッと髪を風になびかせて朱里の手を引いた。
フアッ。由布子の長い髪が風に溶け込んでいる。
「春を楽しもうよ。ここ、色んな花が咲いてて綺麗だよ」
由布子も、この公園にはよく遊びに来ている。
「土曜と日曜は、公園のパーキングエリアでアイスクリームとワッフルを販売してるんだ。食べようよ。奢ってよ」
二人は芝生に腰掛けながらアイスクリームを舐め始めた。
「このアイスクリーム、レトロなの。お祭りの屋台とかで売ってるやつと同じだよ」
ジャリンッ。シャーベットのような食感が喉に心地いい。
「オレ、子供の頃、三井さんとお祭りを観に行ったことがある。三井さん、金魚すくいが上手なんだ。オレさ、綿菓子が大好きなんだけど、最近は、お祭りとか行ってない」
「どうしてよ」
「さすがに思春期になると、ばぁやとお祭りには行けなかった。かと言って、恋人もいなかったしな」
「うっそー。彼女いないの?」
「適当に遊ぶだけの相手ならいたさ。だけど、今まで、本気で誰かに夢中になったことはないんだよなぁ。やっぱり、お祭りって、マジで好きな人と行きたい。まぁ、オレのことマジで好きになる女もいない。みんな、金目当てだ」
「お金も魅力のひとつだよ」
「おまえも金持ちが好きなのか」
「人並み程度にはないと困るかな」
「オレってバイトをしたこともない。自分で稼いだこともないんだぜ。親が金持ちなだけなんだよな。そういうの、おまえから見たらカッコ悪いよな?」
「別に、そんなことでコンプレックスを持つ必要はないと思うよ。就職したら、夏目さんも苦労するよ。だって、経営者って大変そうだもの」
「そうだな。親父を見てたら、すげぇなって思うよ」
「そうだね。みんな大変だよね」
キラキラ。
由布子の笑顔と公園の噴水の飛沫。どちらも、かけがえのない輝きを内包している。キラキラ。唐突に朱里の中にこみ上げるものがあった。
その衝動が何なのか朱里にも分からないというのに由布子の手を掴んでいた。
「多分、今、おまえのことが好きだ」
「はぁ?」
由布のアイスクリームを食べる手が止まった。朱里の声は熱を帯びている。
「瀬戸由布子。おまえと付き合いたいと思っている」
「えっ、あの、今、このタイミングで言われても困るんたけど」
「嫌なのか?」
「先刻、多分、好きって言ったよね。その多分っていうのが気になるわぁ~」
「オレにも、この気持ちが何なのか分からないんだよ。なんつーか、おまえは、他の女とは何もかも違うからな。おまえは、オレのマイ・フェア・レディだ」
「あたし、愛人にならないからね!」
「違う。おまえ、その映画を誤解している。あれは、清く正しいラブストーリーだ。オードリー・ヘップバーンに謝れ!」
「あのね、あたしが言いたいのはこうなの」
ロマンチックな映画のように、現実は身分の差を越えられない。
「あたしは、誰かと付き合うなら結婚も視野に入れたいの。だけど、あたしみたいな庶民は夏目さんの正妻になれないでしょう。それこそ、坂元や方子さんが反対するよね。おまえのような庶民は愛人の地位で我慢しろって言うに決まってるわ」
夏目家の跡取りの朱里は自分で結婚する相手を選べない。
「いや、オレが、そんなことをさせない。おまえを守ると誓う」
「仮に、あたしが正妻になれたとしても、子供が産めなかったりしたらどうなるの?」
「その時は、親父の遠い親戚の者が後継ぎになればいいさ。礼馬って人がいるらしいよ」
公園の芝生でピクニックをする親子連れに視線を向けたまま言う。
「贅沢なことなのかな。オレ、普通の家族を作りたいんだ。ちょっと怖い妻がいて、可愛い娘と息子がいて、休日、親子でどこかに出かける。そんな幸せが欲しい。その為なら、どんな苦労も厭わない」
「……」
なぜ、そんなに熱心にこちらを見つめるのかと、由布子は問いかけたくなる。
あたしは、あなたに優しくした覚えはないよ。
なぜ、自分を好きだと思うのかよく分からないけれど、気持ちは伝わった。
「ありがとう。だけど、その前に、ジュリと夏目さんの魂を元の位置に固定しないとどうにもならないよ」
「その事なんだが、もしも、この先、おまえの猫とオレどちらかの魂を選ぶ日が来たなら、迷わずに猫を選んでくれ」
「な、何を言ってんのよ」
「いや、念の為に言ってるだけだ。明日の夜、陰陽師が東京に着くらしいな。そつらの念力に期待してるけど、万が一ってこともあるからな。もしも、訳の分からない怨霊とかに憑かれているのなら、オレのことは切り捨ててくれて構わない」
「うん、分かった」
頷きながらも、由布子は嫌な予感が立ちこめて来た。
占い師のマダムは言った。ジュリは死ぬ運命だと。
もしかしたら、除霊に失敗してしまうのだろうか。そして、ジュリは殺されてしまうのだろうか。
(そんなの考えたくない)
由布子が思い詰めているというのに朱里が眠そうに欠伸をしている。
「いい天気だなぁ。なんか、眠くなってきたな」
朱里は由布子の膝枕で眠り始めている。
「ずーっと昔、ここで、こうやって誰かの膝枕で寝たことがある。多分、オレの頭を優しく撫でていたのは流産する前の方子さんだと思う。いや、代理母のフーだったのかな。三井さんだったのかな。それとも、メイドのシオンだったのか。よく覚えてないけど、とてつもなく幸せだったな」
デイドリーム・ビリーバー。それは、あまやかな記憶。
幼い頃、自分は色々な人に大切にされていた。みんな、温かく包んでくれた。
「オレ……。生まれてきて良かった」
この世界は夢と希望に溢れていると言いたげな表情のまま眠りに落ちた朱里。
その寝顔を由布子は注視する。そして、困ったように呟いた。
「夏目さん、先刻の告白、本気なのかな」
ハッキリ言うと、由布子の中では朱里に対する気持ちは曖昧である。この人が傷付いていたら胸が痛むし、何とかしてあげたいと思うけれど、この気持ちは何なのか定かではない。
好きとか恋とか、そういうフアフアしたものとは違う。
それでも、こうやって寝顔を見ていると額にキスしたいような不可思議な気持ちになって胸が揺らぐ。
もしかしたら、これは母性のようなものなのかもしれない……。それとも、バディの感覚になっているのだろうか。
どちらにしても、夏目朱里から目が離せない。
どんどん気持ちが吸い込まれていくかのようだ。
☆
チクタク。チクタク。
時計の針は進む。
それは、由布子の膝枕で朱里が寝落ちした十五分後の事だった。
「フギャーーーーー。大変だニャーーー」
いきなり、奇妙な声をあげて朱里が半身を起こしたものだから、由布子はギョッとなる。昼下がりの公園での奇声はやめていただきたい。
「な、何なのよーーー」
「由布子、大変だニャ。猫じぃが転んで頭から血を流してるニャーーー」
語尾がおかしい。
「あんた、ジュリなの?」
またしても、ジュリが朱里の肉体に憑いたようである。睡眠が入れ替わりのスイッチになっていることは間違いなさそうだ。
どうしたのだろう。キョロキョロしながらジュリは慌てふためいてる。
「猫じぃか苦しそうにしてるニャ。早く、助けなきゃいけないニャ」
「わ、分かった。行くよ」
幸い、ここから猫じぃの家までは徒歩圏内である。
由布子は健脚だ。ダッシュで走れば五分もかからない。
由布子は、裏口から飛び込むと、ガラクタの山を乗り越えて岸辺老人を探し出す。彼は、ちゃんと生きていた。しかし、額から血を流している。しかも、顔を歪めたまま痩せた胸を押さえている。
「お、おまえさん達、なんてここに」
「猫が、教えてくれたんです」
「おおっ、トラ次郎がおまえさん達を呼んだのかね。賢い猫だな」




