第十一章 2
正直なところ、夫の千里の愛人に対する嫉妬心はない。なぜなら、夏目家とはそういうものだと心得ていたからだ。
わたしの人生は何だったのだろう。
(母親になってみたかったわ)
胎児が逝ってしまった日をはっきりと覚えている。
(今日がその日だわ。雨に打たれながら、我が子を亡くしたのよ)
二度と子は望めないと知った直後に舅は朱里の存在を方子に告げた。
朱里が夏目家に来てからは意図的に距離を置き、家政婦の三井と若いメイドに任せてきた。
やたらと明るいメイドの名前は安斉詩音。シオンと呼んでねと、朱里にタメ口を叩くようなチャラい女だった。
三井とも仲良くやっているようだが、シオンという女は信用ならないと思っていた。
朱里が庭の木に登る様子を呑気にスマホで撮るような奴である。
『坊ちゃま、頑張って~』
夏目家の跡取りが木から落ちたらどうするのか、まるで考えていない。だから、あの時、方子は厳しい声で叫んだ。
『何をしているの! 危ないから降りなさい』
あの時、シオンは申し訳ありませんと言いながらも、不服そうな顔をしていた。
後日、シオンは友人に話していた。
『はぁー。うざ。まじでうざいわ。奥様が、坊ちゃんのやることなすことやめろって言うんだよね~ そりゃ、木登りは、ちょっとだけ危ないかもしれないけどさぁ。マットレスを敷いてるんたよ。心配ないっつーの。それでさあ、公園で坊ちゃんがジャングルジムに登るのも禁止するんだよ~ 他の子は登ってるのにさぁ~ ありゃ、完全なるパワハラだわ。ていうか、典型的な継子いじめよ』
シオンという馬鹿娘は何も分かっていない。その昔、方子の同級生の男の子がジャングルジムから落ちて腕を骨折している。
庭で花火をするにしても、シオンは朱里の顔の前で花火を振り回して踊りながら笑っていた。あの時、方子の背筋が凍った。
もしも、火の粉が朱里の目に入ったらどうするのだ。厳しい顔で詰め寄った方子はシオンの頬を打ってやった。
『おやめなさい』
シオンは恨みがましい目でこちらを見つめた。朱里は俯いたまま、おばちゃん、ごめんなさいとうなだれていた。まだ五歳だというのに聞き分けのいい子だった。
当時の朱里は黒猫のキキを飼っていた。猫の世話をするのもシオンの役割なのだが、シオンは、何かにつけてだらしない女だった。
方子は言い渡した。その猫を、毎週、きちんと洗いなさいと。しかし、シオンは猫は清潔な生き物だからそんなに洗わなくてもいいと言い放ったのである。
生意気な女だというのに朱里はシオンにく懐いており、シオンをお姉ちゃんと呼んで抱きついたりする。
シオンの方もまんざらではないような顔をしていた。
方子はシオンと朱里が仲良くしている様子を見ると無性に腹が立った。
『僕ね、いつもキキと一緒に寝るんだ』
それは朱里が夏目家に入った二年後の事である。
朱里の大切な黒猫は痩せ始めた。そして、なぜか、朱里も痩せたままで体重が増えない。それどころか、猫も朱里も下痢を繰り返すようになる。
医師に診せたところ、食あたりだと言われて唖然となる。
ベテラン家政婦の三井の作る食事に不備があるとは思えない。同じものを食べている三井とシオンは何ともない。では、何が原因なのか?
不審に思った方子は朱里の部屋にペット用の見守りカメラを設置したところ、とんでもない事が分かった。
何と、朱里は猫用の干し肉やカリカリをおやつとして食べていたのである。
アパートにいた頃、お腹が空いて死にそうな際に猫の餌を食べていた癖が、今も抜けていなかったのだ。
人間が食べても大丈夫とは限らない。本館のリビングに朱里を呼んだ時、朱里はひどく顔を歪めて苦しそうにしていた。
『どうしたの?』
方子が顔を覗き込むと大粒の涙を目に浮かべたまま伝えた。
『おばちゃん、ごめんなさい。うんち、もらした』
スボンの肛門の辺りが黄色に染まっている。
とても恥しそうに申し訳無さそうにしている姿が可愛かった。
思わず、方子はプッと吹き出してしまった。
『別にいいわよ。坂元と一緒にお風呂へ入って着替えなさい』
いずれ、朱里の下痢は治るだろう。いや、まてよ。黒猫もやけに痩せている。
方子は、慌てて猫の餌の臭味期限を確認したところ、とっくの昔に期限は過ぎていたのだった。思わず、方子はその餌を大理石の床に叩き付けていた。
『そんな古い餌を食べたら人間はもちろん、猫も痩せるわよ!ー』
いくら老眼であろうとも三井は、そのようなミスはしない。あの女が安い店で安い餌を買ってきたに違いない。
『まさか、坊ちゃまが食べていたなんて気付きませんでした。本当に申し訳ありません』
シオンは朱里に対しては申し訳ないと思っているようだが、方子に対しては妙な敵対心をぎらつかせている。方子はクソ生意気なシオンを許さなかった。
『あなたみたいな人は朱里の面倒を見るべきではないわ。やめてもらうわよ』
『待って下さい。あたしがいなくなったら、あの子は寂しがりますよ。あの子には、あたしが必要なんです』
なんですって。方子は思わず拳を握った。
この女は、使用人のくせにまるで母親気取りである。即刻、クビにすると決めた。
その時、朱里と共に風呂から戻ってきた坂元が報告してきた。
『方子様、朱里様の背中には蚤に噛まれた後がありましたので、痒み止めの軟膏を塗っておきました』
な、なんですって。蚤ですって! 昔、蚤を媒介して恐ろしい病が流行ったことがある。黒死病とかなんとか、そんな感じの病だったように記憶している。
『今すぐに、黒猫のキキを屋敷から追い出すのよ。今後、この館ではすべての動物の飼育を禁止します。いいわね』
その日を堺にして黒猫とシオンは夏目家から消え去ったのである。獣医に診てもらったところ、黒猫の腹には寄生虫がいた。だから、あの猫はガリガリだった。
本来なら、飼う前に野良猫に色々な検査や注射をするものである。朱里の母親はとんでもない女だ。あんなだらしのない愛情の無い女のことを朱里は愛していたのだろうか。お風呂から上がって、すぐに寝てしまった朱里はソファで寝言を呟いていた。
『ママ……。どこにいるの? 僕、いい子になるよ。早く帰って来てよ』
すでに国外退去となっている。二度と、あなたに近寄らせたりしない。あんな女はあなたに相応しくない。方子はそう思っている。
『キキー、どこにいるの?』
キキとシオンは同じ時期に、朱里の前から消えた。朱里はキキを探そうとして家を抜け出たこともある。
ちなみに、黒猫は、坂元の知り合いのホステスが高級マンションで飼っているのだが、朱里には秘密にしている。
方子は成人した朱里の寝顔を見つめたまま我知らず呟いていた。
「天国の我が子の為にも、あなたを突き放すと誓ったの。あなたなんて大嫌いよ。そうでないと駄目なの。一番に愛しているのは失った我が子でないといけないのよ。あなたなんて嫌いなのよ!」
言葉と表情が合っていない。どう見ても、方子の濡れた瞳には朱里への慈愛が溢れている。
(あんな小さい子が、こんなに大きくなるなんてね。わたしも歳をとるはずだわ)
あれから何年も経過している。アポロンのように凛々しい父親の千里の背を越えている。
(確か、この子は百八十二センチ。体脂肪は十二パーセントだったわね)
方子は震える声で呟いた。
「流産していなかったら、あなたを可愛がることが出来たのかもしれないわね」
方子は、朱里の額にこびりついている泥の破片のようなものを見つけたので、そっと、ハンカチで拭おうとする。その時、朱里の右手がスッと伸びた。方子の手首を掴んでいる。
「僕は、おばちゃんに愛されなくてもいいニャン。僕は、おばちゃんのことが大好きだニャン。綺麗で優しいよ。ずっと好きだニャン」
「えっ」
朱里は、いつから意識を取り戻していたのだろう。至近距離から見る朱里の瞳は澄み切っている。五歳の頃と何も変わっていない。
語尾にニャンをつける朱里は、まるで幼い子供のようにあどけない。
(頭を打ったせいなのね。あたしが、どんな仕打ちをしたのか忘れているのね)
方子を見つめたまま朱里は懇願するように呟いている。
「泣かないで。僕、おばちゃんの涙を拭いてあげるニャン」
朱里がパジャマの裾で方子の涙を拭う。拭き拭き。それに対して方子は顔色を変えると、慌てたように、その手を振りほどく。
「泣いてないわよ。あなた、馬鹿みたいにニャンニャン言うのはやめなさい。みっともないわね! いいから、早く元気になりなさい!」
それだけ言うと、方子はそそくさと病室から出て行った。しかし、方子の心臓はバクバクしている。初めて会った日から朱里は自分に懐いていた。あなたはお腹を空かせていないか。転んで泣いていないか。気になって仕方なかった。
『おばちゃん! おばちゃん!』
一途に、まるで保護者を求める子猫のように方子を求めてくれる。だから、方子も公園に行かねばと感じていた。
方子は、見え透いたお世辞は嫌いだ。己の容姿が凡庸なことぐらい分かっている。
だけど、朱里に綺麗で優しいと言われると、ついつい頬が緩む。
方子は、一度も朱里の運動会を観に行ったことはない。それでも、運動会で走る姿は知っている。朱里の同級生のママが取った動画が送られてくるからだ。
坂元のおかげで、高校生の頃、朱里が何人の女子に告白されたかも把握している。方子は朱里のことが気になって気になって仕方ないのだ。
初めて会った日から、ずっと朱里への気持ちが溢れている。
(いっそ、このまま、ずっと、あどけない子供のままでいればいいのにね)
色々な感情に揺さぶられて涙目になりながら、朱里の意識が回復したことに安堵している。
素直になれない方子は、十二年前の母の日に朱里がお年玉で買ってくれたディオールのハンカチで目元を拭ったのだった。
☆
目を潤ませながら方子が去った後、朱里が瞼を開いた。
『天国の我が子の為にも、あなたを突き放すと誓ったの。あなたなんて大嫌いよ。そうでないと駄目なの。一番に愛しているのは失った我が子でないといけないのよ』
先刻、その独白を聞いてホッとした。やっぱり、おばちゃんはいい人なんだ。これまでの方子は辛い思いをしてきた。その孤独を癒してあげたい。
「別に、オレは二番目でも最下位でもいいんだよ」
朱里は泣き笑いの顔をしている。
(あなたの子供の命を奪ってしまったのはオレなんだ。あなたはオレのせいで哀しい想いをしているんだ。ごめんなさい)
いつか、あなたの心の傷が癒える日が訪れてほしい。あの事故以来、あなたは微笑みを無くしている。いつか、朗らかに笑う方子の顔を見たい。
朱里は、そう思いながら、ゆっくりと起き上がるとパジャマを脱いで着替え始めたのだった。
☆
昨日の夕方、猫じぃのゴミ屋敷でカリカリを腹いっぱい食べていると、黒猫の親子が入ってきた。母猫はゲッソリと痩せていた。
猫じぃの家は、野良達の餌場だ。
餌が欲しい時、ブラッと黒猫がやってくる。ゲージの中にいた時のジュリは病気でぐったりしていたので、黒猫と話した事はないが、今なら話せる。
どこか身体が悪いのかと問いかけると、母猫が言った。
「あたしは悪い病気なの。多分、もうすぐ死ぬわ。この子は生後二週間よ。あなた、立派な金玉ね。素敵だわ。狩りの仕方をこの子に教えてやって。一人でも生きていけるようにしてあげて」
「それなら、おいら、この子の里親を見つけるニャ」
「いいえ。あたし達みたいな黒猫は人間に嫌われるのよ。欲しがる人なんていやしないわ。真っ黒で可愛くないって人間は思うに決まってるわ」
「そんなことないニャ。猫じぃなら飼ってくれるニャ」
「あなた、馬鹿ね。あたしの前の飼い主もヨボヨボの年寄りだったわ。あたしが二歳の時に死んでしまったのよ。あたしのこと加奈子と名付けていたわ」
この猫の飼い主は高齢のホームレスだったという。ちなみに、加奈子というはホームレスの元嫁の名前である。
猫の加奈子は飼い主を無くした後、野良として何とか生きてきたが、長年の苦労が祟って憔悴している。これまで、加奈子は残飯を食べて生きてきた。
誰かが捨てたパスタンや腐った米も食べる。そんな食生活を続けると、たいていの猫は身体を壊していく。
そんな中、初めての出産を体験した。春に三匹産まれたが、生き残ったのはこの子だけ。他の子は生まれた時から腐ったような臭いがしていた。
寒さを凌ぐねぐらがある野良なんて、ほんの一握り。みんな、冬は命がけである。子猫を野良にするべきではない。
「それなら、若い人間の飼い主を探すニャ。それまでは、おいらが、この子を守ってやるニャ」
「あなたは紳士ね。くれぐれも、うちの坊やを頼んだわよ」




