第十一章 1
次に目覚めた時、夏目朱里の意識を乗っ取っているのは猫のジュリなのか、それとも人間の朱里なのか……。
(脳震盪だってお医者様は言ってるから、そのうち目覚めるよね)
朱里の身体が病院に運ばれたのが日曜の午後。三井は、そのまま病院に泊まりこんで世話をすると言っている。
夕刻、夏目家の別邸に残り、一人で過ごしながら由布子は考えていた。
ジュリと朱里の入れ替わりについて分かった事がある。ジュリが朱里の身体にいる時、猫のジュリの身体は停止しているみたいだ。
(今度、ジュリが夏目さんの身体に入ったなら、どこに隠れているのか聞き出すしかない。坂元は手強い。
(西川さんの力を借りて、こっちもボディガードを雇うべきなのかもしれないな。うん。そうしよう)
☆
その頃、ジュリは向日葵公園の砂場でオシッコをしていた。
ジャーーーーッ。野糞はしないと心に誓って生きてきたけれど、オシッコは我慢できなかった。
腹が減っている。何か食べたい。公園にいた鳩を食べようとしたけれど、その時、地域猫を見回るボランティアさんが来た。
『みんな、御飯よ~』
おば様達の登場に媚びるように、猫達がミャーミャーと鳴きながら集まった。
他の猫と共に安価なカリカリを食べる事にしたのだが、ボランティアのおばさんがジュリを見つけて声をあげた。
「あらあら、迷子のジュリちゃんよ。飼い主さんに知らせてあげなくちゃ。金玉を見て、ジュリちゃんで間違いないわよ」
もう一人のスリムな体型のおばさんもジュリに手を差し出している。
「いい子ね。おばさんが、だっこしてあげるわよ」
しかし、これらの善意の笑みも、今のジュリには不気味に映る。
(何をするつもりニャ。こいつらも、おいらの金玉を狙ってるのかニャ?)
金玉は狙っていないが、飼い主さんの為に捕獲しなければと気合が入っている。いい人なのに緊張感を敵意と勘違いしたジュリは回れ右をしてヒューッと逃げた。
(どこかに隠れなくちゃ。おいらの金玉がなくなっちまうニャ)
夕暮れの街をジュリはあてもなく歩いていた。
(うえーんーー。腹ペコだニャ~ 喉が乾いたニャ)
不安な気持ちでトボトボと歩いていると、背後から声をかけられていた。
「おおっ、おまえ、こんなところにいたのか」
振り返ると、そこにいたのは猫じぃだった。
岸辺老人は、昨日、退院して自宅に帰ったばかりである。なぜか、自宅から飼い猫がいなくなり、落ち込んでいるところなのだ。
(わしの留守の間、カリカリがなくなったので逃げたのかもしれないのう)
タマとホームズの名を呼びながら町内を練り歩いた後、ジュリと遭遇したものだから、感極まったように泣き出していた。
「おおっーーー。帰ってきたんだな。偉いぞ。トラ次郎。どうしたんだ。わしが留守の間、何があったのだ。タマとホームズがおらんのだよ」
ニャニャ。ニャッ☆ ジュリは、痩せ細っている猫じぃに挨拶をするように短く鳴く。
トラ次郎。まさか、そのようなダサい名前がつけられていたとは。
『おいらはジュリだぞ。野糞をしない賢い猫だぞ。よろしくニャ☆』
親愛の証としてピーンと尻尾を立てているジュリに対して、岸辺老人は目を細めている。
「脚は治ったんだな。トラ次郎、腹が空いたのか? さぁ、おいで」
猫じぃのゴミ屋敷は十五分ほど歩いた先にある。
ジュリは枯れ草のように痩せ細った猫じぃを見上げながら、トコトコと付き添うようにして歩き続けていく。
どこからもなくカレーの匂いが漂ってきた。この辺りは古い住宅が密集している。
ひとまず、猫じぃのゴミ屋敷に隠れようと判断したのである。
☆
深夜、坂元は暗い目付きで疑心暗鬼に陥っていた。
「なぜだ。なぜ、綾小路家の西川が瀬戸由布子のトラ猫の捕獲を邪魔するのだ?」
考えられるのはこれしかない。乙姫の婚約者候補の礼馬を夏目グループの総裁にするつもりなのだ。
朱里に猫の魂が憑依している状態で、猫の本体を殺せば誰にもバレることなく、夏目朱里の魂をこの世から抹殺できる。もちろん、身体は残る。しかし……。
(小汚い猫などに、夏目グループの経営など到底無理だ)
そうなると、自動的に礼馬の天下となる。
急に、瀬戸由布子に接近して親しげに接しているのもおかしいと思っていた。あの女は、瀬戸由布子を油断させて猫を捕まえる気なのだろう。
西川のせいで台無しだ。今の坂元は、ジュリがどこに逃げたのか見当もつかない。
ちなみに、お笑い芸人の安井はおまわりに話したようである。
『金持ちの執事に、金玉のデカイ猫をひったくるように命令されたんたよ』
しかし、坂元は夏目家の力を行使して交番勤務のおまわりの調書を捻じ曲げている。
フン。安井のような小物のことなど、どうでもいい。用済みだ。気になるのは女狐の西川の動向だ。
調査によると、ミニクーパーの美脚の女と西川はコミケで知り合っているらしい。西川が、いい歳をしてBLとやらに熱中しているということは前々から知っている。
(クソッ。西川よりも先に猫を見つけ出さないと大変な事になるぞ)
こうなったら、夏目家の底力をフル稼働してでも、西川の動きを封じるしかないと思い詰めていたのだった。
☆
夏目朱里は、夏目家との縁が深い総合病院の豪華な個室で眠っている。
昨夜、家政婦の三井は、一晩中、ここにいたらしい。高齢の三井に看護をさせるのは酷だと分かっているけれど、三井がそれを望んだのだった。
しかし、五分前、三井は洗濯物を取りに夏目家へと戻ったのである。だから、方子は三井と入れ替わるようにして病室へとやって来た。
方子は朱里の寝顔を見つめながら、百合の誕生日パーティーで朱里が言った言葉について考える。
『おいらの新しい母ちゃんは、おいらが危険な目に遭わないように、いつも頑張ってくれる』
『おいらが、ちっちゃい頃、うっかり絨毯の上でウンコを落としたけど、おいらのこと、叩いたりしなかった。おいらのウンコトレーニングに根気強く付き合ってくれた』
朱里の本心なのだろう。嫌味を言うような子ではない。方子が、母に捨てられて痩せ細っていた朱里と再会したのは夏目家のリビングだった。あの時、朱里はキラキラとした目で方子を見つめて嬉しそうに叫んだ。
『おばちゃん! 生きてたんだね』
まさか、あの可愛い坊やが夫の愛人の息子だったなんて。




