第十章 3
マダムは驚いたように目を瞬かせている。
「あら、いやだ。もしかして、このハンサムボーイは猫ちゃんなの?」
「えーっと、何と言いますか」
初対面の相手に向けて、『ジュリと夏目朱里の魂が入れ替わっています』と呟くのはハードルが高い。しかし、カリスマ占い師のマダムは真実を言い当てた。
「あらあら、やだ、トラ猫ちゃん、あなたなのね。まぁまぁ、何てことでしょう。人間の中にいるなんてミラクルだわ」
ジュリの目を見つめて微笑むとスッと手を伸ばしている。なんと、ジュリの顎の下を撫でている。
いつものジュリならば、由布子以外にデリケートゾーンを触らせたりはしない。即刻、猫パンチする。しかし、マダムの長い指で撫で撫でされると、またたびを嗅いだかの様にトロンと目を潤ませた。
撫で撫で。コチョコチョ。マダムの長い指はエレガントで限りなく優しい。
ジュリは小鼻をヒクヒクさせながら言う。
「あうっ。あうっ。やっぱり、マダムはテクニシャンだニャ~ 気持ちいいニャ。いいニオイがするニャ。ここは天国だニャ。マダムのことは由布子の次に好きだニャ」
「あらあら、嬉しい事を言ってくれるわね。トラ猫ちゃん、あなたのお名前はなぁに?」
「おいら、ジュリだぞ。おいらは絶対に野糞をしない行儀のいい猫だぞ」
「そうなのね。とてもお利口さんなのね」
二人のやりとりを見ていた由布子は確信していた。
(この人がジュリを助けてくれたマダムなんだ。ここにジュリの本体がいるんだわ)
由布子が尋ねる前にマダムは静かに呟いた。
「あなたの探し物はここにあるわよ。でも、まずはお茶でもいかが」
応接間に入ると、まるで、来客を予想していたかのようにアフタヌーンティーのケーキスタンドが置かれていたのである。
さぁどうぞと言って紅茶を淹れてくれた。
「あなたが、この子を川に捨てた訳ではなさそうね。そもそも、なぜ、あなたの猫はこんなことになったのかしら」
「あなたなら信じてくれると思うので話します。実は」
由布子は、ここまでの経緯を話す。
「ですから、この子を返していただきたいんです。もちろん、この子の事は責任を持って保護します」
マダムが眉根を寄せるような顔つきで言う。
「だけど、外は危険よ。あなたの猫は命を狙われているのよ。占いを何度やっても状況は良くならなかったわ。あなた、この子を守りきれるのかしら」
「もちろん、あたし一人では無理です。綾小路家の方の力を借ります」
「それでも無理なのよ」
マダムは厳しい顔で言い切っている。
「この家から出たらジュリちゃんは死ぬわ」
「そんなことさせません」
「これは、星座とタロットカードのお告げなの。ジュリちゃんの身に破滅が迫っている。これを回避する方法はひとつだけあるの。新しい家族との暮らしを選択すれば末永く暮らせるのよ」
「えっ」
「うちのサファイアちゃんと夫婦になって、たくさん子供を作ればいいのよ。そうすれば、ジュリちゃんは長生きできるのよ」
そう言うと、今度は、マダムは、モグモグと夢中でケーキを頬ばるジュリに向かって告げた。
「トラ猫ちゃん。あなた、ここを出たら死ぬかもしれないのよ。ここでの生活は悪くないでしょう? ここにいなさい。その代わり、二度と、由布子ちゃんと会っては駄目よ。由布子ちゃと一緒にいると、あなたは死ぬ運命なのよ」
マダムは、じっくりとジュリに問いかけている。
「運命を選ぶのはあなたよ。あなたが決めなさい」
ジュリも何か感じるものがあるのか、珍しく真剣な顔で答えている。
「おいら、優しくて綺麗なマダムのことが好きだ。ツンツンしているサファイアちゃんも好きだ。だけど、由布子のことは、もっともっと好きだ。おいら。由布子と一緒でなくちゃ嫌だ。由布子は、おいらの家族だ。おいら、長生きできなくてもいいぞ。由布子の側にいるニャ」
ジュリは、自分が由布子の猫だということに誇りを持っている。
「おいら、死ぬ時は由布子の腕の中って決めてるニャ」
猫の矜持というものだ。
「おいら、由布子から離れないニャ」
「ジュリ」
うっと由布子の目頭が熱くなってきた。ここまでジュリが自分を慕ってくれているなんて嬉しくて泣けてくる。
しかし、ジュリは猫なので事の重大さを分かっていない。猫のジュリの身体が死んでも、人間として生きられると想っていたのである。
「由布子、これからも一緒に暮らそうニャ~ 牛を食べようニャ」
由布子は、そうだねと頷く。
「それなら、この子を渡すわね」
マダムはジュリの本体を入れたキャリーバックを持ってきた。
「お医者様が言うには、ジュリちゃんの体調は良くなっているのに、なぜか殆ど眠っているのよ」
「そうみたいですね」
今、猫の身体の中に夏目朱里の魂が入っているのだろうか。
とにかく、ジュリの本体を連れて連れ帰ることにする。
(色々、回り道をしたけれど、やっと会えたね。うふふ。寝顔も可愛い。モフモフのジュリに触れるのは久しぶりだよ)
マダムの屋敷を出る前に、由布子はジュリに言い聞かせた。
「今後、あんたは猫の身体に戻ると思うけど、その時、あんたに近付く人間に気を付けて。そいつに捕まらないようにしてね。これからは、勝手に出歩いたりしたら駄目だからね」
「うん。分かったニャ」
そして、玄関で靴を履こうとしていると、マダムがジュリの肩を叩いた。
「あなた、本当にいいのね? 二度と、サファイアちゃんに会えなくなるのよ。あなたは、サファイアちゃんよりも由布子ちゃんを選ぶのね?」
「……」
ジュリの心の中で揺らぐものがあった。それでも、決意したように言った。
「おいらは由布子といる! 由布子の側にいたいニャ☆」
すると、サファイアが訴えるようにして、ニャーーーーと鳴いた。切ない声だった。
バカバカーーー。あなたは馬鹿だわと可憐な顔で叫んでいるようにも見える。
由布子はハッとしたようにサファイアを見下ろす。由布子の胸がキリリと軋む。
もしかしたら、自分の判断は間違っているのかもしれない。
後悔に似た感情が胸に押し寄せてくる。本当に、これでいいのか。心がグラつく。
しかし、ジュリの本体を連れて帰り、共に暮らす覚悟を決めたのだった。
☆
由布子は、猫のジュリが入っているキャリーバックを大事に抱えたまま高級住宅街を歩き始める。
『重たい荷物はおいらが持つニャ』
身長、百八十二センチの立派な身体に憑依しているジュリがそう言ってくれたけれど、これは大切に管理したい。由布子は自分が運ぶと言い切った。
路線バスに乗るつもりだった。しかし、ゆるやかな坂道を降りている時に異変が起きる。
マダムの自宅から出た数分後、後ろから走ってきたバイクの男によってキャリーバックを引ったくられていたのだ。
由布子は激しい勢いで転倒していた。
「由布子ーーーーー」
ジュリが由布子を抱き起こそうとするが、由布子が前方を示して叫んだ。
「ジュリ、あたしのことはいいから捕まえて。あんたの身体を守るのよ。あんたのこと殺すつもりよ!」
「なぬーーー」
ジュリは猛然と追いかけようとした。しかし、バイクと人間では比べ物にならない。
フルフェイスでバイクに乗って逃走している安井はニヤリと笑う。
(よっしゃ。これで。残りの九十万、ゲットだぜ。当分、家賃のことを心配しなくていいぜ。やっほーーーー)
安井は余裕をぶっこいている。
高級住宅街を抜けた先の県道に進もうとしていた。しかし、安井の逃走経路を塞ぐようにしてミニクーパーが立ちはだかる。
キキーーーーッ。安井は急ブレーキをかける。その弾みで横転してしまう。
ミニクーパーの運転席から長身の美女が出てきた。
この女を用意したのは西川だ。由布子のあとをつけて猫泥棒から守るようにと西川が女探偵に指示していたのである。
安井は地面に伏せていた。抱えていたはずのキャリーバックが舗道に転がり、パカッとプラスチックの側面が割れている。
その瞬間、猫ジュリの肉体がコロコロと地面に転がり、猫のジュリが猫として目を覚ました。
(おいら、元の身体に戻ったぞ。脚は痛くないニャ。肉球の調子もいいぞ。由布子のもとに戻らなきゃ)
猫のジュリがトコトコと由布子に駆け寄ろうとする。
その時、夏目朱里の身体がドタンと前に倒れてしまった。
気絶している朱里の身体を支えているうちに由布子は気付いた。
(ジュリの魂が元の身体に戻ったせいで、夏目さんが転んだのね)
まだ、人間の夏目は気絶したままなのだ。額を打ったように見える。由布子は焦って介抱しようとする。
すると、三十路の女探偵が慌てたように由布子の元へと駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか」
西川から、猫の保護を第一に考えろと言われていたというのに、女探偵は夏目朱里と由布子に気をとられている。
フルフェイスのヘルメット姿の安井は、すぐ目の前にいる猫のジュリを捕らえようと近寄る。
しかし、ジュリは差し出された安井の手を引っ掻いた。
「いてぇーー」
その騒ぎに気付いた由布子は前方にいるジュリに向けて叫んだ。
「ジュリーーーーーーー。いいから、早く逃げるのよ!」
ジュリは勘のいい猫だ。危険に晒されていることは理解している。素早く塀の上を駆けて走り去ろうとする。
しかし、そんなジュリの前に夏目家のボディガードが現れた。安井のサポート役としてマダムの自宅の付近でスタンバイしていたのだ。
黒いスーツのAとBの二人がジュリを捕まえようとしている。由布子は喉が裂けんばかりの声で叫んだ。
「ジュリーーーーー。そいつらは悪魔よ! 逃げてーー」
ボディガードAは手に麻酔銃を持っている。
「こいつの金玉、まじでデカイな」
「呑気に感心してないで。早く小汚い猫を捕獲しろ」
五歳児ぐらいの知能があるジュリは人間の言葉をそれなりに把握している。
(ニャンだとーーー。こいつら、おいらの金玉が目当てなのかーーー)
いや、別に、デカイ金玉を目当てに追いかけているのではないが、夏目家のボディガード達も必死の形相で追い詰めようとしている。
まずいと感じたジュリはブロック塀が途切れた瞬間、シュッとジャンプをして街路樹に登った。
そのまま、しばらくは枝先にいたのだが……。
ボディガードが麻酔銃をジュリへと向けて狙いを定めている。
やられるもんか。
ヒュンと猫のバネを使って軽やかに飛び降りた。
着地した先は、たまたま、後方からやってきた黒猫ヤマトのトラックの屋根の上。配達の為に住宅街をゆっくりと走っていたので乗り移っている。
「クソッ、宅配のトラックを追うぞ」
ボディガードの二人は安井のバイクで追いかけようとしているが、その時、由布子は無我夢中の状態で二人を引き止めた。
「あなた達、何とかしなさいよ。夏目さんが死んだらどうするのよ」
それに対して女探偵も同調している。
「そうですよ。この方、いきなり気絶したんですよ。病院に連れて行くべきですよ。脳や心臓の病気かもしれませんよ。処置をしないと命とりになるかもしれませんよ」
ボディガード達は、長澤まさみ似の美女探偵の言葉にハッとなる。
本来の仕事は坊ちゃんの護衛だ。
「先輩、縁起のいい猫の捕獲は諦めるんですか?」
ボディガードBが問いかけると、声優&俳優の津田健次郎さんのような渋い声のAが頷いた。
「あったりまえだろう。坊ちゃんに何かあったら、こっちのクビが飛ぶんだぞ」
安井はトンズラしようとしていたのだが、そうはさせまいとして、あくまでも、通りがかりの善意の美女を装いながら女探偵は詰め寄っている。
「こんな住宅街であんなに飛ばすなんて非常識ですよ。警察と保険会社に電話をしますので、ちゃーんと、ここにいて下さいね」
ジュリを追う奴等は足止めする事が出来た。ジュリを乗せた黒猫ヤマトのトラックは見えないところへと立ち去っている。
(公園や空き家で雨露を凌ぐ知恵はあるよね。ジュリは賢い猫だもの)
由布子は、ただひたすら、ジュリの無事を祈るしかなかった。




