第九章 3
バーのマスターは包み隠さずに坂元に報告している。
坂元は頭を抱えた。
「入れ替わるだと? 君の名は。じゃあるまいし。つーか、オレの世代だと転校生だな」
尾道の階段を転がって男女の魂が入れ替わる映画は有名だ。
(猫と人間が入れ替わる? フン、馬鹿馬鹿しい)
ファンタジーの世界でしか有り得ない事だ。しかし、もしも、本当なら先に猫を殺さなければならない。
「猫憑き」
仮に、その猫を殺すにしても、慎重に確かめてからでないと殺せやしない。猫の中に朱里がいる状態で殺したら、それこそ大変なことになる。
(まったく、どうしたものか)
ということで、坂元は眠れぬ夜を迎えていた。とりあえず、猫のジュリが誰かの手に渡らないようにしなければならない。
「どこにいる……」
ハーッと溜め息をつくと、紺色のネクタイを外してからバーボンを煽った。夏目家の執事である坂元の悩みは尽きない。
☆
翌日、朱里は暗く沈んだ顔をしていた。由布子は目玉焼きを作りながら尋ねる。
「おはよう。どうしたの? 夏目さん、体調が悪そうですね、無理しない方がいいですよ」
「なぁ、例えばの話だけど、もしも、タイタニック号が沈没して、おまえの猫とオレのどちらかしかボートに乗せられないとしたら、おまえはどっちを選ぶ?」
朝から何なのだ?
「選ぶも何も、ボートを漕ぐ船頭さんは猫より人間を選ぶと思うわ。あたしの意志なんて無視されるってば」
「仮に、無視されないとしたら?」
「そんなの実際にその場にいないと決められないわ。どちら命も平等に尊いから、選ぶのは無理だな」
「そうだよな」
朱里は深刻な顔で溜め息をついている。由布子は朝からずっと違和感を抱いていた。
(何だろう。変だな)
首をかしげながら、学校に行く支度をしていた時、スーツ姿の坂元が訪れた。
こんな朝から別館に姿を現すなんて珍しいと思っていると、由布子に対して言った。
「大変です。どういう訳か、乙姫様が由布子様をお迎えに来ています」
「なぬ?」
それを聞いていた朱里はコーヒーカップを片手にポカンとしている。
由布子はスクールバックを手にしながら言った。
「言ってなかったけど、乙姫さん、あたしの学校に転校するの」
「なぜ、乙姫様があなたを迎えに来るのですか」
坂元の問いに由布子はテキトーに誤魔化した。
「えーっと、あたし達、パーティーで意気投合したの」
それを聞いた三井はニコニコしている。
「さすが、由布子様でございます。乙姫様をお待たせしてはいけませんよ」
「はーい」
軽快な足取りで玄関へと向かう由布子なのだが、今日は、朱里達も玄関までついてきた。
ベンツの中から出てきた乙姫は満面の笑みを浮かべている。
トロピカルなドレッドヘア。朱里は、まず、それに坂元と朱里は驚いて絶句した。
お洒落なパーカー。ピチピチのピンク色のレギンスとスニーカーという服装も、今までと違う。
「あらあら、いつにも増して華やかですわね」
三井は呑気に感心している。
それにしても、相変わらず、でかいケツだなと坂元はシンプルに思った。
由布子はスタスタと軽快に近寄っていく。
「おはよう。乙姫。カッコいいね」
スクールバッグとしてリュックを背負っている乙姫が、どこか恥しそうに足元を見つめながら言った。
「わたし、体育の時間以外でスニーカーを履いたのは初めてですわ」
ちなみに、由布子は学校では制服を着ているのだが、その理由は服選びに迷いたくないからである。
「おはようございます。由布子様」
送り迎えの時も西川は同行しているらしい。助手席から降りて来ると、親しげに由布子に微笑んだ。
漢方薬入りのテキーラを製造した過去など、西川の記憶からは消し去られている。西川は由布子のフォロワーだ。というか、もはや、由布子は西川の推しだ。
「あらあら、今日も由布子様は可愛らしいですね。さぁ、お乗りくださいませ。学校までお送りしますよ」
「えっ、まさか、これから毎日、送迎するつもりじゃないですよね?」
「由布子様がお望みならば、我々は構いませんよ」
「そ、それは結構です」
「そうおっしゃると思いましたわ。今日は登校初日ですから、特別に乙姫様に付き添っていただきたいのでございます。どうか、お嬢様をお願いいたします」
「そうですわ。お願いよ、由布子。わたしと手を繋いで門を潜りましょうね」
「うん。それじゃ、今日だけだよ」
由布子は乙姫と友にベンツの後部座席に乗り込んでいく。
寝不足のせいで頬がこけている坂元は、しばし呆然としていた。
(どうなっているんだ。何が起きたんだ。乙姫様と小娘は反目していたのではないのか?)
☆
その時、本館の二階から方子が不思議そうに去り行くベンツを見つめていた。
朱里との婚約を解消したかと思えば由布子という小娘との親友宣言。
方子はベランダの手すりを強く握りしめたまま歯ぎしりする。
(まったく訳が分からないわ。しかも、あの西川が由布子という小娘を気に入るなんて。瀬戸由布子、あなたは何者なのよ!)
方子は拗ねたように呟いたのだった。
「百合から何も聞いてないわよ」
☆
実は、百合も、『陰毛事件』のことは何も聞かされていない。そんなの乙姫の口から言える訳が無い。
しかし、母親の百合も、このところ、乙姫の元気がない事は把握していた。
苛々したり、哀しげに溜め息をついたり情緒がおかしいが、思春期だから仕方ないと感じていたのである。
今朝、百合は娘の為にコーヒーを淹れながら思った。
最近の乙姫は朗らかだ。
(あの子共学の学校に行きたかったのね。そうよね。女子高なんて退屈だものね)
今朝、百合は学校に向かう娘を見送りながら微笑んでいたのである。
「うちの乙姫ちゃんは何を着ても可愛いわ。んふふ。私に似たのね」
夏目朱里との婚約は白紙にするらしい。それもいいだろう。
(そうね、婚約や結婚なんて高校で恋愛をしてからでいいわよね。うちの乙姫ちゃんが自分で探せばいいのよ)
百合としては娘が楽しそうなら細かい事はどうでもいいのだ。
☆
「は、初めまして。わたし、綾小路乙姫と申します。わたしの特技はクラッシックバレェでございます」
その体型でバレエなのかと由布子は思ったりもしたが、誰もクスクスと笑ったりはしなかった。
それなりに緊張しているのか、乙姫は余計な事を語っている。
「わたし、家がお金持ちなので別荘がたくさんあります。父がリゾートホテルを経営しておりますので、子供の頃から海外旅行をよくしておりまして、語学には自信があります。わたしの母は慈善事業に命をかけております。わたしの母はとても美しくて各国の殿方を魅了しております。わたしも、美しい母のように世の中の役に立ちたいと思っております」
色々と自慢してるが、乙姫としては、ただのシンプルな自己紹介だ。このクラスの生徒達は優秀だし、国際感覚が身についているので、乙姫の挨拶に関しても素直に拍手している。
日頃から、オレは天才だと豪語するクラスメイトもいる。
海外では、あからさまな自己アピールは美徳。
ということで、悪目立ちすることなく、すんなりとクラスの一員になった。
お昼休み、乙姫は由布子達とお弁当を食べたのだが、予想したとおり、豪華絢爛なお弁当だった。
「乙姫、こんなにたくさん食べられないでしょう?」
由布子がそう言うと乙姫が頷いた。
「いつも、友達の分も作ってもらっていたのでございます。家政婦さんは、いつも通りに作ったのでございますわ」
「明日からは自分の分だけにしときなよ。もう、あいつらいないんだしさ」
由布子の親友の舞子は、色々と好奇心をくすぐられたらしい。
「乙姫ちゃん、もしかしてハーフなの? 顔立ちが華やかだね」
舞子の問いに乙姫は鷹揚に笑った。
「あら、よく気付きましたね。お母様は日本で生まれ育っていますけど台湾人ですのよ」
「えっ、そうなんだ~」
舞子は呑気に頷いているが由布子は驚いていた。どちらかというと、ポリネシアとか、そっち方向のルーツなのかと思っていたのだが。
(それにしても、乙姫さん、楽しそうにしてるよ)
どうなる事かと思っていたが、乙姫は転校して良かった。苛められることもない。しかも、体育のダンスの時間、思いがけない能力を発揮していたのだ。
由布子のクラスメイトの女子がどよめいた。
「まじか。乙姫、ダンスのスキルやばいわ~」
「キレキレじゃね?」
クラッシックバレエの基礎があるおかげなのか、体幹がしっかりしている。
余りにも、乙姫のダンスが素晴らしかったので、放課後、ギャル達が乙姫にリクエストした。
「ねぇ、乙姫、この曲でこのダンスやってみてよ」
「あら、これ、聞いたことがありますわ」
しかし、踊ったことはないという。動画を視聴した後、音楽に合わせて踊り出していく。
渡り廊下でプロ並みのダンスを披露する乙姫。まさしく躍動という言葉が相応しかった。
その時、渡り廊下の向こう側からキラキラとした美少年がやってきた。
この学校で最もイケメンと言われているイタリアからの留学生のレオナルドである。
「あの女性は?」
故郷にいた頃から絶世の美少年と謳われてきたレオナルド。その名の通り、レナルド・ディカプリオの隠し子じゃないかとまで言われてきた。
『いいか、日本にはとんでもない美女がいるぞ』
留学前に父から聞かされてきた。元々、レオナルドは日本のアニメが大好きだった。日本語を学びたくてここに来ている。
『日本の美人に心を奪われないようにしとけよ』
しかし、父が言うような美女なんて日本にいなかった。クラスの奴等は、三年生の瀬戸由布子が美人だと騒いでいたが、日本の女なんて、みんな同じ顔に見える。所詮、平たい顔族。シチリアから来たレオナルドは古代ローマ人の末裔であるが故に、そんなふうに思っていたのだが。
その認識は間違っていた。今、レオナルドの目の前に女神がいる。地中海の風が吹いた。乙姫に一目惚れした。
実は、レオナルドは、留学中に百合に一目惚れしたマッテオの息子である。
という事で、遺伝子レベルで乙姫に惹かれている。
君は僕の太陽だ。この言葉を今すぐに彼女に奉げたい。
『あの美しい人をいつまでも瞳の奥に閉じ込めておきたい。ああ、胸が震える。初めてジュリエットに出会った時のロミオの気持ちが僕には分かる』
由布子の知らないところで壮大なラブストーリーが始まっている。
『彼女の美しいお尻のなんと艶かしいことか。眩しすぎる。ハートを焼き尽くされそうだ。いつか、僕のお嫁さんにしてみせるぞ』
レオナルドの熱い眼差しに気付く事無く、乙姫は、リズムに乗りながらエネルギッシュに踊り続けていたのだった。
☆
乙姫が、渡り廊下で情熱的に尻を振りながら踊っている頃。
坂元は、夏目家の塀際をうろうろしている怪しい男を尋問していた。貧相な男だ。どうやら、そいつは、工藤という男に頼まれてエリザベスという猫を殺しに来たらしい。
たった二十万円の為に夏目家に侵入しようなんて愚かである。
その男の名前は安井良太。
こいつを警察に突き出すのは簡単だが、もっといい使い道がある。
「エリザベスのことは諦めろ。あれは妊婦だ。むやみに殺すと罰が当たるぞ」
安井は風呂無しのアパートで暮らしているピン芸人だ。半年に一度だけ地下の小汚いホールで単独ライブとやらをしている。
「おまえにチャンスをやる。四日以内にジュリという猫を捕まえろ。殺すなよ。生きたまま捕まえて、ここまで運んできたなら百万払う。いいな、このことは誰にも言うなよ」
坂元は、由布子が配布した迷い猫のチラシと一緒に十万円をポンと置いた。
「成功すれば、残りの九十万を支払う。そう悪い話ではないだろう。本当の飼い主よりも先に見つけてくれ」
「なんで、その猫を探すんですか。小汚い猫じゃないですか」
変に隠すと勘ぐられるかもしれない。そう感じた坂元は淡々と告げる。
「うちの坊ちゃんが、この猫を描いたがっている。金玉のデカイ猫は幸運を招くとされているのだよ」
そういう事にしておこう。坂元はポーカーフェイスを保っていた。
「はぁ。物好きな人もいるんですね」
安井は思った。もしかしたら、風水的に、金玉のデカイ猫は縁起がいいのかもしれない。かつて、漫才の相方だった男は、オーデションに落ちた時、玄関にマットを置かないから運が逃げるんだとか何とかわめいていたっけ。
その後、そいつは実家の定食屋を継ぐと言って辞めてしまった。コンビ解散。それから食うのにも困る毎日だ。安井は情けない顔で首を振る。
「無理ですよ。エリザベスでさえ見つけるのに何日もかかったんですよ」
「心配するな。もう居場所は特定している」
ペット探偵事務所の所長の仁科は決して朱里を裏切らないが、その部下は金次第で何とでもなる。
猫のジュリは、謎めいた占い師の『マダム』の邸宅にいることは分かっている。
マダムと呼ばれている年齢不詳の美女は歴代の総理とも近しい間柄だ。経団連の大物もマダムに心酔している。マダムの占いが日本経済を動かしているとさえ言われている。マダムの自宅に夏目家の者を侵入させる訳にはいかない。
(こいつに猫を盗ませるしかない)
坂元は、安井にマダムの豪邸の見取り図を渡しておいた。
隠遁生活を送るマダムも、たまには外出するだろう。その時に侵入すればいい。
(あんな汚い猫を、わざわざ盗むように、こんな輩に指示する日が来るなんて。はぁー。情けない。オレもどうかしている)
自己嫌悪に陥りながらも坂元は安井に念を押していく。
「いいな。決して猫を傷付けるなよ。大切に扱うんだぞ」




