第九章 2
マリアンヌは少し意外そうにしている。
この時、由布子は焦っていた。
(やばいわ。言ったのは猫のジュリだよ。そうに決まってるわ。ああ、もう、ジュリの馬鹿。ほんと、猫って正直なんだから)
人間の朱里は女性にそのような暴言を吐くような人ではない。一応、由布子はフォローしておいた。
「な、夏目さんは頭を打ってるせいで、ちょっと言語感覚がズレてるみたいなんです。語尾にニャーニャーつけるのも、そのせいなんです」
「あの人の事はどうでもいいですわ。他にも花婿候の候補者はいますもの」
そう言って、スマホの画像を見せてきたのだが、そいつは気障なスーツ姿の三十路のおっさんだった。
(大手テレビ局の新人アナウンサーみたいな雰囲気のイケメンだな)
礼馬の写真を見たマリアンヌが奇声を上げた。
「あらーー、駄目よーーーー。この男だけはやめなさいよ。礼馬はゴリゴリのゲイなのよぉーー。結婚しても不幸になるだけよ。あいつは極度の女嫌いよ。自分の母親のことさえも嫌ってるわよ」
「あら、本当にゲイですの?」
「もちろんよ、二丁目の常識よ。計算高くてズルイ男なのよ。あなたのこと愛しているフリをして利用するに決まってるわよ」
「あら、それは困りましたわね。そんな人とは結婚したくありませんわね」
マリアンヌは最後の仕上げとして、乙姫の頬に光沢のあるチークを乗せながら言う。
「普通に恋愛すればいいじゃないのよ。乙姫ちゃんみたいな子を好きな殿方は多いのよ。特に、ラテン系の男はそうよ」
しかし、残念そうに乙姫は呟いている。
「自由な恋など無理ですわ。綾小路家を繁栄させる義務がありますわ」
「だけど、乙姫ちゃんにはお兄さんがいるでしょう。お兄さんが家を背負えばいいんじゃないの?」
「兄ほどの重圧は感じておりませんのよ。だから、自由に転校することも出来るのですわ」
「その点、夏目家は跡取り息子が一人しかいないから大変よね。同じような家柄の娘としか結婚できないものね。選択肢は限られてるじゃない。せっかく、イケメンに生まれてきたのに自由がないなんて可哀想ね。あっ、でも、愛人を作れるからいいのかしらね」
「夏目家には愛人がいて当たり前だと聞いていますけど、本妻さんが可哀想ですわ。母の親友の方子さんも苦労したみたいですものね」
と、乙姫。
「現代の大奥だもんね。つーか、後宮かしらね。お世継ぎを産めない女は肩身の狭い想いをするってことだものね。それに、お金持ちって、配下の従業員の生活にも責任を持たないといけないから、朱里さんも大変よね」
会話を聞いていた由布子は神妙な顔になる。
(夏目さんも方子さんも色々なものを背負ってんだな)
☆
その頃、夏目朱里は深刻な顔で考えていた。
人間として、いや、夏目家の跡取りとして正気を保ち続けなければならない。
いつ、猫のジュリになるのか分からないというのは由々しき問題である。
日曜の夜。朱里はエリカがバイトをしているバーに向かった。
「エリカ、話って何なんだ?」
「いいから、よく聞いてね。すごく深刻で大切な話なの。昨日の映像よ」
見せてくれたのはビデオ通話の映像だ。
真っ黒に日焼けをした一重まぶたの陰陽師。バックパッカーの芦屋創汰はオダギリジョーっぽい髪型をしている。昼間は観光三昧。深夜は、インドの小汚いホテルの一室にいるという。
「あたし、昨日のバイト終わりに芦屋さんと話したのよ」
要約するとこういう事だった。
猫憑きの朱里を治して欲しいと頼むと芦屋が言った。
『猫憑きの除霊? 出来るよ。ええーー。その猫、まだ生きてるのか。それはマズイな』
死んだ猫の霊が人間に憑いている場合は呪術で滅して天に上げてしまえばいいが、生霊はややこしい。
『よっぽど猫と人間の心がシンクロしたんだろうな。魂のレベルで繋がってしまってるから、簡単には元の形態には戻れないのさ』
そんなの困るわよとエリカが焦ると芦屋が肩をすくめた。
『片方だけを守る方法ならあるぜ。猫を殺すのさ。けっこう簡単だろう。まっ、オレが帰国しても、結局は猫を殺す事しか出来ないぜ』
エリカは声を震わせた。猫を殺せと言うの?
『だけどさぁ、猫の寿命って、確か、二十年ぐらいしかないんだよな。ちょうど、人間が猫の中にいる時、猫が死んだらどうなると思う? 人間の魂が消えちまうんだぞ』
エリカは絶句していた。
『猫が、ポックリと逝った時、その中身が人間だったりしたら、もう取り返しがつかないんだぜ。猫が猫として生きているタイミングを見計らって殺すんだ。じわじわと殺すと駄目だぞ。苦しくなってポーンと人間の身体に乗り移るかもしれないからな。拳銃で撃ち抜くのがお勧めだ』
そんなの無理よとエリカは思った。頭の中がグルグルとまわり目の前が暗くなる。エリカは、人間に憑いた状態のジュリと何度も話を交わしている。素直で天真爛漫なキャラクターだった。
『おいら、お肉大好き☆ おまえ、綺麗な人間のメスだな。いいニオイがするニャ』
ジュリはエリカを美人のメスとして認識してくれている。楽しそうにケンタッキーを食べる姿は可愛らしくて、エリカの母性が疼いた。自分に子供がいたら、こんなふうに御飯を食べさせるのだなと夢想したぐらいである。だから、殺すなんて出来ない。
だから、エリカは、たまらなくなり泣き出したのだ。
『夏目朱里には、この事を伝えておけ』
そう言うと、芦屋はインドからの通信を切ったというのである。
「まじかよ」
すべてを聞き終えた朱里は蒼褪めた。
小洒落たバーのBGMさえも耳には入らない。頭の中が真っ白になって吐き気のようなものを感じる。こんなの最悪だ。
「オレはそんなことはしない」
「猫好きなあなたが猫を殺すなんて無理だと分かってるわよ。だけど、そうしなくちゃいけないのよ。考えてみてよ。夏目家の跡取りはあなたしかいないのよ」
「別に、オレなんて」
いつ死んでもいい。以前の自分ならそう言っていたかもしれない。しかし、今の朱里は、まだ死にたくないと感じている。
猫が、先に自然に死んでくれたら助かるのだがジュリはまだ七歳だ。そう簡単には死にそうにない。
(オレのせいで猫が殺されたと知ったなら、由布子はオレを恨むだろうな。どうしたらいいんだ?)
ジュリは由布子にとって何よりも大切な家族。
「エリカ、このことを由布子に言うつもりなのか?」
「言う訳がないでしょう。幸い、猫のジュリは行方不明なのよ。由布子ちゃんよりも先にジュリを回収して密やかに葬ってしまえばいいのよ」
そう言うと、エリカはバーテンダーとしての仕事に戻った。
実は、ペット探偵の仁科は猫のジュリの居場所を特定している。
(もしも、エリカがジュリを見つけたなら殺してしまうかもしれない。エリカは猫よりもオレを優先するに決まっている)
自分と猫。二つの魂のうち一つしか選べないとしたら由布子はどうするのだろう。
正直、由布子との同居はエキサイティングで面白い。
入れ歯の攻撃なんて生まれて初めてだ。あの娘は何をしでかすか分からない。由布子は不思議な魅力に満ちている。
(別に、今のままでも楽しく暮らせるんじゃないのか?)
猫と自分が入れ替わり続ける人生も、そう悪くは無いとさえ思えてくる。世間の奴等から、馬鹿だと思われても自分は平気だ。
(いや、だけど、早く猫のジュリを確保しないとまずい事になるぞ)
朱里は、地下鉄へと続く薄暗い路地を進みながらペット探偵の仁科と連絡をとっていた。
「それで、どうなった?」
「夏目様、すみません。マダムに会えなくて困っています。屋敷にいるのに出てくれないのです。猫を救ったホームレスの話から察するに、必ず、トラ猫はあの屋敷にいます。粘り強く交渉してみるつもりです」
「いや、おまえは何もしなくていい。一旦、引き上げろ」
「了解しました」
ひとまず、マダムの自宅に猫を匿ってもらうしかないだろう。今の段階では、それが一番いい事のように思えるのだ。
☆
エリカは誰かに言うつもりなどないが、秘密は漏れている。




