第八章 2
何て事をしやがる。あいつら調子に乗り過ぎている。由布子の身体は勝手に動き出していた。
ほとんど反射的に、自分が食べる予定だったチョコレートケーキを手で掴んでいたのだ。
(許さん。成敗してやるよ)
ヌッと脇に立ったかと思うと、チョコクリームにまみれた手をBの携帯の上になすりつけて汚してやった。
ムニュ。グニュッ。
「ちよっと、何するのよ」
Bが怒るのも当然だ。しかし、相手を見据えたまま由布子は平然としている。
「すみません。ちょっと手が滑ったみたいですね」
言いながら、チョコにまみれた手でAの顔に押し当てる。
いきなり、ケーキの残骸をなすりつけられたAは、わなわなと顔を引き攣らせている。
しかし、由布子はゆったりと微笑む。
「あっ、雑巾と間違えました」
「あんた、何者よ。どういうつもりよ。訴えるわよ」
般若のような顔でBはスマホを拭きながら怒鳴り散らすが、それを見下ろす由布子は平然としている。
「訴えたりしていいのですか。あたし、ここで見た事を綾小路家の皆さんにペラペラと話しますよ」
「うっ……」
Aは怯みそうになったが、目付きの悪いBは言い返している。
「そんなことしたら、乙姫の陰毛ヘアの動画を世界中に流してやるわ。いくら、綾小路家でも、一度、流出した動画は消せないよ。永遠に笑い者になるといいのよ」
「そうですね。つまり、あなた達が陰毛陰毛と連呼している画像もネットに出たら消せませんよ。あなたのお父様達、これからどうなるのでしょうね。北米の極寒の海で行なう蟹漁の船に乗せられて凍死したらどうするのかなぁ~ 綾小路の家の人達があなた達を粛清しないと言い切れるのかなぁ~」
AとBは、さすがに青褪めている。
乙姫は、所詮、コンプレックスに怯える哀れな子豚ちゃん。しかし、何事にも豪胆な由布子は違う。
まるで黄門様が印籠を出すかのように言い放つ。
「あんた達、陰毛、陰毛って、うるさいんだよ。そんなこと言ってるけど、あんたらの心が陰毛なんだよ!」
捻じ曲がっていると言いたいのだ。
「はぁ? 心が陰毛?」
Aは、由布子の言葉に衝撃を受けて黙り込んだけれど、Bは、どこまでも強気だった。
「言っとくけど、カツラは校則違反だよ。悪いのは乙姫だと思うけどね」
「それなら、あなたも校則違反ですね」
「はぁーーー。あたしは地毛だわ」
「そうですか。でも、あなた、カラコンをつけていますよね。カラコンは目玉のカツラです」
「うっ」
その途端にAがブハッと笑い出した。笑いのツボに来たのか、大袈裟に手を叩いて笑っている。
「うーけーるー。確かに、そうかも。うーけーる。瑠璃子って、目、ちっさいのに黒のカラコンつけてるから、白目がほとんどないんだよね。妖怪みたいなんだよね」
「ちょっと、あんた、そんな事、思ってたの」
木の洞のように黒い眼で睨みつけている。
「えっ、いや、あたしは思ってないけど、隣のクラスの子が言ってるみたい~ あ、あたしは思ってないよ~」
嘘をつけ。あんたは思ってるだろう。
乙姫から金をせびるような女の性根は腐っているのだ。プライドを傷付けられたBは帰ると言って席を立った。
残されたAはバツが悪そうに謝罪している。
「ごめーん。二十万は返すね。だけど、それ以前にもらったのは返却できないな。乙姫、お金持ちだから許してよ。その代わり、陰毛のこと、あたしは誰にも言わないよ。あたし、乙姫のこと、ずーっと大好きだよ。ずっとずっと、あたし達はフレンドだよ。じゃねー。また明日~」
謝っているようだが誠意が見えない。由布子は、もう怒る気持ちさえも薄れている。
この子達って何なのよ。
(本当に悪いと思ってるのかな?)
二人とも、お会計は乙姫に任せて立ち去っている。乙姫は萎びたきゅうりのような表情でカツラを付けなおしている。
苦笑した後、由布子は乙姫の手を引いた。
「さぁ、あなたも帰ろう」
☆
ファミレスの片隅で起こった小さな事件なのだが、それを、こっそりと見ていた者がいた事を由布子は知らない。
由布子の後ろの側の席で身を顰めるようにしてコーヒーを飲んでいたイケメン。それはゼミのレポートの作成に追われてパソコンに向かっていた朱里である。
陰毛豚のフレーズに誘われて目をこらすと、自分の婚約者の乙姫が苛められていたので驚いた。
しかし、そこに由布子が乗り出したので、更にびっくりしたのである。
(それにしても、乙姫の髪がカツラだったとは。いや、そんな事より、由布子、あいつは、やっぱり、普通の女じゃないな)
陰険な女達を一喝する由布子を思い返すと頬が緩む。
(まじで由布子はカッコいいよな)
☆
実は、夏目朱里の他にも現場を目撃した者がいる。最近、乙姫の様子がおかしいと気付いていた秘書の西川である。
『陰毛女、陰毛女』
まさか、あのように陰湿に苛められていたなんて。よくも、うちの可愛らしいお嬢様をコケにしてくれたな。
西川も乙姫の悩みを解決しようと苦慮してきたのだ。しかし、どんなヘアサロンに行っても、乙姫の爆毛は治らなかった。コンプレックスに怯える気持ちは西川にもよく分かる。
ちなみに、髪質で悩む乙姫にカツラをかぶるように勧めたのは西川である。
実は、西川の父親はカツラ愛用者だ。カツラをつけただけで営業成績が上がると言っていた。見た目の変化によって自信がつき、ポジティブなオーラが出るものなのだ。
とにかく、そういう訳で乙姫は、中学生になってからはサラサラのロングヘアの乙女として幸せに暮らしていたと思っていたのに……。くそー。あの二人のせいで乙姫は苦しんだようである。
西川はわなわなと唇を震わせる。
(あいつらの父親の会社をぶっ潰してやる)
いや、娘が苛められていると知ったら百合様が悲しむ。自分の監督責任を問われるかもしれない。とりあえず、あの二人は二度と乙姫様に手を出さないように策を講じようと決意する。
西川はスマホを取り出した。
(瀬戸由布子。たいした度胸だわ。良くやったわ。心から感謝するわよ)
西川は、由布子のインスタのフォローをしようと決意したのだった。
☆
よほど辛かったのだろう。乙姫はシクシクと泣いていた。
今、二人がいるのはレトロな喫茶の二階席である。口直しに、由布子はクリームソーダを注文しと、乙姫はバナナジュースを注文した。
やがて、乙姫はポツポツと語り出した。
「三ヶ月前、カツラをつけている事を知られてしまいましたの。そしたら、急に、あの子達は、わたしに対して、ああいう態度をとるようになったのですわ」
親友だと思っていた二人に口止め料を要求されてショックだったという。
「高校生になってから、ずっと一緒にお弁当を食べていましたわ。わたし、あの子達が望むので、週に何度も料亭から仕出し弁当を取り寄せておりましたのよ。それに、お揃いの服が欲しいと言うから、アマゾンでワンピースやバッグを買ったりしていましたのよ。いつも三人で仲いいねって、先生方もおっしゃっていたわ。でも、あの子達の笑顔は偽りだったのよ」
可愛い系Aの名は星羅。カラコンの細目のBの名は瑠璃子。
「先月から、星羅と瑠璃子にお金を搾り取られていましたの。絶対に他の人には、カツラの事は知られたくなかったのです。あなたも、わたしのことを、醜い陰毛女だと思っているのでしょう」
そんなことないと即答したいが無理だ。ごめん。
正直に由布子は言った。
「確かに、あなたの髪質に関してはヤバイと思うわ。それと、平安時代のお姫様みたいなカツラも似合ってないなぁと思ってたんだ。それに、ロリータファッションもあなたに合わないと思ってた」
やけに頭がデカイと感じていたのだが、爆毛の上にカツラを被っていた事が原因のようだ。
乙姫は羨むようにして顔を歪めている。
「あなたみたいにサラサラ髪の人には、わたしの惨めな気持ちなんて分からないわね」
由布子は、そうだねと小さく呟いて苦笑する。
「だけど、乙姫さんも、あたしの気持ちは分からないと思うよ。あたし、両親がいないんだ。乙姫さんは、お母さんと仲が良くて羨ましいよ。あたしはお母さんの誕生日を祝いたくても祝えないからね。それに、うち、ずっと貧乏だったんだ」
母子家庭になってから母はパートを増やした。
兄も学校に行きながらバイトを続けており、中学生になると、由布子が家事を担うようになる。
「小学生の頃、帰宅しても誰もいなくて寂しかったよ。それに、お母さんが病気の時は収入が減って大変だったな。冬なのにエアコンをつけずに暮らすのって、マジで寒いんだよ。手がしもやけになりかけた」
乙姫は声のトーンを湿らせている。
「あら、お気の毒ですわ。孤児ですの? お母様の財団の者を派遣しましょうか」
「ううん。今は、社会人の兄がいるから金銭の支援はいらないよ。今でも、やっぱり、夜になると寂しいの。何かが足りないって感じがするの。小学生の時は、特に寂しかったな。でもね、あたし小学六年の時、子猫を見つけたの」
その子猫こそがジュリなのだ。それ以後、由布子の母達が帰宅するまでの時間、ジュリが側にいてくれた。
「その猫は、あたしの宝物なんだ」
「親を亡くしてしまい、心が薄毛だったのですね。色々と、あなたの中から無残に抜け落ちていったのですね」
その言葉に由布子は苦笑する。
「薄毛って、その例え方は、やめてよ!」
哀切に打ちひしがれる乙女心を現すのに相応しくない。
「あら、だけど、あなたが最初に言ったのよ。心が陰毛って。あなたに反撃された時の、あの子達の顔ったら……」
クスクスッ。やっと乙姫が笑った。
「瀬戸由布子、あなたって本当に下品ですわね。お育ちが悪いのね。やはり、庶民は逞しいわね。わたしも野生のパワーを見習いたいものですわ」
言い方はあれだが、どうやら、由布子を褒めているようである。
乙姫はハンカチで鼻を噛んだ後、ポツンと呟いた。
「それにしても、どうしましょう。明日、学校に行く勇気がございませんわ」
あいつらと顔を合わせたくないと嘆いている。そりゃそうだろう。
「あの子達とクラスを変えてもらうように校長に直訴したらどうかな?」
「そんなことしたら、みんなに勘ぐられるわ。わたしが留学するのが一番いいと思うの。だけど、一人で海外に行くのは怖いわ。外国でも苛められたらどうしたらいいのか分からない。人種差別もありますでしょう」
「別に、海外に行かなくても日本の学校に編入したらいいんじゃないの?」
「それこそ怖いわ。公立の学校には、ヤンキーやカラーギャングという恐ろしい生物が生息しているそうじゃありませんか。あと、ギャルという謎の生き物もいると聞くわ」
「えっ、ああ、まぁ、うちのクラスにもギャルはいるけど、先刻の星羅と瑠璃子みたいな陰険な生き物じゃないよ。どっちかと言うと、性格はいいよ。いつも明るいよ」
由布子のクラスメイトは、皆、偏差値は高くてマイペース。全員が個性的なので、乙姫も目立たないだろう。
「うちのクラスってイケメンの留学生とかもいるし、将棋のプロもいるんだよ」
言っている途中で由布子は閃いた。
「そうだ。うちの学校に来たらいいんじゃない? うちの高校、服装は自由だよ。もちろん、制服を着てもいいんだ。メイクもオッケーだし、カツラを着けていても問題ないよ。毎日、カラフルなカツラをつけてる男の子もいるよ」
「あら、驚いた。あなたの学校にも、わたしのような生徒がいるのかしら?」
「乙姫さんと違って、その男の子は毛がないの。眉毛も腋毛もないんだ。そのせいで苛められてきたみたいだね」
気持ち悪いとか怖いとか爬虫類だとか色々と言われたそうだ。
「うちの学校では、その子も生き生きと暮らしてるわ。うちの高校、つまんない苛めとか、あんまりないんだ」
「それは魅力的ですけど、わたしの親が何と言うかしら。急に、転校したいと言ったら変に思いますわよ。それに、あなたの学校は庶民の学校なのでしょう? わたしのようなセレブが入ると浮いてしまいそうだわ」
「うち、夏目さんの母校だよ。確か、夏目さんの父上も卒業生だったと思うな」
「あら、それはいいですわね」
顔を上げた乙姫の瞳がキラリと煌めく。
「決めましたわ。わたし、あなたの高校に来週から編入しますわ。あなたのクラスに入れるように細工します。西川に言いますわ!」
「あたしのクラスは特進クラスだよ。授業、ついていける?」
「失礼ですわね。わたし、こう見えて成績は優秀ですのよ。目を瞑っていても東大に入る自信はありますわよ」
「それなら、小細工しなくても同じクラスになれるね」
「ということは来週から親友ですわよ」
「えっ?」
いきなり、親友? なぜ、そうなるのだろう。
その後、乙姫は意気揚々とタクシーに乗り込み帰宅したのだが……。
由布子はテクテクと徒歩で駅に向かう。改札を抜けながら考え込んでいた。
(なんだか不思議だな。なせか、乙姫とアドレス交換しちゃったわ)
まぁ、いいか。由布子が電車の中でスマホを見ると、SNSのフォロワーが二人増えていた。
一人は『にっしー』
もう一人は、『竜宮城の乙女』
にっしーが何者か分からないけれども、ベテランの腐女子のようだ。やおい歴四十年と記されている。敢えて、『やおい』と記すあたりに、不思議なこだわりが感じられる。
そして、竜宮城の乙女に関しては乙姫だと分かる。
(百合さんのお誕生会の写真をアップしてるよ)
インスタには乙姫が訪れたレストランや旅先の景色がズラリと掲載されている。
まさしく、キラキラのセレブ生活。
(こういうのを見たら、嫉妬してしまう女の子達の気持ちも分からないでもないんだよなぁ)
あの子達は、乙姫が享受しているブランド品や海外旅行に憧れるのかもしれない。
でも、由布子は乙姫のような金持ちになりたいとは思わない。
(普通に暮らせたらいいんだよ)
しかし、その時、貧相な男が由布子の背後に張り付いていた。
そいつは、エリザベスを見つけようとして由布子を尾行していたのだが、のちに、こいつが事件を起こすなど、由布子が知る由もなかった。




