第七章 2
「そうですか」
言いながら、由布子は三井の枕元へと手を伸ばしていく。そして、それを掴むと、クルリと反転した。
至近距離で見つめ合う二人。
暗くても、お互いの顔の輪郭は目に映っている。フッと微笑むと由布子は、不意に表情を和らげた。それに対して、朱里も呼応するように目元を細める。
よく洋画で見るような、『チリチリとしたキスシーン五秒前』の状態だ。
うれし恥ずかしのフアフアとした空気が二人を取りまいている。由布子の大きな瞳が朱里を見つめ続けている。
ドクンッ。まるで少女漫画だ。朱里の鼓動が跳ねた。
キスをしてと言いたげに由布子が目を閉じると朱里も目を閉じた。そして、次の瞬間、朱里の唇に何かが覆いかぶさっていたのだ。
「うぐっ」
このキスはあまりにハードなものだった。朱里は目を引ん剥いて悶絶している。
「ふがっ」
そりゃそうだろう。朱里の唇を挟んでいるのは三井の入れ歯である。正真正銘の甘噛みだ。由布子は、どうか参ったかとばかりに囁いた。
「これが、あたし流の接吻だニャン☆」
その顔は小悪魔。スケールの小さい悪魔だ。
「ブハッ」
入れ歯を手で振り払うと朱里はムキになって睨んできた。
「おまえ、やっていい事と悪い事があるんだぞ」
由布子はシッと目で朱里を威嚇すると、三井を起こさぬようにコソコソと言う。
「それは、こっちの台詞ですよ。セクハラ禁止ですぅーーー、あたしからのお返しですぅーー」
おらおらおらーー。入れ歯を朱里の顔面に突き出して威嚇していた。もはや獅子舞状態である。
カチカチ。カチカチカチカッ。三井の入れ歯で頬を挟まれそうになった朱里はもがくようにして首を振る。入れ歯の乱舞から懸命に逃れようとする。
「おい、やめろ。いや、や、やめて欲しいニャン☆」
「あんたが反省したら、やめてやるニャン☆」
「由布子はドSだニャン☆」
「そうだよ。悪い子に対しては、おしおきするニャン☆」
いつのまにか、由布子も猫語になっている。深夜である。馬鹿な振る舞いは伝染するものなのだ。
「わりぃ子はいねぇがーーー」
秋田のなまはげのように、由布子は入れ歯で威嚇する。
「わりぃ子は食っちまうぞーー」
オラオラオラッ。入れ歯で威嚇。
「やめるニャン。いやだニャン」
朱里は、くすぐったそうに身をくねらせて入れ歯から逃げようとする。この時、三井はさすがに目を覚ましていた。
(わたしがいるというのに、何をニャンニャンと戯れているのかしら。仲かいいのは良い事だけど、睡眠不足はいけませんよ)
三井はコホッと咳払いする。すると、朱里はハッとしたように三井の方に視線を移した。
そして、小声で由布子に囁く。
「ふざけてないで、もう寝ようぜ」
「あたしは最初からそのつもりだよ。おやすみ」
「ん……。おやすみ」
その時、朱里の口元には笑みがこぼれていた。こんなふうに誰かと枕を並べて寝るなんて何年ぶりだろう。
それにしても、由布子は面白い娘だ。由布子に背を向けて横になったまま朱里は含み笑いを浮かべる。
(普通、そこまでやるかよ?)
入れ歯に挟まれた朱里の上唇がヒリヒリする。
(いかん。はぁやと間接キスしたことになるのかな。いやいや、それについては深く考えるのはやめよう)
先刻、本当は由布子にキスしたかった。そんなことを思うなんてどうかしている。
由布子にとって朱里はただの同居人。いずれ、別れる時がやってくるだろう。
だから、こいつのことを好きになってはいけない。そんなこと、きっと、坂元や方子は許さない。
だけど、自分が好きな相手と暮らす事を望んで何が悪いんだ?
(オレは自分の人生を豊かにしたい。もう、誰にも遠慮したくない)
そんな気持ちが朱里の中で、しっかりと芽生えようとしている。
☆
翌朝。由布子が目覚めると両隣の布団は撤去されていた。割烹着姿の三井が由布子を急き立てている。
「由布子様、新学期ですよ。遅刻してしまいますよ」
「うわっ、大変。朝こばん、食べる時間がない!」
「柴田の車で送らせますよ。車内でおにぎりをお食べ下さい。こちらは由布子様のお弁当でございます」
朱里は先に大学のキャンパスに向かったというのである。
(憑依してないってことだね。ジュリはどこにいるのかなぁ)
飼い主としては猫のジュリと話したいが、今は無理だ。それにしても、お弁当がデカイ。
(おせち料理みたいな豪華さだな)
お昼休み、教室で三段重ね重箱の蓋を開けた瞬間、友達の舞子が言った。
「あれれ、由布子、豪華だね」
「親戚の人が作ってくれたの。舞子も食べる?」
「うん。ありがとう」
ローストビーフ。キャビア。鴨のコンフィ。鰻の蒲焼。煮物。栗きんとん。稲荷寿司。サンドイッチ。ゴマ団子。豚の角煮。和洋中、もはや何でもありだ。
(朝から作ったの? それとも、料亭から取り寄せたのかな?)
舞子が御馳走を頬ばりながら言った。
「ねぇ、ジュリちゃんは見付かったの?」
「ううん。それが、まだなんだ」
でも、幸いな事に親切なマダムとやらがジュリを匿ってくれている。
「最後に目撃されたのは河川敷なんだ。どうやら、ホームレスの人がジュリを助けてくれたらしいの。だけど、そこから先が分からないんだよね」
ペット探偵が必死になって捜索しているはずなのに、なぜか、まだ見つからない。
(今度、猫のジュリが夏目さんに憑依した時にマダムについて聞くとしますか~)
☆
春爛漫である。由布子が世界史の授業をしている頃。
マダムは美しい芝生が見える自宅のテラスで物憂げな溜め息をついていた。
人は、なせか独身の彼女を、『マダム』と呼ぶ。
二十二年前、思い切って金玉を切除した。
岡山の絶世の美少年と謳われた小日向昭三は三男で親から可愛がられていた。しかし、心は女だと親に打ち明けてからは一度も故郷の岡山には戻っていない。
新宿でスナックを開いたのが二十三歳。その頃はティファニーと名乗っていた。
マダムが三十歳になった頃から、スナックの客相手に星占いやタロット占いをするようになった。それが、よく当たると評判になり、気付いたら占いだけで暮らせるようになっていたのだ。
今のマダムの顧客は大物政治家や政財界の重鎮。それに宗教家や芸能関係者やスポーツマンである。
アメリカ大統領選挙の前には、各国の大使館の者や自民党の大物かマダムに未来を問いかけてくる。
なぜだか、分からないが、マダムは占星術とタロットカードを通して未来を予知できる。外したことなど一度もない。
そんなマダムの足元には美しいブルーの瞳の飼い猫が鎮座している。
「サファイアちゃん。あなた、どうしたの?」
ニャー。上品に鳴いておねだりしている。
(あら、あたしったら……)
お昼のカリカリを与えるのを忘れていたらしい。
マダムは、ゲーシーの中でスヤスヤと眠るキジトラのオス猫を見つめたまま瞳を揺らす。
(可哀想ね。まだ風邪は治らないのね)
何度も同じタロットカードが出てくる。この猫は、もうすぐ死ぬ。
燃え盛る塔と死神と悪魔のカード。この三枚がいつも出てくる。猫の破滅は避けられそうにない。
「迷子のトラ猫ちゃん。あなた、外に出ると死ぬ運命なのよ。いいわね。ここから出ではいけませんよ」
死亡フラグを回避する方法は、ただひとつ。元の飼い主に決して会わせてはいけない。
オラクルカードが告げている。
『古い家族を捨てて新しい家族を選択せよ』
哀しい運命が刻々と迫っている。
(トラ猫ちゃん。ここで新しい家族を作りなさい。それが一番いいのよ)
だから、マダムはインターフォンを無視する。
ピンポーン、ピンポーン。ペット探偵の仁科は、マダムとコンタクトをとろうと必死になるけれど、マダムは居留守を使い続けたのだった。




