第二章 1
居間のソファに腰を下ろすと、朱里がいきなり由布子の膝に頭を押し付けてきた。
「おいら、由布子がいると落ち着くニャ。おまえがいれば安心だニャ」
うざい。膝枕なんてしたくない。頭をどかそうとしたら、三井に叱られた。
「そのまま寝かせて下さい」
フーッ、と三井が溜息を漏らす。
「病院の防犯カメラを調べたところ、坊ちゃまは自分の意志で病室を出たようです。いつから、そのような深い仲になられたのですか?」
「ふ、深くありません。ほぼ初対面です」
戸惑う由布子をよそに、三井は遠くを見つめるように呟いた。
「もしかすると、坊ちゃまは、昔の記憶を思い出されたのかもしれませんわね」
「えっ?」
やけに深刻な顔だ。何か隠しているような気がして、由布子は眉をひそめる。
「昔の記憶って、何ですか?」
「いえいえ、ほんの独り言でございますよ」
声のトーンが少し翳っている。由布子は胸のざわつきを感じた。
気を取り直すように、三井は話題を変えている。
「注意事項を言いますわね。本館で暮らす奥様、方子様は、坊ちゃまと血の繋がりはございません。いわゆる継母でございます。本館には不用意に立ち入らないようにして下さいませ」
「継母と仲が悪いのですか?」
「ノーコメントでございます。お察し下さい」
「その奥様にお子様はいますか?」
「方子様にはお子様がおられません。坊ちゃまが唯一の跡取り息子でございます」
話の区切りで、由布子はスマホに目を落とす。
駄目だ。ジュリに関する連絡は何も入っていない。
「実は、あたしの飼い猫が三日前から行方不明なんです。街中にポスターを貼っているんです。まだ見つからなくて心配です」
「猫は死ぬ時は姿を隠すと申しますからね。猫が道で死んだ場合は、清掃局や土木課が処理するそうですよ。問い合わせましたか?」
「それらしき猫はいないそうです。それに、あの子は健康です」
「性別は?」
「雄です」
「さようでございますか。雄猫は恋の季節になると放浪することもございますからね」
由布子はスマホをスクロールする。
「夏目さんは猫を助けようとして事故に遭ったそうですね。その猫、もしかしたら、うちの子かもしれません。防犯カメラとか見られたら……」
「TikTokに上げておりましたので、うちでデータを買い取りましたわ」
画像は粗いが、脚を引きずって歩くキジトラの猫の後姿は、間違いなくジュリだ。
スマホには、若者とその彼女の声も録音されている。
『あの猫、どこに行くつもりだ? 怪我してんじゃん。つーか、金玉、でけぇ猫だな』
『そうだね。あんたの金玉より大きいわ』
『うっせぇ、オレと比べるな』
『倒れている人、マジ、イケメン。ドラマの撮影かな?』
そこに老人が声をかけた。
『ばかもーん。君たち、撮影などしておらんで救急車を呼びなさい』
『あっ、はい。すみません』
動画はそこで終わっている。
三日前、ジュリが怪我をしたのは確実だ。
「ジュリを早く見つけなくちゃ」
「坊ちゃまと同じ名前なんですね。ジュリというのは漢字ですか?」
「カタカナです。これがうちの猫の写真です」
お尻を向けたまま振り返るジュリ。スマホの待ち受けを見せると、三井が微笑む。
「立派な金玉でございますわね」
三井もジュリの金玉に目を奪われている。
「去勢はしなかったのですか?」
「何度かしようと思ったんですが、あの子が嫌がってできませんでした。あっ」
その時、兄からLINEが届いた。
『由布子、ありがとな。オレ、今、北京ダックと小籠包を食ってる。まじ、うめぇ。いつ、坊ちゃんのお友達になったんだ?』
由布子は苦笑いしながらスマホを伏せる。
(友達じゃないよ)
この状況を兄に説明するのは難しい。
御曹司は由布子の膝枕でスヤスヤ寝ている。三井は慈母のような笑みを浮かべている。
結局、由布子は住み込みのバイトとして同居する契約を結んだのだった。
半時間後。
(いつまで、こいつの膝枕をしなくちゃいけないのよ……。そろそろオシッコに行きたいんだけど)
そっと朱里の頭を膝から外してトイレに向かう。すっきりして冷蔵庫を覗き込むと、背後から低い声。
「おい、おまえ、そこで何をやってる?」
いつのまに目覚めたのか。
「あっ、こんにちは」
「なんでここにいる?」
語尾に「ニャ」をつけていない。まともバージョンの朱里だ。
「三井さんに頼まれて来ました。あなた専用のヘルパーです」
「ふざけるな。部外者は帰れ。不愉快だ」
「しょうがないじゃないですか。もう一人のあなたが、あたしを溺愛しているんだもん。早く、まともになって下さいね」
「溺愛?」
気に食わないらしい。顔を歪める朱里。
「記憶にないようだけど、車の中で、あたしのことが世界で一番好きだって連呼してたんですよ。運転手の柴田さんが驚いて事故りそうになったくらい」
「まったく覚えてない」
ハーッと憂鬱そうに眉根を押さえる朱里。
「頭打ったせいかな……。眠い。夢でオレ、猫になってた」
頭部の後遺症はいつまで残るのか。早く元気になってくれないと困る。
その時、由布子の携帯が鳴った。
(あっ、小雪さんだ)
小雪さんは二十七歳のパート主婦で、高田さんの奥さん。夫婦そろってお隣さんだ。
「由布子ちゃん? 急にアパートからいなくなったから心配したわ。留守電、聞いたよ。今、親戚の家にいるんでしょ?」
違うけど、まあそういうことにしておこう。
「ところで、御宅のジュリちゃん、見つかった?」
「いえ、まだです」
短いやりとりの後、由布子は改めて思った。
(早く、ジュリを保護しなくちゃ)
由布子は朱里に向かって言う。
「あなた、今のところまともなようだから、あたし、ジュリを探しに公園まで行きます。お留守番していて下さいね」
「好きにしろ。つーか、二度と帰ってくるな」
偉そうな態度にムッとしながら、由布子は外へ。
ジュリの縄張り、向日葵公園へ向かう途中……
(あの子、何やってんのかな?)
ダンボールを抱えてオロオロする小学生の男の子を見かけた。ダンボールには「期間限定で猫の里親募集」と書かれている。
「坊や、どうしたの?」




