第一章 2
翌朝の午前七時。誰かの吐息によって目覚めた。
「おい、てめぇ、何やってる?」
驚いたことにベッドの中に全裸の朱里がいた。涅槃像のようなスタイルで寝そべり、由布子を凝視している。
由布子は、ぎゃーーー!と悲鳴をあげ、ベッドから飛び降りる。
「なんで裸なんですかーーー。ふざけるのもいい加減にして下さい。勝手にベッドに入らないでください。マジで警察を呼びますよ」
「てめぇこそ、ふざけるな。おまえが妙な薬を飲ませてオレを襲ったんだろう。誘拐罪で訴えるぞ」
「言っていい事と悪い事がありますよ。被害者はあたしの方ですよ」
「ああ、分かったぞ。レイプされたとか嘘を言って親父から慰謝料をせしめるつもりなんだな。おまえの仲間は誰だ」
「えっと、意味がわかりませんけど」
由布子は、朱里の裸体を見て気付いた。
「全身、打撲してますね。何があったんですか?」
朱里は自分の身体を見下ろしたまま呟いている。
「何で、こんな痣だらけなんだ? オレに何をしたんだ?」
「何もしてません。勝手に来たんですよ。それを証明します」
いわゆるペットを見守る監視カメラの画像がある。
キッチンの半分と玄関先の光景はカメラの視界に入っている。
「これが証拠です。あなたが玄関の外側からドアを叩いて入ってきたんですよ」
「なんで、オレが、こんなところに来るんだよ? ていうか、おまえは誰だ?」
「これまでに、あなたと会話した事はありませんが、あなたが卒業した高校の後輩で高校に通う瀬戸由布子です。あなたは女子高校生にとんでもない要求をしてきたんですよ」
昨夜の変態ぶりを細かく説明すると、朱里は鬼の形相になって否定した。
「尻を叩いてくれなんて言う訳がねぇだろう。猫じゃあるまいし」
「だけど、深夜三時に、あなた、猫の砂に向かってオシッコしてますよ。女の子座りの体勢で、ジャーーーっとやっちゃってますよね」
もどかしそうに服を脱いでからオシッコをしている。
実に間抜けな恰好だ。
「み、見るな。何かの間違いだ」
羞恥に追い詰められて身悶えしているが由布子のダメ出しは続く。
「それに、キッチンの引き出しにしまっていた猫缶を勝手に取り出してるじゃないですか。三個、素手で食べてます。ほんと、行儀が悪いな」
油まみれの手をペロペロと舐める様子は、まるで妖怪。
食後、満腹になって満足したのか四つん這いになり背筋をピーンと伸ばしたかと思うと、大きく欠伸をしてから、由布子の部屋のある方向へいそいそと歩き出す映像がバッチリ残っている。
「マジでキモイです」
さすがに恥しいのか、朱里は赤面して目を逸らしている。
「迷惑をかけたようだ。それは謝る。こんなふうになったのは、深い理由があるに違いない。いいな。オレは変態ではない。あの画像はすぐに消せ」
事故の後遺症か何かのせいでおかしくなったのだろう。それは由布子にも分かる。
(この人って口が悪いんだな。完全無欠の王子様だと思っていたのに、こんなややこしい奴だったとは……)
どうしたものかと頭を抱えていた。
「よく分からないけど、とりあえず、さっさと帰ってもらえますか」
「ああ、そうだな。運転手の柴田を呼んでくれ」
「えーっと、電話番号は?」
「覚えていない」
「じゃあ、自宅の電話は?」
「知らない」
「ご家族の携帯番号は?」
「親父は海外にいるし、奥さんの番号も知らない」
「他に頼れる人はいませんか?」
「ばぁやの番号なら覚えている」
由布子がばぁやの携帯に電話をかけると、朱里の世話係の三井が悲痛な声で叫んだ。スピーカー越しに由布子にもはっきり聞こえる。
「坊ちゃまーーーー。御無事でしたか。一体、どこに行かれていたのですか。もしや、誘拐されたのですか?」
「分からない。気づいたらここにいた」
「今、どこにおられるのでございますか?」
「おい、ここはどこだ? おまえの住所を教えろ」
由布子は自宅の住所を告げてからこう言った。
「善意の第三者の瀬戸と申します。何ていうか、詳しいことは、こちらに来た後で話しますね」
十分後。大家さんの自宅の前でエンジン音がしたかと思うと、高級なスーツ姿のガタイのいい男二人がアパートに踏み込んできた。
サングラスの男Aが声高に叫ぶ。
「クリアーー。異常なし」
「こちらもクリアー」
そいつらは由布子のベッドの下まで覗き込んでいる。
「あのーー、うちは土足厳禁ですよ」
だが、男Aは由布子の戸惑いなどお構いなしで携帯で報告している。
「三井さん。坊ちゃまはここにおります。ええ、御無事です。室内にいるのは日本人と思われる貧相な小娘一人です。どうぞ、お入り下さい」
ベンツの後部座席で控えていた七十歳ぐらいの優しそうな老女が現れた。
「お邪魔致します。三井と申します」
黒服の男達とは違って小柄で丸顔の三井は礼儀正しかったが、家政婦としては高齢だ。
どう見ても七十歳は越えている。
「坊ちゃま、どうして、このような場所におられるのですか。誘拐犯はどこにいるのですか?」
それに関して男Aが言う。
「誘拐とは関係無さそうですな。拘束具などは見当たりません」
そもそも、なぜ、御曹司の身体に打撲の痕があるのだろう。
「何が起きたんですか?」
すると、三井が溜息まじりに答えた。
「三日前の深夜に車に跳ねられて意識を失ったのでございます。全身打撲という事でしたが、骨折はしていません。しかし、一度も、目を覚まさなかったのです。それなのに、昨夜、病室から消えていたのでございます」
「三日前に事故ですか」
「深夜、坊ちゃまは、公園にいる地域猫のお世話をしています。坊ちゃまは、猫と戯れるのがお好きなのです。しかし、そのせいで、このような事に」
三井はズズッと木綿のハンカチで洟をすすっている。
「たまたま、そこを歩いていたアベックの話によりますと、雑巾みたいに小汚いトラ猫が交差点で立ち往生していたのを見て、坊ちゃまは咄嗟に助けようとしたそうでございます」
「アベック?」
すると、由布子の疑問を見透かしたように男Aが淡々と告げた。
「カップルの事だ。坊ちゃんが助けたっていうのに雑巾みたいな猫は、坊ちゃんの腕の中から這い出してどこかに消えたらしい。その猫は脚を引きずっていたらしいぜ」
「雑巾みたいな猫?」
由布子の猫のジュリは顔は可愛いけれど、色味が使い古した雑巾に似ている。
「とにかく、坊ちゃまが見つかって安心しましたわ」
「あの、それがですね。事故の後遺症なのか何なのか分からないんですけど、この人、オツムがちょっと……。論より証拠です。この映像を」
例の映像を三井達にも見せようとすると、朱里が口を塞いだ。
「おまえ、余計な事を言ったら殺すぞ」
ふがふがっ。もがいていると、朱里は爽やかに宣言した。
「監禁された訳ではない。こいつはオレの特別な友人だ。こいつの顔を見たくてここまで来た」
「坊ちゃま、本当ですか? 今までそのようなことはおっしゃっていませんでしたが」
「うぐっ」
違いますと伝えたいのに、朱里がテキトーなことを言っている。
「同じ高校の後輩だ。公園で猫に餌を与えると言いながら、こいつと秘かに会ってたんだよ。黙っていてすまなかった」
「確かに、公園からここまで直線距離で五百メートルですものね。秘密のランデブーですか。アオハルですわね」
三井はどことなくフアフアとした顔つきで呟いている。男Aが渋い声で言った。
「一旦、戻りましょうか」
「そうですわ」
三井が皆に目配せをすると、マッチョな男Bが朱里をお姫様だっこをして歩き出そうとしたのだが。
「やめろ」
不満げでありながらも、顔つきは凛としている。改めて見ると、華やかなイケメンだ。いかにも、やんごとなき御曹司という感じだ。
こうして朱里たちは立ち去った。そもそも、どういう理由でここに辿り着いたのかは謎である。
(あたしは顔を知ってるけど、向こうは知らないはず……)
「ていうか、あいつら土足で歩き回りやがって」
憤りながら床を拭いていると、由布子のスマホが鳴った。
知らない番号だが、出てみる。もしかしたら、行方不明のジュリを見つけた人からの連絡かもしれない。胸を弾ませたが、そうではなかった。
「そちら、瀬戸由布子さんでいらっしゃいますか?」
「はい、そうです」
すると、相手が低い声で続けた。
「突然のご連絡、失礼いたします。夏目家の執事、坂元隆二でございます。坊ちゃまが御迷惑をおかけしたので、瀬戸様の銀行口座に振り込ませていただきます」
「いえ、お金なんて……」
しかし、その声は冷え冷えとしている。
「手切れ金でございます。坊ちゃまは、あなたのような庶民とは身分が違います。どうか身を引いていただきたいのでございます」
「失礼ですね。お金なんていりません。あんなふうに深夜に来られて迷惑だったんです」
「それなら、なおさらお支払いせねばなりません。後日、わたくしが伺います」
「いいえ、誰も来なくて結構です!」
由布子はムカつきながら通話を切った。絶叫せずにはいられなかった。
「誰があんなドM男と付き合うかーーーー」
そんなことより、ジュリが心配だ。
(もしかして、夏目さんが助けようとしたのはジュリかもしれない)
キッチンの片隅には母の遺影と、子どもの頃のジュリの写真が飾られている。一年前、母は心筋梗塞で亡くなった。それ以来、兄と二人で暮らしている。
(一人でも、ジュリがいるから寂しくなかったんだよね……)
由布子は胸を押さえ、揺れる気持ちを押し留める。
(それにしても、ジュリはどこに行っちゃったの?)
☆
夕方五時。由布子は夕飯の支度をしながら、お米を研いでいた。ジュリを探そうと考えていると、玄関のドアを激しく叩く音が響いた。
ドアスコープを見ると、ハイブランドの服を着た朱里が立っている。無視しようと思ったのに、涙を浮かべ、全身を震わせてアピールしている。
「由布子ーーー。おいらはここにいるニャ☆」
ドンドン。
「早く、おまえの膝に乗りたいニャ!」
無邪気に叫ばないでほしい。
「瀬戸様、お願いでございます。坊ちゃまのお顔を見てあげてくださいませ」
家政婦の三井だった。由布子はそっとドアを開ける。
「何の用ですか?」
「帰宅後、坊ちゃまは仮眠を取りましたが、目覚めた途端、こうなったのです。あなたに会いたくて泣き喚くのです」
「はぁ?」
ドアの隙間から由布子は怪訝な顔で見つめ返す。
「医師によれば、一時的に錯乱しているそうです。坊ちゃまの容態が安定するまで、どうか側にいてください」
坊ちゃまは由布子に会いたくて泣き喚き、トイレットペーパーを撒き散らし、本や新聞紙を破いたという。
「おいら、おまえと一緒じゃないと眠れないニャ~。おいらは、おまえのことが世界で一番好きだニャ。どんな美人の牝猫より愛しいニャ」
「坊ちゃま……ううっ」
三井はハンカチで鼻を押さえている。坊ちゃまの馬鹿っぷりが情けないのだろう。
「人助けだと思って付き添っていただけませんか。お兄様の瑠偉様からも許可を得ております」
由布子は兄の給料で生活している。学費も必要。長いものには巻かれるしかない。
「わ、分かりました」
覚悟を決めてドアを開くと、朱里が飛び込んできた。
「由布子ーーー。会いたかったニャーーー☆」
由布子の足元で腹を見せてのたうちまわる朱里。まるで『ゴールデンカムイ』の軍人たちが悶える姿を思い起こさせる。
(キモッ)
仕方なく、由布子は荷物をまとめ、ベンツで移動する。運転手の柴田は三十代前半のお洒落な男性。ベンツは一番高級なクラスだ。
(なんで、あたしが、こんな目に?)
朱里は由布子の腕に頬を押し付け、猫言葉で喋り続ける。
「おいら、神様に願ったニャ。人間のオスとして暮らすニャ。人間の食べ物は美味いニャ」
(夏目朱里のオツムが元に戻るまでの辛抱……)
夏目邸に到着する。敷地は広く、本館はモダンな三階建て。
数歩先を歩く三井がゆったりと語り始める。
「元々、別館は亡き大奥様の居室でございました。今いるのはわたくしと坊ちゃまだけです。どうぞお寛ぎくださいませ」
その時、別館へと続く小道を冷たく見下ろす人がいた。本館二階のベランダに佇む女性、夏目朱里の継母の夏目方子である。
最近、更年期障害と診断され、苛立ちを募らせていた。
「あんな小娘を引きずり込むなんて……。下品な女の息子は、やはり下品な行動を取るのね」
能面のように薄い顔。冷たい怒りが宿った眼光が由布子を見据える。
(その娘は何者……?)
若様の御乱心。突然の同居生活。これが波乱の幕開けとなるのだ。




