第一章 1
今振り返ると、あれは世にも不思議な出会いだった。真夜中の静寂を破り、猫がバイクに轢かれて宙を舞う。薄情な事に、バイクはそのまま走り去ってく。キジトラの猫は交差点で蹲っていたのだ。
「おいらの足が折れちまったニャーー」
なんと痛ましいことだろう。脚がボキッと折れて動けなくなっていた。その時、事故を目撃した大学生のイケメンが血相を変えて駆け寄るが、この直後、再び、横断歩道に車のライトが輝き、彼等を包んだ。
猫の目が眩む中、イケメンは逃げようとしたが間に合わなかった。
必死で猫を守ろうとしたせいで、車にぶつかり、彼は路肩へと吹っ飛び、地面に転がっていく。気絶したイケメンの名は夏目朱里。彼の腕の中にいたのはトラ猫のジュリ。
この瞬間を境に、猫と人間の魂が互いの身体を行き来することになり、彼らの運命を大きく変えていくなんて、まだ誰も知らない。
☆
ドンドンとやかましい。
(誰よ、こんな時間に)
深夜、何者かが玄関のドアを叩いている。十七歳の由布子は、めんどくさそうにベッドから起き上がる。
もしかしたら、お隣に住むサラリーマンの高田さんが部屋を間違えて叩いているのかもしれないと思い、ドア越しに声をかける。
「あのう、高田さんですか?」
「違う。ジュリだニャ」
聞き覚えのない若い男の声に由布子の心はざわめく。
「ジュリ?」
それは由布子の猫の名である。実は、猫のジュリは三日前から行方不明になっている。
猫を探していますというポスターを見た誰かが届けに来てくれたのかもしれない。ドアスコープを覗くと、そこに立っていたのは夏目朱里だった。地域猫の世話をしていることで有名な大学生だ。
(まさか、あの夏目さんが猫を届けに来るなんて……)
由布子はドアを開けたのだが、その途端に目を疑った。シルクのパジャマ姿で裸足。しかも、髪はボサボサ。その右頬には擦り傷がある。
「えっ、どういうこと?」
ジュリを抱えているはずの夏目朱里は、満面の笑みを浮かべながら由布子に飛び込んできた。
「由布子ーーー! おいら、おまえに会いたかったニャーーー」
「はぁ?」
いきなり抱きつかれてぶったまげた。
何なのだ。
涙を流しながら、自分の額を由布子の肩や腕にこすりつけないで欲しい。
「ちょっと、何ですか。やめて下さい。ふざけているんですか」
スリスリ攻撃に恐怖を感じ、グイッと押し返すと、彼は、招き猫のように右手をクルンと曲げながら言った。
「ふざけてないニャ。おいら、おまえに会いたくて人間に生まれ変わったニャ」
「はぁーー。そんなの信じられる訳がないでしょう」
酔っているのだろうか? けれども、アルコールのニオイはしない。しかし、これはどう見てもおかしい。
(もしかして、ハイになるドラッグでもやってる?)
奇妙な展開に由布子は顔をしかめる。
「何ですか? ああ、分かりましたよ。今日はエイプリルフールですね。こんな夜中に迷惑なんですよ。出て行って下さい」
タチの悪い冗談に違いない。昔から、夏目朱里の私生活は謎に満ちており、さまざまな噂が飛び交っている。
彼は、由布子より二歳年上。由布子の通う進学校の卒業生で世界的に有名な夏目グループの御曹司。
ちなみに、由布子の兄は夏目グループの末端の会社で働いている。御曹司の機嫌を損ねて兄が左遷されると困るのだ。
「ここから出て下さい」
追い払おうとすると、身長百八十センチはあると思われる朱里が涙目になって訴えてきた。
「ひどいぞ。おいらのことを捨てるのか? おいらのこと、うちの子って呼んで、赤い革の首輪をつけてくれたのに。おいら、足が痛いのを我慢してここまで来たんだぞ。哀しいニャ」
なぜか、彼は、中腰の姿勢になり冷蔵庫の角に額をこすりつけている。
「おいらのニオイがするから落ち着くニャ。さぁ、由布子、いつものように、おまえの腹の上で寝るニャ」
唖然としていると、彼は、四つん這いになっておねだりしてきた。
「三日ぶりにお尻トントンして欲しいニャ。メロメロに愛して欲しいニャ☆ 由布子ーーー。おいらのお尻、叩いておくれよ」
やめろ。尻を高く上げるな。
警察に訴えるのは簡単だが、金持ち相手に変な禍根を残したくない。
「それじゃ、叩いたら帰って下さいよ」
仕方あるまい。もうヤケクソだ。振りかぶって朱里のお尻を連打する。
「あうあう。いいぞ。その調子だニャ。もっと強く叩いて欲しいニャ。右じゃないニャ。左側を叩くニャ。あうあう。効くニャーーーーー」
(それにしても、まさか、あの夏目さんが非常識な変態野郎だったなんて)
百まで数えて叩き終えると、彼は、恍惚とした表情でパタンと顔を伏せた。
「いきなり、寝落ちですか?」
何なのだ?
「ものすごく迷惑なんですけど。ここ、あたしの家ですよ」
行方不明のジュリのことで頭が一杯なのに、こんな奴の面倒まで見ていられない。キッチンで眠っている朱里を横目で見つめながら溜め息を漏らす。
「と、とりあえず、朝日が昇ってから考えよう」
毛布をかけると、そのままキッチンの床に放置することにした。
(やっぱ、夏目さん、変なクスリとかやってんのかなぁ?)
自分も仲間だと思われて警察に連れて行かれたら困る。
由布子は自室のベッドに横たわって嘆息した。
(あたしを襲うつもりはなさそうだわ)
肝が据わっているので、異常事態だというのに眠るという選択をしたのだ。朝になれば、あの男も素面に戻るかもしれない。そう思っていたのだが、まさか、もっとややこしい事になるなんて思いもしなかった。
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