第六章 6
「あの人は、今、どこにいるのかな。オレのせいで哀しい思いをさせて申し訳なかったな。オレ、何も知らずに恨んでたことを謝りたい」
しかし、もう二度と会えない。
「もう一度、あの人のことをママって呼びたいよ。心から、ありがとうって言いたい。ほんと、馬鹿だよな。オレは何も分かっていなかった」
由布子も、たまらなくなって朱里を抱き締める。
「そんなことないよ。夏目さんも被害者なんだよ。悪いのは坂元なんだよ」
「そうかもしれないが、坂元も、もしかしたら祖父に指示されてやったのかもしれない。祖父は高慢で独善的な男だったからな」
言いながら朱里は鼻を啜っている。
「由布子、本当の事を教えてくれてありがとう。ちゃんと愛されて育ったんだ。生きる希望が湧いてきた。まじで、ありがとな」
朱里は、そう言うと由布子の背中に腕を回すと由布子の頬にキスをした。
意外な行動に由布子の鼓動は揺れる。
「な、な、何をするのよーーーー」
「ただのハグとキスだよ。何か文句あるのかよ」
「あるわよ! うちのジュリにも顔の甘噛みは禁止してるんだからね」
「はぁーーー? 顔の甘噛みって何だよ」
「ジュリが、あたしのほっぺたをハムッと噛んだの。ジュリが言うには、甘噛みって猫のチューなんだって」
「へーえ、面白そうだな。僕、これから、毎日、由布子に甘噛みするニャン☆」
ふざけて、朱里が由布子を押し倒して頬に唇を寄せようとする。
えっと身構える由布子。見つめ合う二人。朱里の瞳に吸い込まれそうになる。
由布子はマジでドキッとなる。
すると、その時、まるで、二人を引き離すかのようにして、唐突に、ホテルの部屋の電話が鳴った。
「はい、もしもし」
どこか不機嫌そうに朱里が呟くと、スイートルーム専用のコンシェルジュが呟いた。
「あの、この度は、当ホテルをご利用いただきまして、誠にありがとうございます。ところで、夏目様、体調は回復されましたでしょうか」
「ああ、特に問題ない」
「そ、それは何よりでございます」
ホテルのコンシェルジュは、乙姫や西川に頼まれて夏目が生きているのかどうかを、わざわざ確認しているのである。
隣にいる西川はホテルのコンシェルジュに命じた。
『呼び出しなさい』
元気になったからには由布子と二人でスイートルームに置いておく必要もない。
「あの、そろそろ、百合様のパーティーが終わる時刻なのですが」
「分かった。すぐ行く。実は、うっかりしていて服を汚してしまったんだ。この部屋に服を届けてくれ」
「かしこまりました」
その後、すぐにタキシードが届けられたので素早く着替える。
「サイズ、ピッタリだね」
「そりゃそうだ。オレが事前に用意してクロークに預けているものだからな。何かあったら着替えられるようにしてるのさ」
「さすが、御曹司」
「おまえのワンピースも用意しとけば良かったな。ワンピースの襟元にゲロがついてるから、売店でコサージュでも買って隠しとけ」
「うん、そうする」
そして、由布子と朱里は、またパーティー会場へと戻っていったのだ。
☆
芸能記者は、おやっと目を見張るようにして朱里を目で追っていた。
(金持ちはパーティーの途中で着替えるのか。前よりもイケメンになってるぜ)
ボーイズグループの奴等も嫉妬するぐらいの二枚目だ。背も高いし脚も長い。
それにしても、隣にいる若い娘は何だろう。
(秘書なのかねぇ。まぁ、何にせよ、あいつは夏目家の次期当主になることは間違いないと言いたいところだが……)
芸能記者は知っている。
夏目朱里の祖父は死ぬまでお盛んだった。そんな彼には芸者に産ませた隠し子がいる。
五年前、朱里の祖父が亡くなった際に、庶子の礼馬は夏目グループの株の七パーセントを受け取っている。
吉田礼馬。三十二歳、独身。ハーバードを卒業しているエリートである。
(つまり、礼馬は夏目朱里の叔父ってことだ。優秀な礼馬に夏目クループを託したいっていう一派もいるんだよなぁ。さてさて、どうなることやら)
夏目グループの幹部達は、事故でオツムがおかしくなったと噂の朱里の様子を窺っているようである。
芸能記者は気付いている。
(オレの他にも、夏目朱里の動向を探るスパイがいるようだな。礼馬の一派だろうよ)
礼馬の部下が朱里を観察していたのである。
『やはり、夏目朱里は頭の中がお花畑のようです。先程は、大きな大福を喉に詰めて悶絶していましたし、なぜか、いきなり、廊下を袖口で拭いていました。もはや、再起不能かもしれません』
そこまで文字を打った時、朱里が彼の横を通り過ぎたのだが、その時、彼は目を疑った。まるで別人のような神々しさを放っていたからだ。しかも、朱里は、まるで、お風呂上りのようにいい匂いがする。実際に風呂上がりなのだがスパイは知らない。
☆
いよいよ、パーティーもフィナーレを迎えようとしていた。今夜の主役の百合は愛する娘と共に金屏風の前に立っている。
百合と方子は、毎年、パーティーの最後に募金を呼びかけているのだが、今年は朱里も参加している。百合は壇上に朱里を招くと誇らしげに告げた。
「では、こちらの夏目朱里さんから皆様にお話があります」
朱里は出席者を見回した後、厳かにスピーチを始めた。
親のいない子供達に対する世界中の支援を呼びかけている。キリリとした顔つきに由布子は見入っていた。
猫憑きの時とはまるで別人のようだ。
(いや、別人なんだけど、とにかく、ギャップが凄い)
いや、高校時代の朱里はこんな感じだった。クールで完璧な優等生で近寄り難いオーラを放っていた。そうだ。これが本来の彼なのだ。
「紛争や災害。事故や事件。病気。様々な理由によって親と別れる子供がいます。孤独で心が壊れそうになる事もあるでしょう。もう生きるのをやめたいと嘆く日もあるでしょう。でも、忘れて欲しくない。みんな、愛されて、この世に生まれてきたのです」
やけに言葉に熱がこもっており、みんなの心を揺さぶっている。
「何の為に生きているのか。迷う日もあると思います。誰からも必要とされていないと感じて落ち込む日があるかもしれません。しかし、自分の行動が自分の人生を変えていきます」
その時、朱里は壇上から方子を見つめていた。
「僕は、こうして生まれてきたからには、この世界の一員として精一杯生きていきます。愛する人達を守り、幸せになりたいと思っています。今、悩んでいる人達は自分をもっと愛して下さい。自分のことを誇りに思ってください」
由布子は、しんみりとした気持ちで聞き入る。彼の真摯な言葉が染み渡るかのようだ。
(多分、夏目さんは、色々と悩み続けてきたんだろうな)
だが、朱里の中で気持ちが変わったのかもしれない。その瞳の奥が輝いている。
「子供達の未来の為に募金をよろしくお願いします。お帰りの際には、どうか、募金箱にあなたの気持ちを入れていただけると幸いです」
集まった義援金は孤児達の奨学金に当てられる。




