第六章 3
周囲の者はシーンとなった。
それを見ていた記者はピンときた。
『あの坊ちゃん、いたいけな中学生に恥をかかせまいとして飲んだんだな。わざと粗野に振舞ってるんだな』
いや、違う、猫のジュリには綺麗な水に見えただけのこと。
そして、ゲップは自然現象。
誰かを救う意図などなかったのだ。その後、ジュリは由布子に叱られている。
『ジュリ、その水は飲んじゃ駄目なんだってばーーー』
『綺麗な水だぞ』
『そんなに飲みたいなら、このジュースを飲みなさい』
記者は、その後も朱里の行動を遠くから見つめていたのである。
由布子がトイレに入っている間、ジュリは女子トイレの前で待っていた。すると、観光から戻って来た酔っ払いの欧米人が手にしていたペットボトルの水をこぼしたまま立ち去った。それを見たジュリが、しゃがみ込み、タキシードの袖で拭き出した。
ペロペロ。まるで猫が床を舐めるように丁寧に拭く。
由布子に言われた事を守っていた。お掃除をすると由布子に褒めてもらえる。
おいら、いい子だよ。
頭を撫でてもらいたくて、そうしているが、記者は、そうとは知らずに感心している。
『我侭放題に育てられたのかと思ったが、案外、ちゃんとしてるんだな』
適当な記事を書いて貶めてやろうと思っていたが辞めた。
その後は、会場にいたボーイズ・アイドルグループのSに張り付いた。Sは、麻薬に手を出しているという噂がある。
『スクープしてやるぜ』
とまぁ、こんなふうにして、意外にも平和に時が流れていたのだが、中盤に事件が起きた。
「あら、ごきげんよう」
その声は着飾った乙姫である。迫力満点の乙姫の登場に由布子はたじろいで後ずさる。
乙姫は微笑みを絶やさないまま由布子に飲み物を差し出している。
「瀬戸さん、いつも、わたしの婚約者のお世話をして下さってありがとうございます。どうぞ、特性ジュースをお飲みになって」
「えっ」
何だろう。亀の甲羅を煮詰めたような妙な匂いがする。乙姫の目力に気圧されて受け取るしかなかった。
(あたしにこれを飲めと言うの? まさか、毒など入ってないよね?)
由布子の疑念は正しかった。それには怪しい薬が入っている。
「あら、どうなさったの? うちの西川が作ったのよ。身体に良いものが入っておりますのよ」
「うっ」
絶体絶命。飲むのが怖い。その時、エリカが登場した。
「あら、遅くなってごめんなさいね。バイトの子が遅刻したもんだから」
今夜のエリカの真っ赤なドレス姿はハリウッド女優のように美しい。エリカにジュリを託すべきだろう。
「そ、ぞれでは、エリカさん、夏目さんのこと、よろしくお願いします」
そう言うと、由布子は黒い謎の飲み物を飲み干していく。その直後、喉が焼け付くような感覚に襲われた。エリカが叫ぶ。
「やだーー。それ、アルコールよ。ちょっと、乙姫ちゃん、駄目じゃないの。由布子ちゃんは未成年なのよ」
「あら、そうでしたの? 西川ったら、うっかり屋さんね」
乙姫が用意した謎の液体は漢方薬入りのテキーラである。乙姫が言った。
「急性アルコール中毒にならぬように医師を連れて行きますわね。西川、あなたの落ち度よ。由布子さんをホテルの寝室に連れて行って看病をしてさし上げなさい」
「はい。かしこまりました。乙姫様。お任せ下さい」
これは由布子と朱里を離間させる為の作戦である。
エリカは乙姫の悪巧みに気付いて顔をしかめる。一方、被害者の由布子は漢方薬の苦味に顔をしかめている。
「別に医者なんて必要ないんですけど」
お酒なんて飲んだのは初めてだが、別に、病気ではないのだから、そんなに大袈裟にしなくてもいいです。
そう言おうとしたのに、西川に襟首の辺りを叩かれて由布子は失神した。
「由布子!」
ジュリの悲痛な声が響く。
目の前で由布子が気絶したものだから、ジュリは慌てた。自分もついていくと騒ぐジュリに対してエリカが告げる。
「ジュリちゃん、駄目よ。静かにしてね。由布子ちゃんは眠いのよ。ちょっと横になるだけなんだからね。あなたはここにいなさい」
エリカには考えがあった。人間の朱里と違って猫のジュリは遠慮を知らない。きっと、乙姫に対して拒否反応を起こしてくれる。
『こんな婚約、早く解消すればいいのよ』
さぁ、自由に暴れなさいとばかりにジュリを乙姫に差し出していく。その数分後。乙姫とジュリはホテルのスイートルームで向き合うのだ。
☆
「なぁ、由布子はどこにいるのかニャ。ここにはいないニャ」
ジュリは由布子に会いたくてたまらない。ここで待つように言われたので来たものの、知らない太った女と二人でいてもつまらない。せめてエリカという女がいれば良かったのに。
エリカは乙姫の側にいればいいのよと言って笑っていたのである。
乙姫は、綺麗な夜景の見えるホテルの一室で良からぬ事を企んでいた。
「ねぇ、夏目様。わたしのこと、どう思っていらっしゃるの?」
「フニャ?」
どうもこうも、ジュリにとっては見ず知らずの変な女に過ぎない。
ジュリも大人だ。公園を散歩していて知らない人間に頭を撫でられる事もある。
可愛い。そう言われるとジュリも悪い気はしないが、中には危害を加えるつもりで近寄る奴もいる。
勝手に金玉を取る謎の集団がいる。(地域猫を見守る獣医たちのことだが、ジュリにとって、彼等は悪魔だ)
それに、小さな子猫の首ねっこをつかんで、その猫を噴水に投げ込んで笑う酔っ払いもいた。そいつの顔と声は忘れない。だいたい、猫は、邪悪な人間に関してはニオイで分かる。
「ねぇ、夏目様」
ベッドの縁に座るジュリの肩に手を添えようとした乙姫にゾクッとなる。
こいつは良からぬことを企んでいる。
(おいらは賢いぞ。この人間は悪いニオイがするぞ)
ジュリは猫パンチを繰り出していく。
「おまえ、図々しいニャ。おいらに触るニャーー」
ガリッ。乙姫の丸い頬に蚯蚓腫れが走った。
「何をなさいますの!」
「由布子に会いたいニャ。由布子に早く会わせろ。おいらの由布子はどこにいるニャ」
いつもなら、この時間は大好きな由布子と二人っきりで過ごしている。
「おいら、由布子のところに行くニャ」
「いけませんわ。あなたは、わたしの婚約者なのですわ。あんな女ことは忘れて下さいませ」
乙姫はジュリに抱きつく。すると、ジュリがピリッと叫んだ。
「放せーーー。由布子以外の抱っこなんて、お断りだニャ」




