第六章 2
当たり前だ。ジュリにとっては興味のない人達である。いつもなら、シャッーと唸って追い払うところだが、今日はシャーを禁止されている。
ジュリは不安そうに由布子を見つめている。
その女は、方子が朱里と距離を置いている事を知りながらこう言った。
「お継母さんと一緒にパーティーに来るなんて仲良しなのね~」
「母ちゃん……」
たちまちジュリの瞳が揺らいだ。
母猫は痩せて小柄で貧相な白猫だった。ジュリが最後に母猫を見たのは雨の夜だった。食べ物を探しに出たきり二度と帰ってこなかった。
幼少期の記憶が蘇り切なくなってきた。ジュリは今にも死にそうな妹と共に母の帰りを何日も待ち続けた。
子猫のジュリにとっては母猫だけが頼りである。
「お、おいらの母ちゃんはおいらを捨てた。もういない」
いきなりのカミングアウトに、みんな、ギョッとしたようにして聞き入っている。
当時のジュリは空き家の縁の下をねぐらにしていた。
野良犬やカラスから子供を守ろうとして母猫はここを選んだ。その頃、母乳を卒業していた。母猫が運んできた残飯を食べた。泥水に濡れた食パンは不味かった。それでも、子猫達は文句を言わずに食べた。
『おまえ達、ここに隠れていなさい』
母猫はそう言うと、塀の向こうへと去っていく。しかし、二度と帰って来なかった。
「おいら、腹ぺこで死にそうになった。何日も何日も母ちゃんを待ってたけど、帰って来なくて悲しかった。食べ物を探しに外に出たけど、大きい車に轢かれそうになって死ぬほど怖かった」
言っているうちにジュリの感情が高ぶってきた。惨めで悲しい記憶。母に捨てられたなんて思いたくなくて、あの時、ニャーニャーと鳴いた。
「もう死ぬと思った。優しい人間と遭遇した。おいら、その人に抱き締められていた。優しい匂いがした。おいら、正式に、その人と家族になって暮らし始めた。新しい母ちゃんだ。誰よりも好きだ。でも、おいらが、くっつこうとすると、時々、怒る。おいら、それが寂しい」
ジュリは由布子のことを言っているのである。
天麩羅をあげている時にスリスリすると由布子は激怒する。危ないから、あっちに行きなさいと注意する。
「おいらの新しい母ちゃんは、おいらが危険な目に遭わないように、いつも頑張ってくれる」
アパートの庭先で蛇を見つけたりしたら、由布子はジュリが噛まれないように草刈鎌で蛇を成敗している。
ジュリが他のオス猫と縄張り争いをした時なども、由布子は果敢に棒を振って敵を追い払う。
「おいらが、ちっちゃい頃、うっかり絨毯の上でウンコを落としたけど、おいらのこと叩いたりしなかった。おいらのウンコトレーニングに根気強く付き合ってくれた」
猫の砂の上でウンコをしたジュリだったが、砂を脚で蹴った弾みでウンコが吹っ飛んだことがある。
由布子の兄は大騒ぎしていたが、由布子はむしろ褒めた。
いい子。ジュリはいい子だね。ちゃんと砂の中に埋めようとしたんだね。ほんと、いい子。
「おいらの新しい母ちゃんは、おいらが子供っぽいことしても笑って包み込んでくれる」
ジュリの言う子供っぽい事というのは、あれだ。踏み踏み。いわゆる子猫が母猫に甘える行為である。ジュリは無心に布団を踏み続ける。
猫の踏み踏みは、この世で最もいじらしい光景だ。
「おいら、新しい母ちゃんが大好きだニャ」
由布子を熱く見つめるジュリだが由布子の隣に方子がいる。だから誤解が生じた。
感激屋の百合はウルウルと大きな瞳を揺らして感動している。
「あら、朱里君、方子のこと、そんなふうに思ってたなんて知らなかったわ」
みんなも、朱里の生みの母親が育児放棄していた事は知っている。方子の事を馬鹿にしていた女達も方子を尊敬の眼差しで見つめ始めている。
見直したわよ。方子。いつもは方子に意地悪な真島も目を潤ませている。
女同士、いがみ合っていようとも、それぞれの胸には溢れんばかりの母性がある。
「方子、あなた、朱里君に愛されてるのね」
そんなことを言われた方子は魂が抜けたように呆然としている。由布子はホッとしていた。
ジュリは由布子への熱い想いを語っていたのだが、継母を慕っていると勘違いしたようだ。
「ごめんなさい。あたし、コンタクトがズレたみたいだわ」
方子は、そう言うと洗面所へと駆け出していった。気のせいだろうか。方子の目に光るものが見えたような気がしたのだが……。
百合は次のグループへと移動して挨拶している。そして、真島達、おばさんグループも美味しそうなケーキのバイキングに夢中になっている。
由布子は、ふうっと安堵の溜め息を漏らす。
「ジュリ、よくできました。偉かったね」
よしよしとばかりに頭を撫でる。
「おいら、賢い猫だニャ☆ お寿司が食べたいニャ」
会場には寿司カウンターもある。ちなみに、ジュリの好きなお寿司はサーモンだ。
その間、遠くからジュリの振る舞いを観察する者がいた。
そのおっさんは、このパーティーを取材しにきたゴシップ専門の芸能記者である。彼は、朱里の悪行をスッパ抜いてやるつもりで見ていた。
しかし、『ジュリ』は記者が予想したような高慢な坊ちゃんではなかった。
実は、パーティーが始まってすぐに、こんな事があった。
慈善活動が趣味の百合は、毎年、孤児の中学生をパーティーに招いており、今年も六人来た。その子達は制服姿なので目立っている。御馳走のバイキングに夢中になっていた。伊勢海老にかじりついた後、坊主頭の男の子が、そこにあったフィンガーボールの水を飲んでしまった。
それは海老を素手で剥いたことで汚れた指を洗うための水である。
そんなものを美味しそうに一気に飲むなんて。
周囲の人達はクスクスと笑う。馬鹿にしている者もいれば、その失敗が微笑ましくて笑った者もいたのだが……。
貧しい中学生の男の子は、自分のやらかした事に真っ赤になっていた。すると、そこに現れたジュリが、平然と、同じように手を洗う水を飲み干して満足そうにゲップをしたのである




