第五章 6
「そんなことより、明日、乙姫の母親の誕生日パーティーよ。あたしは行くんだけど、あなたはどうするの?」
自分には関係ないと言いたいのだが、猫のジュリが出席したら、とんでもない事になる。
「夏目さん、体調が悪いと言ってパーティーを断るべきですよ」
「婚約者のお母様のパーティーよ。断れないわ」
「夏目さん、結婚したくないみたいなんですよね。それなら、ハッキリ言えばいいと思いませんか」
「朱里は、ああ見えて内弁慶なのよ」
「普段、偉そうにしている癖に見損ないましたよ」
「由布子ちゃん、あなたは強いわね。でも、みんなが、あなたみたいに強いって訳でもないのよ」
ふと思い出した。
小学生の頃、電車の中で痴漢に遭っても何も言わずに我慢していた子がいた。由布子は、電車に乗った際にロリコンの変態に対して、キッパリとやめて下さいと言い放つタイプの女の子だった。
あの時、親切心のつもりで友達に言った。
『ちゃんと闘わないと駄目だよ。嫌な事は嫌って言わない方も悪いんだよ』
そしたら、その子は泣き出してしまった。
『由布子ちゃんが強過ぎるんだよ! あたしは由布子ちゃんみたいに強くないんだよ』
強い事が悪いかのように言われてまい、由布子も傷付いたのだ。
エリカは、急に暗くなった由布子の表情から読み取ったのかもしれない。
「あら、ごめんなさい。あなたを責めているんじゃないの。あなたは親から正しく愛されて育ったんだと思うのよ。だけど、朱里はそうじゃないのよ。家族と揉めて居場所がなくなるのが怖いの。それで、色々と臆病になっちゃうんだと思うの」
「あたしだって両親を亡くして不安な気持ちで生きてますよ」
「そうね。だから、猫がいなくなると不安でたまらないんでしょう? 大切なものが目の前からいなくなる恐怖に我を失うのよね?」
そうかもしれない。ジュリが河に落ちたと聞いた時、気が狂いそうになった。
「あのね、朱里は、あなたが思う以上に方子さんに気を使っているのよ」
「継母が、そんなに怖いんですか」
「ううん。方子さんって可哀想な人なのよ。子供が欲しくてたまらなかったの。ちょうど、朱里が五歳になった頃、公園で朱里と会うようになっていたの」
それは前にも聞いた話である。
「週に何度か二人は会ってたの。事件が起きる前日、方子さんは医者から言われたの。妊娠していますって。それで、その時の方子さんはウキウキしていたの。でもね、悲劇が起きたわ」
その日、強い風が吹いていた。雨も激しかった。
『おばちゃん、明日も会えるよね。僕、カレーパンが食べたいな』
幼い朱里は方子にそう言った。まさか、こんな天候なのに、あんな小さなが公園にいる訳がないと思いながらも様子を見に行かずにはいられなかった。
寒さにガタガタ震えながら朱里は方子を待っていた。方子は駆け寄った。
『あらあら、朱里ちゃん、お腹が空いたのね。さぁ、お食べなさい。この傘をかしてあげるから、今日は、このままお家に帰りなさい』
『駄目だよ。おばちゃんが濡れちゃうよ。風邪ひくよ』
『いいのよ。おばちゃんは走ってタクシーに乗って帰るから平気よ』
そう言って、方子は公園の外へと向かい、横断歩道を渡ろうとしたのだが、その時、雨に濡れた舗道で転倒したのだ。方子は腹部と額を強打して気絶しており、救急車て運ばれていく。
『おばちゃん!』
朱里は一部始終を見ていた。
すべてを包み込むかのようにエリカが哀しげに呟いている。
「あの時の光景が朱里の目には焼きついてるのよ」
ザーザー降りの雨で足元は水溜りになっていた。血が墨絵の様に広がっていた。方子は一人で倒れていた。朱里は駆け寄ろうとしたけれど、その時、脚が竦んで動けなかった。
おばちゃん。ごめんなさい。
その夜、朱里は風邪をひいて寝込んだ。
代理母のフーが留守にしていたので、アパートの管理人が朱里の世話をしてくれた。
一方、病院に運ばれた方子は絶望していた。
「転んで流産した方子さんは、もう子供は望めないと宣告されたのよ」
それを知った朱里の祖父が、ここぞとばかりに隠し子の存在を口に出したのだというから呆れたものだ。
まったくもってデリカシーのないじいさんである。
それ以後、方子は公園には来なくなった。
「幼い朱里は公園で待ち続けたけれど、二度と、方子さんは現れなかった。朱里は優しいおばちゃんが死んだと思って怯えていたそうよ」
半年後、朱里と方子は再会するが、その時の方子の顔は能面のように硬直していた。
公園にいた男の子が、まさか、夫の隠し子だなんて……。
自分でもよく分からない感情が方子の中で渦巻いた。
方子は、おばちゃんと呼んで懐こうとする朱里を振り払うが、それでも、朱里は方子のことを切なげに見つめていたという。
「朱里は方子さんに償いをしたいのよ。朱里は言ってた。お腹が空いて哀しい時、方子さんが抱き締めてくれたって。朱里にとって、方子さんは心の拠り所だったの。だから、方子さんの親友の娘との婚約を自分から断るなんて無理なのよ」
「なるほど。そういうことなんですね」
そこまで聞くと、朱里が方子に遠慮する気持ちも分かってきた。朱里は自分の存在が方子を苦しめていると思って真剣に悩んだに違いない。
「でも、乙姫さんにとっても、愛のない結婚は悲劇になるだけだと思いますよ」
「朱里も分かってるから悩んでるのよ」
エリカはスマホを取り出すと写真を見せてくれた。
ふくよかで派手なイタリア人っぽい中年女性が乙姫の母親の百合さんである。森久美子さんに似ている。
「あたし、乙姫の母親と仲がいいの。案外、進歩的な人でね、あたしの女装を認めてくれているの。明日、あたしもドレスアップをしてパーティーに行くわ。あたしが朱里のスーツを用意してあげるわね。二人でフォローしましょう」
「だけど、中味は猫のジュリなんですよ。あの子、きっと、乙姫の顔に向けて猫パンチしますよ」
「いいじゃないの。人間の朱里には出来なくても、猫のジュリなら婚約を壊せるわよ。チャンスだわ。猫のジュリがミッションをこなせばいいのよ」
エリカはノリノリになっている。
「みんな、夏目さんのことを馬鹿だと思っちゃいますよ」
「事故の後遺症ってことにするから平気だわ。ていうか、みんながドン引きしたら、百合さんも娘の婿にしたいなんて言わなくなるかもよ」
「いや、でも」
ジュリの猫言葉を人様に聞かせるなんて考えただけで恐ろしい。
「内輪のパーティーなのよ。何とかなるわよ」
とにかく、由布子は責任を持って付き添わなければならない。由布子は飼い主なのだから。




