第五章 4
一息、入れようとしてお茶を口にした菊江が咽せた。
「大丈夫ですか」
「ああ、大丈夫さ」
一息ついた後、由布子に問いかけてくる。
「えっと、どこまで話したんだっけ」
「とんでもない事って何ですか」
「ああ、そうだ。実は、フーちゃんはひどく酔っていた。だから、本音をこぼしたんだろうね。なんと、最初から小学校に入る前に息子と別れることは決まっていたそうなんだ。恐ろしい事に、フーちゃんのことを嫌いになるように息子に対して冷たく振舞えと指示されたそうなんだ。だから、フーちゃんは泣きながら抵抗しようとした」
しかし、坂元はフーを追い詰める。あなたは不法滞在者だということを忘れないでいただきたい。今すぐ、通報してもいいのですよ。それは完全な脅しだった。
「それで、仕方なく、わざと家を空けたり、部屋の中を穢くしたりして、悪い母親を演じたようだ」
「な、なんで、坂元さんは、そんなことを指示したのでしょうね」
すると、菊江は悲しげに溜め息をついた。
「さぁね。朱里ちゃんを家に放置してホストと旅行に行けって言われたそうだ。そんなことを無理強いするなんてさぁ、えげつないね」
そうか。すべては坂元の指示だったのか。
代理母は苦しんでいた。本当は、幼い朱里のことを愛しており、心底、慈しんでいたのだ。
「フーちゃんはあたしに言ったよ。自分は育児放棄するけれど、朱里が一人で家にいるから、時々、様子を見てやって欲しいってね。もちろん、ちょくちょく見に行ったよ。まだ五歳だというのに、五百円玉を握り締めてコンビニでパンを買っていたよ。本当に賢い子だった」
「でも、一人で歩くなんて危ないです」
「黒服の男が周囲をガードしてたさ。チャリンコが後ろから暴走してきた時なんて、黒服の男がチャリンコを豪腕で倒して止めていたよ」
「そ、そうですか」
さすが、夏目家。あの頃から、朱里にはボディガードがいたらしい。
「別れの日が近くなると、フーちゃんの生活はすさまじい勢いで荒れていった。あんたなんて産むんじゃなかったって叫んでいた事もある。朱里ちゃんは、ごめんなさいと泣いていたっけ。だけど、フーちゃんが朱里ちゃんを叩いた事はなかったね」
代理母のフーはやりたくないことを強いられて心が壊れてしまったようだ。気の毒としか言いようがない。好きでもない酒を飲むようになり、本当に酷い母親に成り果てたというのである。
なんて惨酷な話なんだ。坂元は何を考えているのだろう。
そもそも、そこまでする必要なんてあったのだろうか?
☆
こんなの許せない。
(重篤な人権侵害だわ)
夏目家に帰宅してすぐに坂元に問い詰めずに入られなかった。
「聞きましたよ。あなたが代理母にしたことを夏目さんに話しますからね」
こっちは涙を浮かべているというのに坂元は淡々としている。
「今更、それを話してどうするのですか?」
「あの人は自分が愛されていないと思って傷付いてきたんです。誤解を解いてあげるべきです。ていうか、そもそも、そんなことをする必要がありましたか?」
「ありますよ。いつまでも前の母親のことを考えるようでは困りますからね。朱里様は、ここに越してきたその日から、夏目家の次期当主なのです」
「夏目さんは代理母に愛されていたんです。人は愛された記憶があると心が休まります。子供時代の思い出を壊すなんて酷いわ。あたし、本当の事、あの人に言いますからね」
「おやめなさい」
今日も渋い魅力満載の坂元の顔が厳しくなっている。
「自分の立場というものが分かっていませんね。もしも、何か言ったら、あなたの兄は中国でスパイとして逮捕されて二度と日本に帰れなくなりますよ」
「うっ!」
こんな脅しに屈するものかと奥歯を噛み締める。だが、坂元はスナイパーのようにヒンヤリとした目をしている。
こいつの思惑の中で翻弄されているみたいで苛々する。
「分かったわ。方子さんの命令でやったんでしょう。あのおばさん、意地悪そうだもん。きっと、愛人の息子を苦しめたくてあなたにやらせたのよ!」
「あなたも、そんなふうに方子様を見ているのですか。すべては、わたしが独断でやった事ですよ」
「なぜ、そんなことを!」
「代理母の女は朱里様を我が子として扱おうとしていたからです。その図々しさに楔を打ったのです。夏目家で暮らすからには、正妻である方子様だけを母と呼ぶようにしてもらわなければなりません」
しかし、幼い朱里にとって代理母は心の拠り所だったはず。
「あ、あなたは悪魔みたいな男ですね」
「わたしは方子様の為なら悪魔にだってなれますよ」
「まさか、方子さんの愛人なの?」
それに対して坂元は首を振っている。
坂元の方が方子より少し歳上。年齢的には付き合っていてもおかしくない。すると、坂元は突き放したような顔で告げた。
「方子様は、わたしの腹違いの妹ですよ。わたしの母は方子様の父上の愛人でした。そして、わたしは坊ちゃんの父上とは大学時代からの友人です。方子様が嫁ぐのを機に、こちらの使用人になったのです。わたしは夏目家の為に最善を尽くします」
グッと詰め寄られた由布子は脚が竦みそうになる。
「あなたは、あの時の代理母と同じ目をしてますね。そういう図々しい女性は、いずれ、排除しなければなりません。それが、わたしの務めなのです」
この時、本気で坂元を怖いと感じた。代理母のフーが怯えて精神的に追い詰められるのも無理はない。それでも、最後に悔し紛れに叫んでいたのだ。
「そんな小細工をする暇があったら、方子さんのヒステリーを治してあげたらどうなのよ。あの人、すごく感じ悪いですよ」
方子の悪口を言ったら言い返してくるかと思ったけれど、坂元は、ひどく冷めた顔で聞き流している。そうこうしているうちに、方子が本館に帰宅したようだ。
「由布子様、早く別館にお戻り下さい。でないと、方子様に叱られますよ」
先刻と違い、坂元の声のトーンは柔らかなものになっている。仕方なく、由布子は歩き出したのだがマジでムカついていた。
坂元の頭の中はどうなっているのだろう。
とにかく、この男に注意しなければならないと感じたのだった。
☆
余計な事を喋るなと言われたが知ったことじゃない。
朱里の帰宅を待っていると、夕刻、柴田が血相を変えて別館に飛び込んできた。
「三井さん、大変です。またしても坊ちゃまが御乱心状態になりました。買い物の支払いを済ませて車に乗った直後、猫憑き状態になったのです」
由布子は目を輝かせた。
猫憑き……。いいぞ。ジュリと話せるぞ!
由布子は目を輝かせて外に飛び出していく。
いつものように外見は夏目朱里である。しかし、ゆっくりと車から降りてきた、その顔は、馬鹿全開だ。
「由布子。たっだいまニャ。おいら、おまえの可愛いジュリだぞ☆」
「ジュリーーー! おかえりーーー」
良し、いいぞ。中身は猫のジュリだ。由布子は駆け寄ると、その身体を強く強く抱き締める。ジュリも由布子の愛に応えるようにして背中に手をまわして感涙している。
「由布子、また会えて嬉しいニャ。やっぱり、おまえが一番だニャ」
「あたしもだよ。ジュリ、だーい好き」
「おいら、河に落ちたけど生きてるニャ。おいらは強い猫だニャ」




