第五章 3
方子の事も、単なる意地悪な継母として捉える訳にはいかない。
(夏目さんの生い立ちって複雑なんだな)
その夜、そっと、朱里の部屋のドアの前まで行くと明かりがついていた。ドアを開くと彼はベッドで横たわっていた。
「夏目さん、色々と悲しい目に遭ってるんだね」
よしよしと額を撫でていくうちに、ワーッと泣きたいような気持ちになってしまった。鼻水をズズッと啜ると、朱里が目をパチッと開いた。
「おい、おまえ、人の部屋で何をしてる?」
「あの、ごめんなさい。起きてたの?」
「なんつーか、眠いけど完全に眠れない感じだな。今度、寝たら、もう二度と、この世界に戻ってこられないような気がする。また、猫の世界に飛ばされそうで怖いんだ」
「だけど、休んだ方がいいよ」
昼間、朱里は大学のサークル活動で忙しい。朱里は猫部の部長として保護猫の譲渡のセッティングに追われていると聞いている。
「それは、こっちの台詞だ。おまえこそ、もう寝たらどうなんだ。やけに疲れた顔をしてるぞ」
「……」
「おまえ、もしかして、ばぁやから何か聞いたのか?」
今日、夕飯の時、由布子の様子がおかしかったので気付かれたらしい。
「あっ、うん。本当のお母さんの事とか代理出産のことを聞いたよ」
「おまえ、誰にも話すなよ」
「言わない。でも、知らなかったな。あたしのアパートに夏目さんが住んでいたなんて」
「えっ、オレ、ガキの頃、あのアパートにいたのか?」
驚いたような顔で聞き返されて、逆に、由布子が戸惑う。
「うっそー、覚えてないの?」
「もう昔の事は忘れた。もう何も思い出したくない。オレは代理母にとっては単なる金蔓だった。ママとして慕っていた過去をなかった事にしたい」
「そんな哀しい事は言わないでよ」
由布子が真剣な顔で見つめると急に顔を近付けてきた。
「おまえ、いいニオイがするな。由布子。おまえ、先刻、オレの頭を撫で撫でしていたただろう。もっとしてくれよ」
「い、いきなり、何なのよ」
「そうやって撫でられると、身体と心がスーッと落ち着いて眠れそうな気がするんだ」
そんなふうにすがるような目で見つめられるとズキンッと心が軋む。
(この人、幼い頃、寂しい思いをしているから母親の愛情に飢えているのかな)
由布子の父親は、由布子が小学生の頃に震災が原因で亡くなっている。家の下敷きになって亡くなってしまったから、父の分まで母は働いてきた。
「ねぇ、夏目さんの飼っていたキキっていう猫、どんな猫だったの?」
「オレが五歳の頃、公園で拾った。連れて帰って、アパートで飼った。夏目家に引き取られた時、キキだけは一緒に連れて行った。でも、オレが七歳の時、キキはいなくなったんだ」
「方子さんの仕業なの?」
「そうみたいだ。キキはオレの大切な友達だったから、消えた時はショックだった。あれ以来、黒猫を見かける度に哀しくなる」
「そっか、大変だったね」
由布子は、その夜、寄る辺のない子供みたいな顔の朱里の頭を撫で続けたのだった。
☆
由布子はカレンダーを見てハッとなる。
明日から新学期が始まる。という訳で春向きの洋服や文具など家に置いてあるものをここに運びたい。
「三井さん、あたし、アパートに戻って荷物を取ってきます。あらら、夏目さんはいないんですか?」
「坊ちゃまは、婚約者のお母様へのプレゼントを買いに行かれましたよ。もうすぐ、乙姫様の母上の百合様のバースデーでございますからね」
やはり、婚約者の母親に気を使っているらしい。結婚する気がないなら相手に言えばいいのに。色んな意味でモヤモヤするけれど、由布子が口出しするような事ではない。
最近、御曹司の朱里はまともな状態が続いている。
由布子としては、ジュリと話したいので憑依してもらう方が有難いのだが、こればっかりはどうしようもない。
由布子は徒歩で自宅へと戻る。ボストンバックに必要なものを詰めてから部屋を出ようとすると、大家である老婦人がひょっこりと現れた。
「あっ、大家さん。今月の家賃の催促ですか?」
「いやいや、それなら、もう、あたしゃ、坂元という男前の執事から受け取ったよ」
「そっか、今月分、払ってくれたんですね」
「いや、一年分、貰ったよ」
「はぁーーーー。一年分?」
額が多いが、夏目家にとっては、はした金なのかもしれない。
それにしても、いいタイミングで大家さんが現れたものである。
「聞きたいことがあるんです。昔、あたしの部屋に若い女と幼い男の子が住んでましたよね?」
すると、大家の梅沢良美は顔色を変えた。
「そ、そんなの知らないね。あんたの前に住んでいたのは独身の男だよ」
えっ、でも、確か、三井は言っていた。由布子達がいた部屋に朱里と代理母が暮らしていたと。
「いいかい、余計な事を詮索するんじゃないよ。でないと、後悔するよ」
そうやって隠されると暴きたくなる。夏目朱里の生い立ちに関してもっと詳しく知りたい。
そうだ。あの人なら知っているかもしれない。
このアパートに三十年前から住み続けている老女がいた。二年前、娘さんに連れられて福祉施設に入っているので、早速、そこに向かった。突然の訪問に相手は驚きながらも喜んでくれた。
「おやおや、由布子ちゃん、べっぴんさんになったね」
幸い、菊江おばぁちゃんは頭がしっかりしている。由布子は単刀直入に尋ねた。
「あたし達が引っ越してくる前に、あの部屋に住んでいた親子のこと覚えてますか? 外国人の女性が赤ちゃんを産んで、そこでしばらく暮らしていたはずなんですよ」
「覚えてるよ。日本語がペラペラの留学生だったね。結婚もしていないのに子供を産んだよ」
やはり、夏目朱里はあの部屋にいた。
「フーちゃんは、いつも、赤ん坊を熱心に世話していたね。産んだのは初めてだけど、故郷にいた頃から妹たちの面倒を見ていたらしい。いつも、宝物のように赤ん坊の世話していたもんさ」
おっかしいぞ。聞いていたのと違う。
「男の子のこと虐待するようになったと聞いていますけど」
「そうだね。途中からおかしくなったのさ」
金持ちの愛人として囲われているのかと思ったりもしたが、フーの質素な暮らしぶりを見る限り、そんなふうにも見えなかった。
「時々、高級車に乗って男が訪れていた。舘ひろし似の男前だよ。そいつが、毎週、フーちゃんのところに来て現金でお手当てを渡していたんだ。フーちゃんは、そいつを坂元と呼んでいた」
赤ん坊の定期健診。予防接種。保育園の送り迎え。
フーは、細やかな坂元の指示に従い、きちんと養育していたいう。朱里が三歳になった春に異変が起きる。
「ある日の午後、二人は言い争っていたんだよ。この子を手放したくないってフーちゃんが泣いた。あなたは代理母に過ぎませんって、坂元って男が言っていた。朱里ちゃんが五歳になると、フーちゃんは世話をしなくなった。あたしゃ、隣人としてフーちゃんに言ってやったのさ。あの子の世話をしなくていいのかいってね、そしたら、フーちゃんは大粒の涙をこぼしながら、とんでもないことを言ったんだ。ゲホッ」




