第五章 2
いつも温和な三井が険しい態度で突っぱねているので、こう告げた。
「教えてくれないというのなら、夏目さんが、お尻を叩かれて喜んでいる画像をネツトに流しますよ」
「あなた、そんな事をしたら夏目家に抹殺されますよ」
「そんな脅しには乗りませんよ」
「それなら、こちらも、あなたの脅しに屈しませんよ」
興味本位でプライバシーを暴きたいのではない。由布子は真摯な声で言った。
「あたし、悲しそうな顔をしている夏目さんの過去が気になるんです。少しでも理解したいんです」
そんな気持ちが通じたのか、三井は強張っていた気持ちを解くように口許を緩めた。
「そうですわね」
少し考えた後、戸惑い気味に語り出したのである。
「複雑なのでございますよ。旦那様は、若い頃に親の反対を押し切って谷口まりあという美しい女性と同棲していました。しかし、癌になり入院なさいました。念の為に受精卵を保存しました」
何とも奇妙な事を語り出したのである。
「まりあ様は、二十三歳の若さで急逝したのでございます」
やがて、朱里の父親の千里は見合いの席で伏見方子と出会う。当時の方子は二十九歳。御曹司の相手としては少し歳をとっていた。
「大旦那様は、もっと若い女と結婚しろと言いましたが、旦那様は、たくさんの候補者の中から方子様をお選びになりました。なかなか、方子様は妊娠いたしません。すると、後継ぎの心配をなさった大旦那様が、厳しいお顔つきで言いました。万一に備えて愛人を作りなさいと」
「何ですか。ひどいです」
三井が低い声で言う。
「夏目家では愛人を持つのは当たり前ですし、方子様もそれは覚悟の上で結婚なさったと聞いています。旦那様は、かつて深く愛したまりあさんの卵子と自分の精子を受精させて代理母に出産させたのです。代理母は、金に困っているアジア系の女でした。優秀な医師のおかげで無事に生まれました。それが朱里様でございます」
方子が朱里の父親と結婚した数年後、秘かに朱里が誕生したのである。
DNA鑑定をしたところ、まぎれもなく、朱里の父とまりあの愛の結晶だった。
「世間的には代理母は愛人ということになっていますが、旦那様は、その女に触れたこともありません。子を産むためだけに存在していたのです。方子様は、亡くなったまりあ様の存在を何も知りません」
三井は複雑な面持ちで言い継いでいる。
「旦那様が、外国籍の女と不倫をして子供を作ったのだと思っておられます。誰よりも深く愛したまりあ様との子だと告げるより、愛のない相手との子供だと告げる方が、本妻の心が楽になると思ったのでございます」
本気で愛した女の人の子供だと告げた方がいいのではないだろうか。
(あたしなら、死んでしまったまりあさんとの純愛の結晶と言われる方がいいけどな。でも、人それぞれ、受け止め方は違うのかな)
由布子は痛ましげに目を細めている。
「夏目さんは本当のことを知ってるのですか?」
「五歳でここに引き取られた当初は御存知ありませんでした。十歳になる頃、旦那様は、まりあ様の事を打ち明けたのでございます。本当の母親が別にいると知って、坊ちゃまはホッとしておられました。何しろ、代理母の女は、少しも坊ちゃまを愛していませんでしたからね」
「代理母は?」
「坊ちゃまをこちらに引き取った後、不法滞在で強制送還されました。最初から、時期が来たら追い払うつもりだったのです」
この館に来たばかりの頃の朱里は栄養失調で痩せていたという。
「あの当時は、代理母の事を自分の母親だと思っておりましたからね、あの女を求めて切なげに呼んでいたのでございますわ。ママ、どこにいるの。その声のなんと痛ましいことか……」
三井は目に涙を浮かべながら話している。
「母の代わりにはなれなくても祖母の代わりになろうと決意して、わたしは老体に鞭打ってこれまで尽くしてきたのでございます」
「まりあさんの親戚とかいないんですか?」
「残念ながらおられません」
朱里の母親のまりあは孤児で施設で育っている。捨て子だったようだ。
「まりあさまは頭のいい女性だったと聞いております」
父親は朱里のことを何よりも愛してきた。しかし、忙しい身の上なので殆ど家にいない。
留守の間、朱里の事は妻の方子に任せてきた。
けれども、毎日のお弁当を作ったり、学校での出来事を聞くのは家政婦の三井の仕事だった。
「方子奥様は気の毒な方なのです。結婚後、不妊症と診断されて落ち込んでおられました。それでも、絶対に自分の子を生むんだと頑張っておられましたが、三十七歳になる頃、義理の父親にあたる大旦那様が妾の子の朱里様を家に迎えると宣言したのです。しかし、奇妙なものですね」
三井はどこか遠くを見つめるような顔をしている。
「何の因果でしょうか。幼い坊ちゃまと方子様は、その前から知り合いだったのです」
「というと?」
「坊ちゃまが五歳の頃、お互いの境遇を知らぬまま出会っていたのです」
代理母は、朱里をほったらかして出掛けるようになっていた。
わずか五歳の子が五百円玉を持って五歳児がコンビニでパンを買っていた。お金をなくてシクシク泣いていると、方子が現れて朱里を抱き締めた。
『あなたのお母さんは、どこなの。さぁ、いらっしゃい。泥だらけの顔を拭いてあげるわね』
方子は朱里のことを不憫に思って、公園で出会う度に優しく接していたという。
夏目家の執事の坂元が一部始終を見ていたのだ。
「奥様は、自分を慕って公園で待っている男の子に母性を抱いたのです。後に、この館で再会した日、坊ちゃまは、おばちゃんと叫んで嬉しそうに抱きつこうとしました。しかし、方子様は、その手をふりほどきました。あの時の、坊ちゃまの悲しそうな顔が、今も目に焼きついておりますよ」
公園では、あんなに親身に朱里を可愛がっていたというのに、ここに来てからは嫌味な態度をとるようになったというのである。
「なんと惨酷な運命の悪戯でしょうか」
フーっと長い溜め息を漏らす三井の瞳は揺れている。
「坊ちゃまは、ここに来た当初はキキという黒猫を飼っていたのですが、奥様は、ある日、汚いと言って猫を捨ててしまわれました。それ以来、坊ちゃまは、この家で猫を飼うことを諦めたのでございます。坊ちゃまは、今でも奥様のことを好きなのです。本当は優しいおばちゃんだと思っておいでなのです」
孤独な子供と孤独な正妻は公園でお互いに寂しさを埋め合っていたというのに、そんな形で再会するなんて。
そんなの悲劇だ。
「うっ……」
色々と切なくなり、由布子は目を潤ませる。
「実は、あなたがお住まいになっていたアパートは、以前、代理母の女と坊ちゃまが暮らしていたところなのでございます。事故のショックで、昔の悲惨な生活思い出してしまい、あのような幼稚な振る舞いをしているのかもしれません」
「悲惨な生活? えっ、まさか、代理母は夏目さんを殴ったりしたの?」
「暴力はふるいません。その女は部屋を片付けられない人だったのです。わたしが坊ちゃまと初めて会った時、そのアパートはゴミだらけでした。あんな状態で、よく五歳まで育ったものだと思いますよ。まぁ、昼間は保育園に預けていましたし、定期的に坂元が監視していたので、何とか無事だったのかもしれませんわね」
色々と聞いているうちに、胸がズドーンと重たくなってきた。
(トラウマを抱えていたんだね。事故のショックで思い出したのかな。現実逃避をしたくて幼児化しちゃったことなかなの? 心理学で、そういう現象を何て言うんだっけ。とにかく、それほど、辛い幼少期だったってことだよね)
由布子は、ツンと染みるような胸の痛みを感じていた。
(やだぁ。夏目さんの生い立ちって複雑過ぎるよ)
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