孤独を愛するというより、合わない集団から攻撃されないように距離を取る
木曜日。休みで午前中はダラダラしていたが。
まさかの問題発生である。
(市民税府民税の納付書? え、高いんだけど)
ポストに投函されていた市民税や府民税の納付書の金額に愕然とした。
慌てて、市民課に電話をかけると、確定申告していなかったかったために、所得税や市民税がかかってきてしまったらしい。
しかも、マイナンバーカードのパスワードを忘れてしまっている。
ひとまず、税務署に電話をかけると7/9日まで空き予定がないとのこと。絶対に嘘だろと言いたくなるが?本当の可能性もあるので、口には出さないが。
・・・面倒くさい、心底。
とりあえず、明日市役所に行ってパスワードを確認したら、e-taxから確定申告をしないといけない。
こんな嫌な気分の時は、ハムスターパワーで癒してもらう。
うちのハムスターは可愛い。宇宙一可愛い。
もふもふで賢くて、穏やかで、可愛い。
最強の癒しキャラである。
もふもふ、もふもふ。
うん、癒された。うちのこは最高である。
で、次にトラブルの受け止め方変換である。
(見方を変えれば、たった三時間で五万円ぐらい儲かるってことになるか)
そこまで割のいい仕事はなかなかない。
儲けられるし利益率も高い。やろう、という気分になる。
さて、単発バイトに行こう。
単発バイト先では、これは子どもも大人もストレス溜まるなぁと思うこと続発だった。
子どもが問題行動をし、大人が注意する。
問題行動の裏には、構ってほしい、くっつきたいという甘えたい気持ちがあるのだ。
だが、それをやると他の子どもに嫌われることがわからない。
(私もこんなだったなぁ。外からみたら、そりゃ嫌われるってわかるけど、当時は何が悪いのか理解できてなかったんだよなぁ)
情緒の発達が遅かったので、相手が嫌がることをしてしまう。精神年齢的には三・四歳児を相手にしていると思った方が良い。
もちろん、問題行動をする子どもを注意しなくて良いわけではない。物を投げる、といった危険なことをした場合は、かなり真剣に叱った。
他の子どもにケガをさせてからでは遅い。
悪いことは悪い、やってはいけないことをやった場合は叱る、感情的に荒れることは想定済みだが、そこで大人が引いてはいけない。
意外と子どもにきちんと伝わったようで、嫌なことがあって泣きだすまでは、その後、一度も物を投げなかった。えらい。
何度も叱られる子どもは、叱られていることは理解しても、なぜ叱られているのか、なにが悪いのかは多分、まだ理解できていない。
自分の気持ちに素直で、好きな相手にくっついてると安心するから、そんな行動を取ってしまう。相手が嫌がってることは二の次だ。
自分がそうだったから気持ちがわかる。
相手が嫌がることをしない、は自分の身を守るためにも必要だ。だが、なぜ相手が嫌がっているのかが理解できないのだ。
自分は好きなことをやってるが、相手は違う感覚があるということが、体感としてわからない。
で、私の場合はやらかしまくって最終的に嫌われて、いじめられて、やりかえして、図書室の本を読みまくった。
懐かしい、小学生低学年の頃の記憶である。
小学生の頃から、気持ちをはっきり伝えない相手に、はっきり気持ちを伝えろと、迫る子どもではあった。
お前が自分の気持ちを言うべきだろ!
他人に庇われるような卑怯な真似をするな!と、思っていたし、相手ではない誰かからの言葉など、信じられなかった。本人から直接言うべきだろう、それが相手と向き合うということだ。
今、思い出した。
子どもの頃、泣いていても、言いたいことはきちんと言葉にしろ!と、父親から叱られていた。
それ故に、相手に自分の言葉で伝えなければならないという感覚が備わった。
何故、人と向き合うことが怖いのだろう。
私も含め、人など身勝手な生き物だ。
生きてる限り、傷つけるし傷つけられる。
加害者であり、被害者でもある。
だからだろうか。自分ではなく、誰かを動かしてという真似は正直、好かない。言いたいことがあるなら自分の口で伝えるし、伝えたくない場合は秘める。
誰かの背に庇われて、生きるほど弱くはない。
自分が嫌われても良い・孤立しても良いと感じるのは、自分が集団の中では異質であり、異物だと自覚があるからだ。つまりは、少数派。
そのため、集団は少数派である異物を排除しようと動く。
だからこそ、私の場合、集団から一定の距離を開けておいた方が安全なのだ。
孤独を愛するというわけではなく、互いに互いが違いすぎて、共感しづらいのだから、わざわざ近づこうと思わない。そういうことだ。
逆にまだ関係が続いている友達は、私と話が合う。ちゃんとウマが合う人間もいると知っているからこそ、合わない人間にわざわざ時間を使わなくても良いかと思う。
時間は命だ。大切にしたい。
あと、自分を否定する考え方をインストールする必要性を感じない。自分を肯定してくれる環境の方が生きやすい。違いを理解しようとするか否か。そんなの、言葉や態度を見ていればわかる。
違いを理解しようとしてないなら、さっさと相手から離れる。
人間関係の摩擦を悪いことのように扱う人間が多いが、うちの家訓は「雨降って地固まる」。
衝突するから、互いの理解が深まる。衝突自体が悪いものではなく、衝突後にどうするかが大事なのだ、と。
夫婦での結婚生活で、母が言っていた。
「結婚は異文化の衝突」と。
衝突することで、相手への理解が深まる。
そこからお互いに話し合って、妥協点を見つけるのだ。ここはどうしても譲れない、ここは譲歩してもいい、そうやって擦り合わせていくのだ。
話し合いができないとか、話も聞いてくれない相手とは、結婚できないと私は思う。
結婚したとしても、離婚してしまうだろうな、と思ってしまう。家庭、家族はコミュニティだ。
コミュニティは、コミュニケーションが上手く取れていなければ崩壊する。
相手が大変なら手を差し伸べる、自分ができることをやる。相手を理解するため、そして自分を理解してもらうためのコミュニケーションだ。
それをしないなら、そのコミュニティに先はない。
そう思うのだ。
まぁ、これは私の考えだ。誰かに押しつけるものでもない。ただ、飲食店で勤めていると見えるものがある。
本当に心が繋がりあっている夫婦は、お互いがお互いの顔を見ているだけで、笑顔でいたりする。会話はなくても、二人の間に流れる空気が、お互いの存在を認め合っている。
スマホなど当然見ていない。それよりも相手といる時間を大切にしているからだ。
子育て中の家族なら、父親も子育てに参加しているし、わちゃわちゃしていても、まとまりや統率がある。それは、子どもが親からの愛情を受け取り、自分はここにいてもいいと、安心しているからだ。子どもから、親が大好きという感情が伝わってくる。もちろん、大変なことも多いのだろう。本当に子どもに愛情を注いでいるかは、やはり見ていてわかるものである。
長くなってしまった。今日はこの辺りで筆を置こう。続きはまた明日。




