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悪役令嬢に転生したので、とりあえず農業を始めました  作者: 秋月 もみじ


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第9話 銀の鈴草


 ダミアンが来たのは、六月の初めだった。


 朝から晴れていた。冬麦の収穫は先週終わっていて、今は薬草の出荷準備と夏作物の種まきの間の、比較的落ち着いた時期だった。


 農地の端で土を確認していたとき、馬車が来た。紋章を確認した。アストリア王家の第三王子の紋章だった。


 ——来た。


 計算通りだった。名前が台帳に載った時点で、来ることはわかっていた。わかっていたが、今日だとは思っていなかった。種入れ壺を、ゆっくり握った。


◇◇◇


 ダミアンは馬車から一人で降りた。


 整った顔だった。感情が見えにくい顔だった。わたしが婚約していた頃から変わっていなかった。


「久しぶりだね、エルゼ」


「第三王子殿下、ご機嫌うるわしゅう」


 礼をした。最低限の礼をした。それ以上はしなかった。


 ダミアンが農地を見渡した。


「農業をしているとは聞いていたが。本当だったんだね」


「ええ。おかげさまで、宮廷の薬草供給台帳にも名前が載りました」


 ダミアンの目が少し動いた。感情の起伏が少ない人間でも、予想外の言葉には反応する。台帳の話を、こちらから切り出すとは思っていなかったのだろう。


「……農業が好きなのか」


「好きです」


 迷わずに言えた。第7話の署名のときから、迷わずに言えるようになっていた。


「婚約を破棄されて、農業か。惨めじゃないのか」


 惨め。


 その言葉を、胃の底で一度受け取った。惨めだと思うかどうか、確認した。


 思わなかった。


 指先が、わずかに冷えた。怒り、ではないかもしれない。でも確かに何かが動いた。一呼吸おいてから、口を開いた。


「お断りします」


「何を」


「惨めだという解釈を、お断りします。土が育っています。農園の法人登録が通りました。宮廷医師団との取引が始まりました。惨めである根拠が、見当たりません」


 ダミアンが黙った。


 整った顔が、少し固まった。計算通りの反応ではなかった、という顔だった。


◇◇◇


 ダミアンが来た本当の理由は、別のところにあった。


 「エル・ファームは農業法人として登録されているが、元の土地の権利は伯爵家に帰属する。伯爵と話し合いが必要だ」という話だった。


 要するに、農地を追い出そうとしていた。


 わたしは少し黙った。


「その件ですが、一つ確認させてください。二週間前に別件の法廷で、クラリス・ヴァロワ子爵令嬢の証言が虚偽であったと認定されたと聞いています。その件は、殿下の派閥の事案とも関わっていると伺っています」


 ダミアンの顔が、今度は確かに変わった。


「……どこでそれを」


「法務書士の伝手から確認しました。リース・ポランという方にお世話になっています」


 リースが知らせてくれたのは三日前だった。「何かあったら法的に対応できます」という言い方だった。レオンがリースを紹介した理由が、今になってわかった。今日が「間に合わない」だったとは、おそらくそういうことだった。


「……何が言いたい」


「クラリス様の虚偽証言が認定された以上、わたしに対する断罪の根拠の一部は崩れています。それは殿下もご承知のはずです。土地の権利問題をご指摘になるのであれば、まず断罪の再審議を正式に申請します。それに応じていただければ、土地の話し合いに応じます」


 ダミアンが黙った。


 長い沈黙だった。


「……それは脅しか」


「取引の提案です。どちらが合理的かを計算するのが得意だと、以前から伺っていました」


 ダミアンが少し目を細めた。そのまま、何も言わずに馬車に戻った。


 馬車が去った後、農地の端に立っていた。


 手が少し震えていた。震えているのに気づいたのは、馬車が見えなくなってからだった。


 ——怖かった。


 正直に確認した。怖かった。断罪の日は怖くなかったが、今日は怖かった。断罪の日は計算が全部見えていた。でも今日は、農地がある。法人登録がある。ゴルフがいる。守りたいものができていた。守りたいものができると、失うことが怖くなる。


 震えた手のひらを見た。土が爪の隙間に入っていた。朝から農地にいたからだ。


 ——でも、言えた。


 「お断りします」と言えた。「惨めである根拠が見当たりません」と言えた。前世の農業試験場でも、理不尽な評価に対して「データを見てください」と言い続けた。あの頃と、変わっていなかった。


 土くれを一つ握った。まだ震えていた。でも、土は冷たくて、重くて、確かだった。


◇◇◇


 夕方、レオンが来た。


 普段より早い時間だった。農地の端で土をいじっているわたしを見て、足を止めた。


「……何かありましたか」


「ダミアン第三王子が来ました」


 レオンの顔が変わった。


「何を」


「土地の話をしていきました。でも、断りました」


「……一人で対処したんですか」


「来たのが朝で、あなたはいなかったので」


 レオンが黙った。険しい黙り方だった。


「怪我はないですか」


「していません。言葉のやり取りだけです。農業の話のついでに、法的な根拠を確認しただけです。リースさんに教えていただいた情報が役に立ちました」


「……クラリスの件を出したんですか」


「はい。法廷での認定は公式記録です。反論できないはずです」


 レオンがしばらく黙った。


「……すごいですね」


 褒め方が平坦だった。でも、平坦さの下に何かあるのは、少しわかるようになっていた。


「すごくないです。計算しただけです」


「……計算、ですか」


「半分は。半分は——怖かったので、怖いまま言いました」


 正直に言った。正直に言える相手だと、わかっていたから。


 レオンが少し目を細めた。怒っているわけではなかった。何かを堪えている顔だった。


 レオンがしばらく何も言わなかった。


 首の後ろに手が触れた。今日は何度も触れた。


「……リースを紹介したのは、こういう事態になる可能性があったからです」


「知っていたんですか」


「……可能性として。名前が台帳に載ったと聞いたとき、いつかは来ると思って」


 そういうことだった。先回りしていた。言わずに先回りして、リースを連れてきた。「今日じゃないと間に合わない気がした」という言い方は、そういう意味だったのだ。


「……ありがとうございます」


「別に」


 今日は「別に」だった。でも、今日の「別に」には少し、違う音があった。


◇◇◇


「一つ、聞いていいですか」


 日が暮れかけた頃、聞いた。


「銀の鈴草のことです。最初の日。断罪の後に農地に戻ったとき、わたしが銀の鈴草の種を撒いているのを見て、「それは……」と言いかけて止まりました。何を言いかけたんですか」


 レオンが固まった。


 今日一番長い沈黙だった。農地の銀の鈴草が夕風に揺れていた。白い小さな花が、光の中でゆれていた。


「……故郷の花です」


 レオンが言った。


「没落する前の、実家の庭に咲いていた。王都では、まず見ない花で。どこで種を手に入れたのかと、思って」


「前世の記憶から、です。農業試験場で研究していた品種で、薬草として優秀だったので。この世界でも似た気候なら育つと判断しました」


 前世の話を、このひとにしたのは初めてだった。


 少し間を置いた。おかしいと思われるかもしれない、とは思った。でも今夜は、言えた。なぜ言えたのかはわからない。ただ、言える夜だと感じた。


 レオンが少し目を開いた。でも、「前世」という言葉に驚いたというより、何かを受け取った、という顔だった。


「……そういうことでしたか」


「信じますか」


「……信じます。農業の知識が普通ではない、とは思っていました。土壌改良のマニュアルは、どの農業書にも書いていなかった。前世の知識なら、合点がいく」


 合点がいく、と言った。それが嬉しかった。というより、胸の詰まりが少し緩んだ、という感覚だった。今まで誰にも言えなかった理由が、一つ消えた。


「……ずっと、疑問だったことがあります」


「なんですか」


「なぜ断罪された日から、農業を続けていたのか。どこかへ逃げることもできた。でもここに残って、土を耕していた。毎朝聞いていたのは——答えが気になったからです」


「答えは出ましたか」


「……出ました。あなたは、土が好きだから、ここにいた」


 土が好きだから。


 それは正確ではなかった。というより、最初は正確ではなかった。最初は逃げるための農業だった。でも今は、正確だ。


「……そうです」


 今は、正確だ、と思った。


「ここにいていいです」


 レオンが言った。


「居場所は、自分で作るものだと思っていました。でも——あなたが作っているのを、ずっと見ていた。それを見ていた人間が、少なくとも一人いる」


 言葉がなかった。


 「ありがとう」と言おうとした。言葉が出なかった。


 代わりに、先週収穫した冬麦の穂を一本取り出した。保管していた見本用の穂だった。一番きれいに実った穂だった。


 差し出した。


 レオンが少し眉を上げた。


「……これは」


「今年一番の出来です。渡せる言葉が見つからなかったので」


 レオンが穂を受け取った。しばらく手の中で見ていた。


「……いつもそうですね」


「いつも?」


「言葉の代わりに、何かを渡す」


 気づいていた。ずっと気づいていた。


 それでもここにいてくれた。


 種入れ壺を握った。今日何度目かわからなかった。でも今度は、怒りでも不安でもなかった。——何と呼ぶのかは、まだわからない。わからないが、種入れ壺を握っていないと、手が何をするかわからなかった。


「……一つ聞いていいですか」


「なんですか」


「毎朝農業を聞いていたのは、話しかけたかっただけだと言っていましたが」


「……はい」


「なぜわたしに話しかけたかったんですか」


 レオンが少しの間、農地を見ていた。


「……農業をしている人間が、面白かった。断罪された翌日に鍬を研いでいた。意味がわからなかった。でも——目が離せなかった」


 面白かった。


 その言葉を、胸の中で一度転がした。


「今も、面白いですか」


「……今は」


 レオンが少し間を置いた。


「面白い、とは少し違います。——ここにいてほしい、と思っています」


 夕暮れの農地が橙色に染まっていた。銀の鈴草が揺れていた。故郷の花が、今年この農地で咲いていた。


 計算外リストの三つ目が、今夜なら書けるかもしれない、と思った。


 でも今夜は、書きに行かなかった。

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