第10話 農園の朝、騎士がいる
六月の末、父から手紙が来た。
「お前を追い出せてよかった。あとは勝手にしろ」という内容だった。丁寧な言葉で書かれていたが、要約するとそういう話だった。
手紙を読んだ後、農地に出た。
土を一握り掘って、手紙を畳んで入れた。深く埋めた。ここの土は腐葉土が豊富だ。紙は半年もすれば土に還る。それでいい。嫌な感情も、土に還せばいい。腐葉土になれば、いつか何かの栄養になる。
奥歯の力が、ふっと抜けた。怒りではなかった。
——これで、終わった。
全部、終わった。
終わった、という感触が、予想より軽かった。もっと重いものだと思っていた。怒りが爆発するか、泣くか、長い時間をかけて消化するものだと思っていた。でも実際は、土を一握り掘って、紙を埋めて、それで終わりだった。
前世の農業試験場でも、理不尽な評価をされたとき、ノートに書いて引き出しの奥にしまった。書いて、仕舞って、翌日また土を触ったら、だいたい忘れていた。感情は腐葉土になる。腐葉土は、次の何かの栄養になる。
今日の手紙も、たぶん、そうなる。
◇◇◇
昼前になって、ゴルフの下の子が農地に走り込んできた。麦の列の間を走って、銀の鈴草の前で立ち止まって、また走り回った。ゴルフの妻が「こら、走らないで」と言いながら追いかけていた。
見ていた。
半年前、この農地に誰もいなかった。土だけがあった。
今は、走り回る子供がいる。
◇◇◇
農業記録ノートを開いた。
「計算外リスト」のページを開いた。最初の二つを確認した。「農民のゴルフを雇った判断」と「農地が好きになったこと」。
三つ目の空白を見た。
ペンを取った。
書いた。
「レオン・シルヴェスタが、ここにいてほしいと言ってくれたこと」。
書いてから、少し止まった。正確かどうか確認した。
正確だった。
計算外だった。計算外だったから、書けなかった。書けなかったのは、まだ終わっていなかったからだ。昨夜終わった。だから今日書けた。
ノートを閉じた。
◇◇◇
朝、農地に出ると、レオンがいた。
今日から警備の担当が変わると聞いていた。別の騎士が来るはずだった。でも、いつもの位置に、いつもの背格好の人間が立っていた。
朝の光の中で、銀の鈴草が白く光っていた。
「……今日は担当外じゃないですか」
「……休みです」
「休みに農地の警備をするんですか」
「……別に。来たかったので」
別に、と言った後に「来たかったので」と言い直した。
今日は「別に」のあとに理由が来た。それが少し珍しかった。
理由、と呼べるのかどうかわからない。「来たかったので」は理由ではなく、気持ちだ。気持ちを言葉にした。今まで「別に」で止めていたのに、今日は先に進んだ。
「……そうですか」
農地の見回りを始めた。冬麦は収穫が終わって、今は夏作物が育ち始めている。ゴルフが整えた水はけの溝が機能していて、土の状態が去年より格段にいい。薬草の棚も出荷サイクルが安定してきた。宮廷医師団との取引は正式契約になった。
段取りが全部、見える。
頭が落ち着く。
レオンが農地の端を歩いていた。警備の動線とは少し違うルートだった。ゴルフが整えた水はけの溝の近くを通って、薬草の棚の前で少し止まって、また歩いた。
「……薬草の棚、増えましたね」
「宮廷医師団の注文が増えたので。来月からもう二列追加します」
「……二列」
「三列にしたかったですが、今年の土壌改良の進度では二列が限界です。来年に三列目を作ります」
「……来年の計画が、もうあるんですか」
「農業は来年のことを考えながらやります。今年植えた種が、来年の土壌の状態を決めるので」
レオンが少し、止まった。
「……それは、農地の話だけじゃないですか」
「どういう意味ですか」
「……いえ。なんでもないです」
なんでもない、は「別に」と同じだ、とは言わなかった。
◇◇◇
昼過ぎ、ゴルフが来た。
「子供が麦の穂を全部触って回っています。すみません」と言いながら来た。
「触っても折れないので」
「……それ、前にも言ってましたね」
「言いました。でも今回は確認済みです。成長した穂は指で触れても折れない強度になっています」
ゴルフが少し笑った。笑い方が最初の頃と変わっていた。最初の日は声に力がなかった。今日は軽かった。土が変われば、人も変わる。どの種も同じだ、と思った。
ゴルフが帰り際に「今年の収量、去年の三倍になりそうです」と言った。
「指示書通りにやってもらったおかげです」
「……いや、あんたのおかげです」
受け取り方が少し難しかった。礼を言われた。「とりあえず」と言おうとして、やめた。
「ありがとう、と言えたら言っていました」
「……意味がわからないですが、なんとなくわかります」
ゴルフが帰った。
それでいい、と思った。言葉が届かなくても、土が届く。土が届けば、来年また話せる。そういうことだ。
◇◇◇
夕方、レオンがまだいた。
「帰らないんですか」
「……もう少し」
「もう少し、というのはどのくらいですか」
レオンが少し考えた。
「……日が暮れるまで」
「日が暮れたら帰りますか」
「……帰ります。帰らないわけにはいかないので」
「じゃあ、明日も来ますか」
少し間があった。
「……来ます」
また来ます、ではなかった。来ます、だった。言い方が少し変わっていた。
第一話からずっと「また来ます」だった。「また」は過去の継続を含む言葉だ。「来ます」は、これからのことだ。
「わかりました」
農地の見回りを続けた。銀の鈴草が夕風に揺れていた。
日が暮れるまで、レオンはいつもの位置にいた。農地の端で、農地の外の方向を見ていた。その背中が、半年前の最初の日と同じ場所にあった。同じ背中だった。
ただ、最初の日はあの背中が何者かわからなかった。今は、わかる。
——来ます、と言った。
来ます、と言う人が、いる。
計算外リストは三つで終わりではないかもしれない、と思った。でも今夜は、ノートを開かなかった。開かなくても、わかっていた。
農地の朝はまだ続く。騎士がいる農地の朝が、明日も来る。
とりあえず、今日はそれで十分だ。




