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悪役令嬢に転生したので、とりあえず農業を始めました  作者: 秋月 もみじ


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第8話 いたんですか、ずっと


 夜中に目が覚めた。


 三時頃だった。昨日から空気が乾いていた。薬草の棚は特に気をつける必要がある。乾燥が続くと葉が焼ける。ジョウロが要るかもしれない。


 ——そういう理由で、農地に出た。


 農具小屋から出ると、春の夜の空気が冷たかった。足元の土が昼間とは違う感触をしていた。夜の土は水分を保っている。乾燥は昼間の問題で、今夜はまだ大丈夫かもしれない。それでも来てしまったのは、体が先に動いたからだ。心配、という感情を確認する前に、足が農地に向かっていた。


 月が出ていた。薄い雲がかかっていたが、農地の輪郭は見えた。冬麦の列。薬草の棚。ゴルフが整えた水はけの溝。銀の鈴草が月明かりに白く光っていた。


 農地の端に、人影があった。


◇◇◇


 レオンだった。


 境界線の近く、いつもの位置にいた。背を向けていた。剣の柄に軽く手を添えて、農地の外の方向を見ていた。


 警備の姿勢、だった。


 しばらく黙って見ていた。


 ——昼間の警備は知っていた。でも、これは。


「……いたんですか、ずっと」


 声が出た。聞くつもりで言ったわけではなかった。気づいたら口から出ていた。


 レオンが振り向いた。驚いた顔だった。こちらが来るとは思っていなかったのだろう。


「……起きていたんですか」


「目が覚めました。薬草の乾燥が気になって」


「……そうですか」


 少し間があった。


「夜番は、いつからですか」


「……農地が荒らされた夜から、少し」


 少し、という言い方が曖昧だった。


「少し、というのは」


「……毎晩、ではないですが。気になったときは」


 気になったとき。


 それが週に何回なのか、月に何回なのかは、聞かなかった。聞く代わりに、農地の端の地面を見た。踏み跡があった。一人分の靴跡。深さが均一で、定期的に来た足跡に見えた。


 気になったとき、が、かなりの頻度だということはわかった。


「……何かあったんですか。特定の理由で」


「……農地を荒らされてから、近隣の状況が気になっていました。ゴルフの件が解決したとはいえ、他に同じような状況の農家がいるかもしれない。そこから二次的な問題が起きる可能性もある」


 分析して話してくれた。理由が具体的だった。それは警備の仕事として来ていた、という話し方だった。でも、足跡の深さが均一だということは、雨の日も来ていた、ということだ。


 雨の日の警備を、依頼外でする人間の話し方ではなかった。


◇◇◇


「報酬は出ていますか」


 少し経ってから聞いた。


「……夜番の報酬は、依頼外なので」


「依頼外なのに、来ていたんですか」


「……別に」


 別に、と言った。


 別に、と言うときは気にしているときだ。もう知っていた。でも今夜の「別に」は少し違った。気にしている、ではなくて、どう言えばいいかわからない、という「別に」だった気がした。


 正確ではないかもしれない。でも、そう聞こえた。


「……ありがとうございます」


 言えた。今夜は言えた。


 レオンが少し黙った。


「……言わなくていいです」


「なぜですか」


「……言われると、困る」


 困る、の意味がわからなかった。困るのはなぜか。困るのは何が起きているからか。聞こうとして、聞けなかった。聞いたら、その答えを受け取った後にどんな顔をすればいいかがわからなかった。


 月が雲の後ろに隠れた。農地が少し暗くなった。


「……レオンさんは、寒くないですか」


 聞く予定はなかった。口から出た。


「……大丈夫です」


「夜番は冷えます。今度から何か持ってきます」


「……いいです」


「いいです、では済みません。依頼外の仕事で体を壊されると困ります」


 レオンが少しの間、黙った。


「……ありがとうございます」


 言い方が少し、いつもと違った。「別に」ではなかった。素直に受け取った声だった。


◇◇◇


 しばらく、二人で農地の端にいた。


 特に何も言わなかった。


 レオンが農地の方向を見ていた。わたしも農地の方向を見ていた。冬麦が夜風に揺れていた。銀の鈴草も揺れていた。


「……夜の農地は、昼と違いますね」


 レオンが言った。急でもなく、かといって準備されてもいない言葉だった。


「違います。土の温度が下がって、植物が呼吸を緩める時間です」


「呼吸を、緩める」


「昼間は光合成で忙しいので。夜は静かに水分を吸い上げているだけです」


「……そうですか」


 レオンが少し農地の方を向いた。


「静かに水分を吸い上げている、のが、わかりますか」


「わかりません。でも、そういう時間だ、と思うと農地の見え方が少し変わります」


 何も言わなかった。


 しばらくして、「そうですね」と言った。何に「そうですね」と言ったのかは、わからなかった。


 三週間ほど前から、気づいていたことがある。


 レオンが来るたびに、首の後ろを触る。緊張しているときの癖だ。「別に」と言うのは気にしているときだ。「正解を言わない」のは誠実な人だ。朝「なぜ農業を」と聞いてくることが多いのは、ただ話しかけたかったからかもしれない。


 それを、観察していた。


 観察していた、ということは、見ていた、ということだ。


 レオンがわたしの農地を見ていたように、わたしも、レオンを見ていた。


 ——そういうことか。


 気づいて、少し目を閉じた。夜の空気が冷たかった。


 銀の鈴草が夜風に揺れていた。


 前から聞きたかったことがある。なぜ銀の鈴草を知っていたのか。第二話のあの日、断罪の広間を出た後の農地で、わたしが銀の鈴草の種を撒いているのを見て、「それは……」と言いかけて止めた。あの「それは」の続きを、まだ聞いていない。


 聞こうとして、今夜は聞かなかった。


 今夜は聞ける夜ではなかった。理由はうまく言えない。ただ、聞けない夜というのがあって、今夜がそれだった。


「……今夜はもう帰ってください。農地は大丈夫です」


「……そうします」


 レオンが動いた。去り際に、首の後ろにまた手が触れた。


「……おやすみなさい」


「おやすみなさい」


 足音が遠くなった。


◇◇◇


 農地の端に一人で残った。


 種入れ壺を両手で持った。冷たかった。夜の土の温度が陶器を通して伝わってきた。


 ——「いたんですか、ずっと」と聞いた。


 答えは「気になったとき」だった。


 踏み跡は残っていた。夜の農地に、一人分の足跡が残っていた。この農地を荒らした足跡じゃなかった。守ろうとした足跡だ。


 三つ目のリスト項目のことを考えた。計算外リストの、書けなかった三つ目。


 書けなかった理由が、少しだけわかった気がした。


 書けなかったのは、確定させるのが怖かったからではなかった。というより、違う。確定の問題じゃなかった。


 書けなかったのは、その項目が、まだ終わっていないからだ。


 終わっていない何かを、ノートに書くことはできない。農作物の収量を記録するのは収穫が終わってからだ。まだ育っている途中のものは、記録できない。


 今夜は書かない。


 夜風が吹いた。銀の鈴草が揺れた。前世の試験農場の帰り道の空と、今夜の空が、少し重なった気がした。世界が違っても、夜の空気の冷たさは似ている。農地の匂いも似ている。


 ただ、あの頃は一人だった。


 一人で農地を見ていた。一人で土を確認した。一人でノートをめくった。一人で夜の農場の帰り道を歩いた。


 今夜は、足音が残っていた。去っていった足音が。


 それが計算外かどうかは、もうわからなかった。わからないままでいいと、今夜は少し思った。


 農具小屋に戻った。横になったが、すぐには眠れなかった。


 種入れ壺を胸の上に置いたまま、目を開けて天井を見ていた。板の隙間から、星がひとつ見えた。

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