第7話 農園として生きる
宮廷医師団への返答を書いたのは、朝の四時頃だった。
薬草の供給量と品種。収穫サイクル。保管方法と輸送条件。問い合わせ内容を三段に分け、それぞれに必要な情報を順番に書いた。感情は入れなかった。感情を入れる必要が、なかった。
書き終えてから読み直すと、自分でも少し驚いた。これは農業法人が納品先と締結する供給契約書の書き方に、ほぼそのまま一致していた。前世の記憶が自動で動いた。体が覚えていた。書き方だけではなく、どの情報を先に置くかという順番の感覚まで。
前世の書き方が、役に立った。
それだけ確認して、蝋で封をした。
朝が明け切る前に、農地の見回りをした。冬麦の列。薬草の棚。ゴルフが昨日調査してくれた水はけの測定ルート。踏み荒らされた箇所の補修は、七割ほど完了している。一週間前には折れていた冬麦の列が、少し立ち直っていた。踏まれた後でも、土の中に根がある限り、また伸びようとする。植物は、いつもそうだ。
段取りが見える、と頭が落ち着く。
◇◇◇
ゴルフが七時に来た。
二日目だったが、指示書を全部持参していた。昨日気になった点を二箇所、付箋代わりに折り込んできた。折り込み方が丁寧だった。
「今日は水はけ調査の続きです」
「わかりました。昨日の測定値、持ってきてます」
手書きの数値メモを受け取った。字は大きくて曲がっていた。でも数字は読める。必要な情報は全部あった。
「正確です。この数字があれば計算できます」
「……あんたに褒められると、なんか変な感じですね」
変な感じ、はわかった。昨日まで荒らした相手と荒らされた相手の関係だった。でも今は、数値を測る人と計算する人の関係だ。関係の定義が変わった。変な感じがするのは、正常だと思った。
ゴルフの妻と子供二人も来ていた。妻は今日から簡単な農地作業を手伝う予定だった。子供二人の間食を昨夜少し考えたが、とりあえず農地の端に置いてある野薔薇の実と黒麦パンを渡せばいい、と判断した。上の子が七歳で、下の子が四歳くらいだ。
下の子が麦の穂先に指を伸ばしていた。
触っても折れない、と思いながら黙って見ていた。しばらくして、穂先がわずかに揺れた。下の子が触れていた。
見なかったことにした。
農地の見回りを続けながら、ゴルフが指示書通りに水はけの溝を掘り始めるのを確認した。手が迷わなかった。指示書を読んで、動く前に土の質を確認してから始めた。農業の経験がある人の動きだ。土を丁寧に扱うかどうかは、最初の一手でわかる。この人は農業がわかっている、と確認した。それは計算通りだった。
◇◇◇
レオンが昼前に来た。
一人ではなかった。
三十代くらいの男が一緒にいた。肩に書類鞄をかけていた。革が使い込まれていて、黒いインク染みが二箇所あった。法務の仕事をしている人間は、こういう染みができやすい。前世の試験農場でも、農業経営の顧問が同じような鞄を持っていた。
「……紹介します。法務書士のリース・ポランです。農園の法人登録を担当できます」
法人登録。
その単語が出た瞬間、頭の中の計画図が書き換わった。
五月末に逃げる計画が、六月に延びていた。でも今——
「農園の、法人登録」
復唱した。確認のためだった。
「エル・ファームを正式に農業法人として登録すると、王都の取引先との長期契約が可能になります。土地の利用権も正式に申請できる。宮廷との取引にも、法人格があった方が動きやすい」
リース・ポランが補足した。声が低くて落ち着いていた。書類鞄から一枚の用紙を取り出した。登録申請書のフォーマットだった。
しばらく黙った。
これは、逃げるための計画ではなくなる。
逃げる準備として農業を始めた。商人ギルドに仮登録したのも、とりあえずの収入のためだった。でも、法人登録をするということは——ここに、根を張るということだ。根を張るのは、逃げるよりも時間がかかる。でも根を張った植物は、風に倒れない。嵐に揺れても、根があれば立ち直れる。
「……検討します」
と言おうとした。
口から出たのは、「お願いします」だった。
リース・ポランが少し目を見開いた。
レオンが微かに息をついた気がした。違う、というより、何かが緩んだ、という感じの音だった。
◇◇◇
登録申請書に署名したのは、一時間後だった。
「これで正式申請が可能になります。三日から五日で認可が下りるはずです」
リース・ポランが書類を畳んだ。
「ありがとうございます」
言えた。法務手続きの相手には、言えた。
「……なぜ農業を?」
リース・ポランが聞いた。事務的な質問ではなかった。純粋に不思議だ、という声だった。伯爵令嬢が農業法人を作るという組み合わせが、想定外だったのだろう。
少し考えてから、答えた。
「逃げるための農業でした。でも今は、なんというか——畑が好きです」
リース・ポランがしばらく沈黙した。
「……なるほど」
他に言葉がなかったのかもしれない。それは正解だと思った。他に言えることがない場合に無理に言葉を探さない人は、誠実だ。
レオンが少し横を向いていた。向こうを向いたまま、首の後ろをわずかに触れた。今日は聞く前ではなかった。何かが終わった後に、首を触れた。
何が終わったのかはわからなかった。わからないが、何かが終わった、という感触は確かにあった。
申請書類の控えを仕舞いながら、その感触を保留にした。今は書類の方が先だ。
◇◇◇
夕暮れ時、レオンがいつもの位置にいた。
「……書類が通ったら、本当に農園主になるんですね」
「なります。なりました、というのが正確かもしれないですが」
「……違いがありますか」
「法的に認められたかどうかの違いです。農業はずっとしていましたから」
レオンが少し黙った。
「リースを紹介したのは、今日がいいと思ったからです」
「……なぜ今日だったんですか」
「……わかりません。ただ、今日じゃないと間に合わない気がして」
間に合わない、という言葉が少し引っかかった。何に間に合わないのかは聞かなかった。聞いたら、答えを聞いた後にどんな顔をすればいいかわからなかった。
「……ありがとうございます」
「別に。知り合いが書士をしているというだけです」
別に、と言うときは、気にしているときだ。それは一ヶ月ほど前から気づいていた。
気づいている、とは言わなかった。
ゴルフが帰り際に「また明日、指示書通りにやります」と言った。妻が子供二人の手を引きながら頭を下げた。下の子がこちらを振り返って、手を振った。
振り返すのが少し遅れた。計算に入っていなかった。
◇◇◇
夕方、農業記録ノートを更新した。
計画変更:五月末移動→六月末以降→未定。
未定、と書いたのは初めてだった。
移動先を確定していない計画は、計画と呼べるのかどうかわからない。でも未定、と書いた方が正確だった。「逃げる」という目的地がなくなったのだから、移動先が未定なのは当然だ。
農業記録ノートとは別の紙に、新しい見出しを書いた。
「農園として生きるための計画」。
そこから下は、まだ何も書いていない。
でも、見出しは書けた。書き始めることと書き終えることは、別のことだ。今日は書き始められた。それで十分だ。
農具小屋の外で、春の風が通り過ぎた。冬麦がゆっくり揺れた。銀の鈴草も揺れた。
◇◇◇
翌朝、商人ギルドの連絡員が来た。
「農園主エルゼ・フォン・アルベルト様のお名前が、宮廷の薬草供給台帳に記載されたと伺いまして。念のご連絡です」
宮廷の薬草供給台帳に。
「そうですか。ありがとうございます」
連絡員が帰った後、しばらく農地の端に立っていた。
宮廷の誰かがこの名前を見た。どの薬草がどの農園から来るかを管理する台帳には、名前が残る。それを見た人間の誰かが、気づくかもしれない。
——エルゼ・フォン・アルベルト。
断罪された元婚約者の名前が、農園主として宮廷の台帳に載った。
それが、ダミアンに届くのは時間の問題だ。
怖いかというと、そこが少し、わからなかった。
以前なら、名前が届くことは脅威だった。逃げる計画が露見するということだったから。でも今は、逃げる計画がない。農園主として登録されているのは事実だ。農業法人として申請もした。やましいことは、何もない。
正面から対応すればいい、という考えが浮かんだ。
それは一ヶ月前には出てこなかった考えだ。
種入れ壺を握る手に、少し力が入った。
まあ、いい。
ここには農地がある。仕事がある。ゴルフがいる。法人登録がある。
根を張る計画がある。
今は、それで十分だ。




