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悪役令嬢に転生したので、とりあえず農業を始めました  作者: 秋月 もみじ


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第6話 計算外のこと


 農民のゴルフが来た最初の日、わたしは指示書を三枚用意していた。


 土壌改良の手順。水はけの調査方法。肥料の配合比率。前世の試験農場で使っていたフォーマットを記憶から掘り起こして、この世界の材料名に書き直したものだ。図解も入れた。ゴルフが文字を読めるかどうかわからなかったので、絵も描いた。野薔薇の絵が少し上手すぎたかもしれない。


「……これは」


 三枚を受け取ったゴルフが固まった。


「農地の土壌改良マニュアルです。まず一ページ目の手順から始めてください。不明点があれば聞いていただければ対応します」


「……農業試験場みたいですね」


「そうですね。大体そういうものです」


 ゴルフが困惑していた。


 困惑しているのはわかっていた。農地を荒らした相手が、翌日から同じ農地でマニュアルを渡されて働き始めるというのは、普通ではない。でも、合理的な判断だった。少なくとも、わたしにとっては。


 ゴルフの妻がマニュアルを覗き込んで「こんなに丁寧に書いてくださって」と言った。妻も来ていた。子供も二人、少し離れて立っていた。上の子が七歳くらいで、下の子が四歳くらいに見えた。


 下の子がこちらを見ていた。


 わたしは「よろしくお願いします」と言って農地の確認に戻った。


 朝から段取りが整っていると、頭が落ち着く。踏み荒らされた列の補修。水はけの改善ルート。次の作物の種まき計画。ひとつずつこなしていけば、全部なんとかなる。


 なんとかなる、はずだ。


 ゴルフが「この肥料の配合は、こんな細かくやるんですか」と聞いてきた。「やります。比率が合わないと土の質が変わります」と答えた。「……なるほど」と言って、ゴルフは指示書を丁寧にめくり直した。働く気はある人だ、と確認した。それは計算通りだった。


◇◇◇


 レオンが聞いたのは、夕方だった。


「最初から全部、逃げるための計算だったのか」


 農地の端で聞いた。夕暮れで、農地が橙色に染まっていた。ゴルフはもう帰った後だった。


 突然ではなかった。いつか聞かれると思っていた問いだった。でも、準備していたかというと、していなかった。


「……違う」


 言いかけた。


 言いかけて、止まった。


 違う、と言えるかどうか、急に自信がなくなった。


 農地を三年かけて整えたのは計算だ。商人ギルドに仮登録したのも計算だ。断罪の日に笑っていたのも、計算通りだ。ゴルフを雇ったのは——計算だったのか、そうじゃなかったのか、今考えると判断がつかない。計算通りではなかったのはいつからで、どの部分が計算の外に出たのか。今から遡って、その境界線を引けるかというと、引けなかった。


「違いますか」


 レオンが聞いた。責める声ではなかった。ただ、知りたい、という声だった。


「……わかりません」


 正直に言った。


 レオンが黙った。


「計算だった部分は、あります。でも、計算じゃなかった部分も、あると思います。どこからどこまでかは、わからない。自分でも」


「……そうですか」


 また黙った。今度の黙り方は、少し違った。さっきの「答えを待つ」黙り方ではなく、「受け取った」黙り方だった。


 でも、レオンが何を受け取ったのかは、わからなかった。


 わかりたかったような。——いや、違う。わかった場合に何が起きるかが怖かったような。そのどちらかもよくわからなかった。


 レオンが少し視線を上げて、農地の奥の方を見た。銀の鈴草が夕風に揺れていた。何かを言いかけて、また止まった。首の後ろに、手が触れた。


「……また来ます」


 それだけ言って、去った。


 また来ます。


 いつも来ているのに、今日初めてそう言った。何が違うのかはわからなかった。


◇◇◇


 レオンが去った後、農地の端に座った。


 さっきの「わかりません」は、正確だったのか。


 考え始めて、少し変なことに気づいた。


 「わかりません」と言ったとき、わからないのは「計算と計算外の境界」だけではなかった気がする。「わかった場合に何が起きるか」が怖かった、という気もする。


 ——いや、それは違う、というより


 うまく整理できなかった。


 農地の土を一握り取った。夜の土は冷たい。水分量は悪くない。明日の朝もジョウロは要らない。


 頭を農地に戻そうとした。戻せなかった。


 レオンが来るたびに、少し首の後ろを触っている。緊張しているときにやる癖だ、と気づいたのはいつ頃だったか。三週間前くらいだと思う。今日は聞く前に首を触っていた。つまり、聞く前から、聞くことが緊張だった。


 なぜ緊張するのか。


 それを考え始めたところで、奥歯の裏側が、じりりと痺れた。


 とりあえず、今日のことは今日整理する必要はない。


 でも一つだけ、わかったことがある。


 「わかりません」と言えたのは、計算の外にある何かがあるからだ。計算だけの話なら、「計算です」と答えればいい。答えられなかったということは、まあ、そういうことだ。


 そういうことだ、と思ったときに、種入れ壺を持つ手が少し、震えた。


 震えた、というのが少し驚きだった。なぜ震えたのかは、わかりたくない気もした。


 農地の冬麦が風に揺れた。銀の鈴草も揺れた。


 銀の鈴草は、誰かの実家の花だ。


 その誰かが、さっき「また来ます」と言った。


◇◇◇


 その夜、農業記録ノートを開いたが、何も書けなかった。


 代わりに、「計算外リスト」と書いて、線を引いた。


 書こうとした項目が、三つ浮かんだ。


 最初の二つは書いた。「農民のゴルフを雇った判断」と「農地が好きになったこと」。


 三つ目は書けなかった。


 書けなかった理由がわかっていたので、書かなかった。書いたら、それが確定する気がした。確定させるには、もう少し自分の中で整理が必要だった。


 ノートを閉じて、農具小屋の板の隙間から夜空を見た。


 星が少し出ていた。前世では、試験農場の帰り道にいつもこの空を見ていた。今夜の星の配置は、あの頃とほとんど同じだ。世界が違っても、空は似ている。


 明日は、ゴルフの土壌改良の二日目だ。指示書通りに進んでいるかを確認する。薬草の出荷袋の準備も必要だ。宮廷医師団への返答も、そろそろ書かなければならない。ゴルフの子供たち二人分の間食をどうするかも考えなければ——子供がいるとは、聞いていなかった。でも来た。計算外だ。


 やることは山ほどある。


 とりあえず、今日は寝よう。


 三つ目のリスト項目は、明日の夜に考えよう。今日は考えすぎた。

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