第5話 農地が荒らされた夜
朝、農地に踏み跡があった。
一列、また一列と確認しながら、被害の範囲を頭の中でマッピングした。冬麦の列の一部が折れている。折れ方から、重い靴底で踏まれたとわかる。薬草の棚はほぼ無事だ。境界線近くの野薔薇が一箇所踏み倒されている。
荒らされた、という事実を確認した。
怒りがあるかというと——あった。胃の底に、重くて鈍い何かがある。ただ、怒りを整理するより先に、被害の範囲と原因の特定が必要だった。感情は後回しにした。種入れ壺を一度強く握ってから、放した。
靴跡をたどった。
◇◇◇
隣の農家の男が、境界線の外で立っていた。
四十代くらいだろうか。着古した上着に、土のついた膝。靴底の形が、農地の踏み跡と一致していた。
喉の奥が、わずかに狭くなった。
「あなたが、やりましたか」
静かに聞けた。聞けた、と気づいたのは聞いた後のことだった。
男が一瞬固まった。否定しようとして、できなかった。靴を見ている、と気づいたのかもしれない。
「……うちの土地が今年も痩せていて」
言い訳ではなかった。声に力がなかった。理由を話そうとして、どこから話せばいいかわからない、という声だった。
「続きを聞かせてください。名前を聞いてもいいですか」
「……ゴルフです。隣の農地の」
座って聞いた。
話は長かった。
男の農地は三年前から収量が落ちている。土が痩せている原因は水はけが悪いことで、改善しようにも費用がない。今年は特に干ばつで、冬麦の半分が育たなかった。家族が六人いて、子供が三人いる。今年の分の備蓄が底をついていた。
エルゼの農地が一人でぐんぐん育っているのを見て——腹が立った。それだけだった。
わかる、とは言えなかった。でも、わかる部分があった。
前世でも、試験農場で新品種の収量記録を更新したとき、近くの農家の人が「なんでうちのだけ育たないんだ」と言っていた場面を見たことがある。努力の問題でも才能の問題でもなく、土と運の問題だということが、当事者にはなかなか見えない。それは農業の難しいところだ。正しく種を植えても、土が痩せていれば報われない。正しい努力が正しい結果に繋がるとは限らない。
男の靴底を見た。泥が厚く張り付いていた。踏み荒らす力があったのは、それだけ毎日農地を歩いているからだ、とわかった。
「賠償は求めません」
男が顔を上げた。
「その代わり、提案があります。うちで働きませんか」
男が黙った。
わたしも少し黙った。
これは、計画外だ。
計算では、五月末に農地の作物を全部売って王都の外へ移動する予定だった。追加の人件費は想定していない。でも今目の前にあるのは、干ばつで追い詰められた農家の男だ。
「今すぐは無理です。先に土壌の改良から手伝ってもらいます。あなたの農地の水はけを直せれば、来年から収量が戻るはずです。その間の賃金は出します。うちの農地の作業量も増えてきたので、人手があると助かります」
「……なぜ」
「土が育つ環境があれば、変わる。どの種も同じです」
農業用語で話してしまった、とは後から気づいた。伝わったかどうかはわからないが、男の目が少し変わった。
◇◇◇
男が去った後、農地の端に座った。
計画が一ヶ月延びた。
男の農地の土壌改良には最低三週間。農地の踏み荒らし部分の補修に一週間。その間に次の作物の種まきのタイミングが来る。人件費も発生する。移動の計画を全部立て直す必要がある。
……誤算だ。
手のひらを見た。朝から農地作業をしていたので、土が爪の隙間に入っている。爪先が少し黒い。洗えばいいだけだが、今は洗いに行く気になれなかった。
男が去り際に「……ありがとうございます」と言った声が、まだ少し耳に残っていた。声が震えていた。泣いていたかどうかはわからないが、泣いていても不思議ではない声だった。
誤算だが、まあ、そういうことにしたのはわたしだ。
腐葉土になればいい感情というのが、あると思う。今日起きた怒りも、手間も、計画の狂いも、どこかで別の何かに変わるかもしれない。ならないかもしれない。でも、今日のわたしは雇う、と言った。その判断が正しかったかどうかは、来年の収穫が答えを出す。
◇◇◇
夕方、レオンがいつもの位置にいた。今日も警備で来ていた。
「農地が荒らされていたのに、一人で対処したんですか」
「……知っていたんですか」
「朝、見ました」
見ていたなら言えばよかった、と思ったが、声には出さなかった。レオンの横顔が少し険しかった。
「なぜ賠償を取らなかったんですか」
「取っても、相手に払えるお金がないので。実を取りたいなら、別の方法を選ぶ方が合理的です」
「……それは正しいかもしれないですが」
「正しくないと思いますか」
レオンがしばらく黙った。黙り方が、どちらとも言えない黙り方だった。
「……正しいとも思います。でも」
「でも?」
「……その男が、また来るかもしれないです」
「来たら、また話せばいいです。雇った手前、来るなとも言えないですし」
「……農地を荒らした相手を雇うのは」
「荒らしたのは一度です。理由がある行動でした。繰り返すかどうかは、環境次第です。環境を変えれば、繰り返す理由がなくなります」
「……合理的ですね」
「合理的かどうかは、まだわかりません」
少し間があった。
「レオンさんは、賠償を取った方が良かったと思いますか」
少し経ってから、聞いた。
「……わかりません。俺だったら、どうしたかわからない」
正直な答えだと思った。正解を言わなかったことが、正しかった気がした。わたしも、これが正解かどうかはわからない。わからないまま決めた。それだけのことだ。
レオンが少し遠くを見ていた。踏み荒らされた農地の方向を、じっと見ていた。何を考えているのかはわからなかった。聞かなかった。
◇◇◇
その日の夜、農業記録ノートに追記をした。
計画変更:五月末移動→六月末以降に延期。理由:土壌改良の人員確保のため。
書き終えてから、ペンを止めた。
商人ギルドから届いていた一枚の手紙を取り出した。数日前に受け取っていたが、開けるのを後回しにしていた。
宮廷医師団の補給担当者からの問い合わせだった。「エル・ファーム名義で登録されている薬草の供給についてお尋ねしたい」という内容だった。
宮廷医師団。
王都の薬草供給に、わたしの農地が関わりつつある。それは計算になかった。
とりあえず、返答は明日に考えよう。今日は計算外が多すぎた。一度に処理できる変数には限度がある。




