第4話 野菜が売れた日
春告げ菜が、全部売れた。
ガルバナ通りの市場の朝、わたしは荷車に積んだ二十箱の春告げ菜を並べた。下位組合の仲介業者が買い取り価格を告げた。銀貨三枚一箱。合計で金貨六枚相当。
思ったより高かった。
理由を聞いたら、「今年は春告げ菜の出回りが遅いからです。御農園の品が王都で最初の入荷でした」と言われた。
たしかに今年は寒さが続いた。他の農家より早く植えていたのは、農地の南向き傾斜を利用した日当たり設計のおかげだ。三年前から土壌改良を重ね、日照角度を計算して畝の向きを決めた。意図した結果ではあったが、こういう形で報われるとは思っていなかった。
根を張ったものは、ちゃんと報われる。
時間がかかるだけで、必ず。
帰り道、ジョウロを新しいものに買い替えた。錆びかけたやつとは、今日でお別れだ。農具小屋に戻ってから古い方を手に取ると、取っ手のところに小さな凹みがあった。どこかにぶつけた記憶がない。三年で自然についた傷だ。長い間ありがとう、と思いながら、資材置き場に寄贈した。まだ使えるので。
市場の帰り道、いくつかの農家の人と少し話した。今年の天候のこと、土の状態のこと。ガルバナ通りの商人が「最近エル・ファームの品は評判がいいです」と言ってくれた。まだ始めたばかりだが、じわりと実績が積まれている感覚があった。
◇◇◇
午後、仲介業者から面白い話を聞いた。
ダミアン第三王子が先週末に主催した園遊会で、食材の調達が一部失敗したらしい。名物として出す予定だった春告げ菜のサラダが、食材不足で出せなかった。招待客に「豪華な宴を開くと聞いていたが」と囁かれ、担当者が大変だったという。
「原因は?」とわたしが聞いた。
「うちが長年使っていた農園が急に取引を停止したせいです。後継ぎの農園をすぐには見つけられなくて」
取引停止した農園が以前うちの農地に卸していた業者と同じかどうかはわからない。でも、おそらく関係はある。エル・ファームが商人区から離れたことで、取引の連鎖がどこかで止まった。
「そうですか」
わたしは言った。それ以上は何も言わなかった。
特に感慨があったわけではない。というより、感慨を持つほどのことでもない、という気がした。残念だとも思わなかった。ただ「そういうことになりましたか」と、ノートにでも書きたいような、淡い確認の感覚だった。
植えた種が実を結んだ、という感覚とは少し違う。腐葉土になった、という感覚に近い。何かが地面に還って、いつか別の何かが育つ土になる。それだけのことだ。
仲介業者が「また何か困ったことがあれば相談に来てください」と言った。わたしは「はい、段階を踏んで」と答えた。
◇◇◇
農地に戻ったら、雑草が整理されていた。
わたしが今朝出発する前、まだ抜いていなかった場所だ。境界線近くの野薔薇の根元に絡みついていた蔓草が、きれいに除去されている。
誰が、とは聞かなくてもわかった。
レオンの警備の範囲は、本来は屋敷の周囲だ。農地は範囲外のはずだ。にもかかわらず、明らかに手が入っている。蔓草の除去の仕方が、わたしのやり方と少し違う。根から引き抜くのではなく、地表を切る形で対処している。騎士の剣の扱い方に近いやり方だ。
農作業の経験はない人が、自分なりに考えてやってくれた跡だとわかった。
「……ありが」
声を出しかけた。
出なかった。喉のあたりで止まった。「とう」が続かなかった。
種入れ壺を棚に戻しながら、違う言葉を探した。
「奇麗になってますね」
「……気づきましたか」
レオンが少し遠くから答えた。顔をこちらに向けていなかった。
「やっていただいたんですか」
「……暇だったので」
暇だったので、という顔ではなかった。暇だったので、という答えを用意するのに少し時間がかかっていた。
夕暮れの光の中で、農地の境界線がきれいに見えた。雑草がないと、冬麦の列がよく見える。
「ありがとう、と言えればよかったんですが」
「……え」
「うまく言葉が出ないので。これ、どうぞ」
さっき市場の帰りに買った蕪を一本、渡した。
レオンが受け取った。少し間があった。
「……蕪ですか」
「今日一番よく育ったやつです。土が良かったせいで、型が揃っています。商品価値としてはこちらより少し小さいやつの方が高いんですが、今日はお礼なので一番良いやつを選びました」
「……なぜそんな細かく」
「農業はデータが大事なので」
「……そうですか」
また間があった。今度の間は少し長かった。レオンがどんな顔をしているか、振り向かなかったのでわからなかった。
わかりたくなかったわけではないが、振り向く理由が見つからなかった。——いや、正確には、振り向いた後どんな顔をすればいいかが、わからなかった。
◇◇◇
夜、農業記録ノートに今日の収益を書き込んだ。
春告げ菜の完売。金貨換算で六枚。ジョウロの購入と蕪一本の差し引きで、実質的にはもう少し下がる。来週からは薬草の乾燥作業が始まる。乾燥棚の確認と、出荷用の袋の手配が必要だ。出荷タイミングは月末が良さそうだ。相場が上がる前に取引を確定させておきたい。
計算を書き連ねながら、ふと手を止めた。
暇だったので、という言葉を反芻した。
暇だったので。
——暇だったので、の顔じゃなかった。それはわかった。ではどんな顔だったかというと、それはよくわからなかった。
まあ、わからなくていいことだ。
わからなくていいことだが、少し気になった。なぜ気になるのかは、明日の朝に考えよう。今日の計算が先だ。
ノートを閉じてから、農具小屋の入り口から空を少し見た。
冬の終わりの空は、まだ少し白かった。でも昨日より少しだけ青が深い気がした。春が来ている。春が来たら、次の作物を植える。次の収益を計算する。次の計画を立てる。
計画は好きだ。段取りを組むと、頭が落ち着く。農業もそうだし、生活もそうだし、人間関係もそうだと思っていた。必要なことを整理して、順番を決めて、ひとつずつこなしていけば、大抵のことは何とかなる。
でも最近、計画に入っていない何かが増えてきた気がする。
春告げ菜が予想より高く売れたことではない。そういう計算外は、嬉しい誤算だ。そうではなくて。
蕪を渡した後、レオンがどんな顔をしたか気になっていること。それが計画に入っていない。
まあ。とりあえず、今日はここまで。明日の朝に棚の確認から始めよう。




