第3話 とりあえず麦を植える
翌朝から、作業を始めた。
とりあえず、麦から。
冬麦の根元をひとつひとつ確認して、土が締まりすぎている部分を軽く鋤き返す。前日の風で水分が少し飛んでいたので、ジョウロで補う。錆びかけたジョウロは重かったが、使えた。取っ手が少し斜めになっているのが気になるが、今は今あるもので間に合わせる。
根を張るには時間がかかる。でも根を張ったものは、そうそう倒れない。
農作業には順番がある。まず土の状態を見る。次に植物の状態を見る。何が足りないかを判断する。補う。待つ。それだけのことの繰り返しだ。前世の研究員時代、主任に「農業は観察の積み重ねだ」と言われた。当時は当たり前のことを言う人だと思っていた。今は、正確な言葉だと思う。
春告げ菜の種まきは、もう少し先でいい。今の気温だと発芽まで時間がかかりすぎる。薬草の方が優先だ。ハーブティー向けの乾燥薬草は単価が高く、商人区でも需要がある。葉先の傷みを確認しながら、今週の作業計画を頭の中で組み立てた。
「……なぜ今日も令嬢が土を触っているのですか」
声がした。
顔を上げると、例の黒髪の騎士がいた。昨日と同じ位置に立っている。
「昨日と同じ理由です。農地の確認です」
「昨日は断罪の前日でした」
「今日は断罪の翌日です」
「……どちらにせよ」
「どちらにせよ、麦は育ちますよ。麦に断罪は関係ないので」
騎士が黙った。
返す言葉を探している顔だった。わたしは薬草の列に視線を戻した。葉の端に少し傷みが出ている。霜焼けかもしれない。対処法を頭の中で並べながら、話を続けた。
「あなたは今日も警備ですか」
「……はい」
「そうですか。お疲れ様です」
「……どうも」
そのまま少し間があった。騎士は立ち去らなかった。去るタイミングを失ったのかもしれない。
「名前を聞いてもいいですか」
「……レオン・シルヴェスタです。守備隊の平騎士です」
「エルゼ・フォン・アルベルトです。令嬢ではなくなりましたが、名前はそのままです」
レオンが少し首を傾げた。「令嬢ではなくなった」という表現を処理しているのかもしれない。
「……これから、ここにいるんですか」
「予定では」
「……そうですか」
また間があった。
「農業は、楽しいですか」
少し考えた。楽しい、という言葉が当てはまるかどうか、測っていた。
「好きです。楽しい、とは少し違うかもしれないですが」
「……違うんですか」
「土は答えてくれないので。楽しい、という気持ちが生まれる前に判断が来ます。でも、そのやりとりが好きです」
レオンが黙った。今度は、なんとなく聞いてよかった、という顔をしていた気がした。
「……令嬢は、農業が好きなんですね」
少し経ってから、言った。
「前世でもやっていたので」
「……前世」
「比喩です。昔からやっていた、という意味で」
「……そうですか」
しばらく間があった。
「……俺は、農業は向いてないと思います。剣の方がまだわかる」
それは聞いていないが、なんとなく答えてしまった情報だった。
「剣はできるんですか」
「一応、騎士なので」
「そうですか。でも農業も変数が多いですよ。剣と似ているかもしれないです。相手の状態を読んで、判断して、動く」
「……農業と剣を一緒にする人は初めてです」
「比喩が下手なので。土で育ったので、何でも土に返したくなるんです」
レオンが何か言いかけて、止まった。そのまま、警備に戻った。去り際に少し振り返るような素振りをしてから、結局振り返らなかった。
農地の土を一握り取る。乾き具合を確かめる。明日の朝にジョウロをもう一回通した方がいいかもしれない。
◇◇◇
商人区のガルバナ通りまで行ったのは、それから三日後だった。
「エル・ファーム」の名義で仮登録してあった商人ギルドの下位組合に、正式な取引申請を出す。担当者は中年の男性で、農地の規模を聞いて「小さいですね」と言った。そのとおりだ。今は小さい。根を張る段階だ、と思ったが、声には出さなかった。
申請は受理された。
担当者が「将来的には上位組合への昇格も可能ですが、まず実績が必要です」と言った。わかっている、と思ったが、「はい、段階を踏みます」とだけ答えた。今日植えた種が来年収穫されるように、実績も一年かけて積み上げる。急いでも根が浅くなるだけだ。
帰り道、ガルバナ通りの市場を歩いた。野菜の値段を確認する。根菜が今は高い。薬草の相場はまずまずだ。春になれば春告げ菜も出回るが、早い時期に出せれば価格は高くなる。市場で働く人たちの手を横目で見ながら歩いた。みんな荒れた手をしていた。
計算が頭の中で動いていた。
◇◇◇
夕方、農地に戻ってきたとき、光の角度が変わっていた。
冬の斜光が農地に差し込んでいて、冬麦の先端が少し金色に見えた。土の匂いが、夕暮れの冷えとまじって立ち上ってくる。
「……好きだな、この匂い」
独り言が出た。
出てから、少し驚いた。
「好き」という言葉が出てくるとは思っていなかった。計算で始めた農地だ。逃げるための農地だ。好き、という感情を持つ予定はなかった。というより、そういう感情がここに向けられるとは、計算していなかった。
まあ。
まあ、土の匂いが好きなのは前世からだから、当然といえば当然かもしれない。前世の農業試験場でも、朝一番に試験圃場に入ったとき、この感覚があった。ゴム長靴を履いて、土の湿った地面を踏んで、白い息を吐きながら育ち具合を確認する、あの朝。
言い訳のように説明してみたが、自分でも少し苦しい気がした。
計算外のことが、少しずつ増えている気がする。計算を立て直す必要があるかもしれない。とりあえず今日は、薬草の葉先の傷みの対処が先だ。
農地の端で、気配がした。
振り返ると、レオンが立っていた。いつの間に来たのか。少し距離があったせいで、独り言が聞こえたのかどうかわからなかった。
目が合った。
レオンは何も言わなかった。少し間があってから、いつもの位置に戻って警備を続けた。
その横顔が、なんとなく、少しだけ——柔らかい気がした。
気のせいかもしれない。夕光の加減だ、とわたしは判断した。
そういうことにしておいた方が、今日の残りの作業に集中できる。薬草の葉先の対処がある。種入れ壺の整理がある。明日のジョウロの補充ルートを考える必要がある。
夕暮れの農地に、冬麦の揺れる音だけがしていた。
……まあ、悪くない夕方だ。計算外だが、悪くない。




